大学進学を機に、俺、佐伯和也が一人暮らしを始めたのは、都心から少し離れた場所にある木造アパートだった。破格の家賃が決め手だったが、内見の際、やけに人の良さそうな大家の老婆から、たった一つだけ奇妙な条件を出されたのを覚えている。
「佐伯さん、この部屋にはね、一つだけ守ってほしいことがあるんです」
しわがれた声で、彼女は部屋の隅に置かれた大きな姿見を指差した。古めかしいが、立派な木彫りの装飾が施されている。
「夜になったら、必ずこの鏡に布をかけておくれ。それから……絶対に、洗面所の鏡と向かい合わせにしちゃいけない。合わせ鏡は、よくないものを呼び込むからねぇ」
迷信だろう。そう思いながらも、俺は愛想よく頷いた。
新生活の慌ただしさの中で、大家の忠告などすぐに頭から抜け落ちていた。引っ越して最初の夜、荷解きの疲れから、俺は姿見に布をかけることも、その向きを気にすることもなくベッドに倒れ込んだ。姿見は、開け放たれた洗面所のドアの先にある小さな鏡と、偶然にも真っ直ぐに向かい合っていた。
翌朝、特に変わったことはなかった。ただ、部屋の隅に、靴で踏んだ覚えもない黒い泥のようなシミが一つ、ぽつんと付着しているのが少し気になっただけだ。
異変は、本当に些細なことから始まった。
合わせ鏡にしてしまった翌朝には、決まって部屋の何かが少しだけ動いているのだ。テーブルの上のマグカップが数センチずれていたり、壁に立てかけておいたギターが僅かに傾いていたり。そして、床の泥のシミが、ほんの少しだけ大きくなっている。
気のせいだ、疲れているんだ。そう自分に言い聞かせた。しかし、三日目の夜、俺は物音で目を覚ました。
ギシッ……。
木造アパート特有の、床が軋む音。だが、それは明らかに部屋の中から聞こえていた。俺以外の誰もいない、この部屋の中から。息を殺して暗闇に目を凝らすが、動くものは何もない。ただ、じっとりとした視線のようなものを、全身で感じていた。
その時、脳裏に大家の言葉が蘇った。俺はベッドから転がり落ちるようにして、近くにあったバスタオルを掴むと、姿見に乱暴に被せた。心臓が今にも張り裂けそうだった。
不思議なことに、鏡に布をかけた翌朝は、何も起こらなかった。物が動いた形跡もなく、泥のシミも増えてはいない。俺はようやく、あの忠告が単なる迷信ではないことを悟った。
それから一週間、俺は律儀にルールを守り、平穏な夜が続いた。あの夜の恐怖も薄れ、慣れというものが顔を出し始めた頃、事件は起きた。
サークルの飲み会で、俺は終電を逃すほど飲んでしまった。タクシーでアパートに帰り着いた時には、もう午前二時を回っていた。酔いと眠気で頭は朦朧とし、大家の忠告など欠片も思い出さなかった。着替えもそこそこにベッドへ倒れ込み、深い眠りに落ちた。
……どれくらい時間が経っただろうか。
ふと、尿意で意識が浮上した。寝ぼけ眼で身体を起こすと、月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、例の姿見が目に入った。
そして、凍りついた。
鏡の中に、「俺」がいた。
ベッドで眠っているはずの俺が、鏡の中では、その縁に両手をついて、こちらを……ベッドで呆然としている俺を、無表情でじっと見つめているのだ。
声が出ない。身体が鉛のように重く、指一本動かせない。金縛りだ。
鏡の中の「俺」が、ゆっくりと口の端を吊り上げた。それは、俺が知らない、歪で、底意地の悪い笑みだった。違う、あれは俺じゃない。
次の瞬間、俺は信じられない光景を目撃した。鏡の中の「何か」が、まるで水面から上がるように、鏡の表面からこちら側へ、じわり、じわりと滲み出てこようとしているのだ。鏡面が粘液のように歪み、その向こうから黒い人影が、現実の世界へとその身を乗り出してくる。
「あ……あああああああっ!」
縛られていた身体が、恐怖の絶頂で解放された。俺は絶叫し、もつれる足で玄関のドアに体当たりすると、パジャマ姿のまま外へ転がり出た。後ろを振り返る余裕など、なかった。
その日は、始発までコンビニで震えながら夜を明かし、友人のアパートへ逃げ込んだ。事情を話しても、酔っ払いの悪夢だと笑われるだけだった。
翌日の昼過ぎ、俺は覚悟を決め、恐る恐る自分の部屋のドアを開けた。
「……え?」
部屋は、もぬけの殻だった。
俺が汗水垂らして運び込んだベッドも、テーブルも、本棚も、服の一枚すら残っていない。まるで最初から誰も住んでいなかったかのように、がらんどうだった。
ただ一つ、部屋の真ん中に、あの姿見だけが、ぽつんと佇んでいた。
吸い寄せられるように、俺は姿見に近づいた。自分の足音が、やけに虚しく響く。そして、鏡を覗き込んだ瞬間、俺は息を呑んだ。
鏡面には、がらんどうの部屋ではなく、「俺の部屋」が映っていた。
見慣れた家具、散らかった雑誌、壁のポスター。全てが元通りにそこにある。
そして、ベッドの上には「俺」が座っていた。
鏡の向こうの「俺」は、こちらを覗き込む俺の顔を認めると、にたり、と笑った。昨日見た、あの歪な笑みだ。そして、ゆっくりとこちらに向かって、親しげに手を振った。
その時、俺は理解してしまった。
合わせ鏡は、二つの世界を繋げる扉だったのだ。そして、住人を「交換」する罠だったのだ。俺がいた世界は、何もかもが鏡の中に閉じ込められてしまった。
鏡の向こうで、「俺」の姿をした「何か」が立ち上がる。現実の世界に足を踏み入れたそいつは、満足そうに部屋を見渡し、床に目をやった。
がらんどうの部屋の隅。昨日までは何もなかったはずのその場所に、新しい泥のシミが、じわりと広がっていた。
合わせ鏡の住民
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