大学進学を機に俺が越してきたアパートは、都心から少し離れた、古びた木造二階建てだった。破格の家賃が決め手だったが、不動産屋が妙に口ごもっていた理由が、入居初日にわかった。玄関のドアの内側に、二枚の張り紙があったのだ。
一枚は、よくある管理会社からの注意書き。「夜十時以降は騒音にお気をつけください」。だが、問題はその下に貼られた、黄ばんで角が擦り切れた手書きの紙だった。そこには、震えるような筆跡でこう書かれていた。
『万が一、夜十時以降に音を立ててしまった場合、決して、決して振り向いてはならない』
悪趣味ないたずらか、前の住人が残した奇妙な置き土産だろう。俺はそう結論づけて、その張り紙を笑い飛ばした。
最初の異変は、引っ越して三日目の夜に起きた。深夜一時を過ぎ、課題のレポートに追われていた俺は、不意に手を滑らせ、机の上のマグカップを床に落としてしまった。ガシャン! という派手な音が、静まり返った部屋に響き渡る。
「しまった……」
慌てて拾おうとした瞬間、脳裏にあの張り紙の文句が蘇った。『決して振り向いてはならない』。馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、背筋に冷たいものが走る。心臓が嫌な音を立て始めた。まるで、暗闇の向こう側で「何か」が息を潜め、こちらを窺っているような、濃密な気配。
気のせいだ。俺は自分に言い聞かせ、ゆっくりと床の破片に手を伸ばした。
その時だった。
背後から、音がした。
──ガシャン!
今、俺が立てた音と寸分違わぬ、マグカップが割れる音だった。誰かがすぐ後ろで、俺の行動を完璧に模倣したかのように。
全身の毛が逆立った。部屋には俺一人しかいない。窓も鍵も閉まっている。だとしたら、この音は一体どこから? 恐怖で体が凍りつき、振り向くことなど到底できなかった。俺は這うようにしてベッドに潜り込み、頭から布団を被った。心臓の音が耳元でうるさく鳴り響いていた。
翌日から、悪夢が始まった。
夜十時を過ぎると、背後から「音」が聞こえてくるようになった。それは、俺がその日に立てた生活音の数々だった。歯を磨くシャコシャコという音。ペットボトルのキャップを開けるキュッという音。くしゃみ。咳払い。まるで録音された音声を再生するように、それらはランダムに、しかし忠実に、俺の背後で鳴り響くのだ。
「それ」は、俺の音を学習している。
その事実に気づいた時、俺は言いようのない恐怖に襲われた。俺は音を立てることを極端に恐れるようになった。食事は音の出ないパンやゼリー飲料ですませ、移動は抜き足差し足。息さえ潜めて、まるで幽霊のように部屋で過ごした。
だが、努力は無意味だった。
ある夜、静寂の中で俺の腹がぐぅ、と鳴った。すると間髪入れず、背後から「ぐぅ」と音が返ってくる。さらに数秒後、俺自身の心臓の鼓動と重なるように、背後から「ドクン、ドクン」という低い音が聞こえ始めたのだ。
もう限界だった。このままでは気が狂ってしまう。正体不明の「何か」に怯え、自分の存在そのものを消し去るような生活など、続けられるはずがない。
俺は決意した。振り向いてやろう。何が潜んでいるのか、この目で確かめてやる。たとえそれが、どんな恐ろしい結末を迎えようとも。
深夜零時。俺は部屋の真ん中に立ち、大きく息を吸い込んだ。そして、ありったけの力を込めて、床を踏み鳴らした。
ドンッ!!
木造のアパートが揺れるほどの、大きな音。一瞬の静寂の後、背後から寸分違わぬ衝撃音が返ってきた。
──ドンッ!!
来た。俺は歯を食いしばり、ゆっくりと、本当にゆっくりと、首を捻った。ギギギ、と錆びついたブリキの人形のように、体を反転させる。
そこに「それ」はいた。
それは、俺と瓜二つの姿をしていた。俺が今着ているのと同じスウェットを着て、同じ髪型で、同じ身長で。ただ一点、決定的に違う部分があった。
「それ」の顔には、目も鼻も、そして──口がなかった。
のっぺらぼうのような、つるりとした肌がそこにあるだけ。恐怖で声も出ない俺を、口のない「俺」はじっと見つめている。
俺は悲鳴を上げようとした。だが、声帯は震えず、喉から漏れ出たのはか細い空気の音だけだった。
その瞬間、口のない「俺」から、声が発せられた。それは紛れもなく、俺自身の声だった。
「アアアアアアアアアアアアア!」
俺が叫ぼうとした、心の絶叫。それを「それ」が代わりに音にしたのだ。
理解した。「それ」は音を模倣するだけではない。音を学習し、音を喰らい、最後には音の発生源である俺自身の存在すら乗っ取るのだ。俺はもう、音を立てる術を全て奪われた。声も、物音も、心臓の鼓動さえも。
口のない「俺」は、無表情のまま俺の体をすり抜け、玄関のドアノブに手をかけた。そして、俺の明瞭な声で、はっきりとこう言った。
「さて、と。次の音を探しに行こうか」
ガチャリ、とドアが開く。外の空気を吸い込んだ「俺」は、新しい世界へと歩き出した。
部屋には、抜け殻となった俺だけが残された。音のない世界で、永遠に。壁には、あの黄ばんだ張り紙が、まるで墓標のように静かに貼られていた。
残響のアパート
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