午前四時四十四分の司書

午前四時四十四分の司書

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「なあ、聞いたか? 深夜の図書館の噂」
サークルの部室で、拓也が声を潜めて言った。俺、健太は大学に伝わるありとあらゆる都市伝説を収集するのが趣味だ。もちろん、その話も知っている。
「ああ、『禁断の閲覧室』だろ? 午前零時から夜明けまでの間だけ、世界中のどんな本でも読めるっていう」
「それだよ。でも、いくつかのルールを破ると二度と帰ってこられないって話だ」

好奇心は猫をも殺す。だが、そのスリルこそが俺の好物だった。俺は拓也の肩を叩き、にやりと笑った。
「行こうぜ、今夜」
顔を青くする拓也を半ば強引に説得し、俺たちはその日の深夜、固く閉ざされた大学図書館の裏口に立っていた。

噂によると、ルールは五つ。
一、午前零時きっかりに入館すること。
二、館内では決して音を立ててはならない。
三、もし誰かに会っても、絶対に話しかけてはならない。
四、赤い背表紙の本だけは、決して開いてはならない。
五、午前四時四十四分までに必ず退館すること。

スマホの時計が0:00を表示した瞬間、古びた裏口のドアが、まるで手招きするようにギィ…とわずかに開いた。俺と拓也は息を呑み、慎重に中へ滑り込む。
中は異様なほど静まり返っていた。月の光が巨大なステンドグラスを通して差し込み、書架の影を床に長く伸ばしている。その静寂の中、かすかに音がした。本のページをめくるような、乾いた音。
影の向こう、カウンターの奥に人影が見えた。
「……司書?」
拓也が俺の腕を掴む。こんな時間にいるはずがない。その人影は、背中を向けたまま、黙々と何か作業をしているようだった。ルール三が頭をよぎる。『もし誰かに会っても、絶対に話しかけてはならない』。
俺たちは猫のように足音を忍ばせ、目的の『禁断の閲覧室』があるという最上階を目指した。

階段を上る途中、事件は起きた。拓也が何かに躓き、派手な音を立てて床に手をついてしまったのだ。
「いっ……!」
拓也が声を飲み込む。まずい。ルール二、『決して音を立ててはならない』。
その瞬間、一階から聞こえていたページの音がピタリと止んだ。俺たちの背筋を、氷のような悪寒が駆け上る。ゆっくりと振り返ると、階段の下の暗がりに、あの司書が立っていた。さっきまでカウンターにいたはずなのに。
月明かりがその姿をぼんやりと照らす。だが、おかしい。顔があるべき場所は、のっぺりとした卵のように滑らかで、目も鼻も口もなかった。

「うわあああっ!」
拓也が悲鳴を上げた。俺は拓也の腕を引ったくり、無我夢中で階段を駆け上がった。背後から、ずる、ずる、と何かを引きずるような音が追いかけてくる。
「健太! どうなってんだよ!」
「知るか! とにかく閲覧室だ!」
最上階の突き当たり、『特別閲覧室』とプレートが掲げられた重厚な扉にたどり着いた。鍵はかかっていない。俺たちは中に転がり込み、すぐさま扉を閉めた。
部屋の中は、奇妙なほど整然としていた。中央に置かれた一つの机と椅子。そして、壁一面を埋め尽くす本棚。その一角だけ、まるでスポットライトが当たっているかのように、数冊の本が際立って見えた。おそらく、これが噂の『どんな本でも読める』本なのだろう。
だが、その中に一冊だけ、血のように禍々しい赤色の背表紙をした本があった。ルール四、『赤い背表紙の本だけは、決して開いてはならない』。
ドンドンドン!
扉が激しく叩かれる。あののっぺらぼうの司書がすぐそこまで来ている。
「もうダメだ……殺される……」
絶望する拓也の横で、俺は必死に頭を回転させていた。ルール、ルールだ。何か見落としていることがあるはずだ。ルールを破ったから襲われている。だが、ルール三は『話しかけてはならない』だった。『話しかけられてはならない』とは書いていない。
これは賭けだ。
俺は意を決して扉を開けた。目の前には、のっぺらぼうの司書が立っている。俺は震える声で、しかしはっきりと叫んだ。
「すみません! 本を探しているんですけど!」

ピタリ、と司書の動きが止まった。
ずる、ずる、という不気味な音も止む。のっぺりとした顔が、わずかにこちらに傾けられた。そして、信じられないことに、その滑らかな表面に亀裂が走り、ゆっくりと口が裂けていった。
「……ナニヲ、オサガシ、デスカ?」
合成音声のような、ひび割れた声だった。恐怖で腰が抜けそうになるのを堪え、俺は続けた。
「ええと……この図書館の、本当の歴史が書かれた本を!」
すると司書は、ゆっくりと俺たちの横を通り過ぎ、閲覧室の本棚へ向かった。そして、あの禍々しい『赤い背表紙の本』をこともなげに抜き取ると、俺に差し出した。
「ドウゾ」
俺は恐る恐るそれを受け取る。表紙には何も書かれていない。ルールを破ることになるが、もう後戻りはできない。俺が本を開くと、そこに書かれていたのは、小説でも歴史書でもなく、ただ一枚の古い貸出カードだった。
『貸出:午前四時四十四分 返却:未定』
そして、借り主の名前の欄には、俺と拓也の名前が震えるような筆跡で記されていた。
ゾッとした。これは本じゃない。俺たち自身をこの図書館に貸し出すための契約書だ。そして、午前四時四十四分は、閲覧終了時刻ではなく、貸出が執行される時間なのだ。
スマホを見ると、時刻は四時四十分を指していた。
「拓也! これを返却しないと出られないんだ!」
「返却ってどうやって!」
「司書に返すんだよ!」
俺は赤い本を司書に突き返した。「ありがとうございました! 返します!」
司書は無言で本を受け取ると、元の棚に戻した。そして、またのっぺらぼうのまま、ゆっくりと暗闇の中へ消えていった。

俺たちは脱兎のごとく図書館を飛び出し、夜明け前の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。生きてる。助かったんだ。
朝日が昇り始め、俺たちが日常に戻れたことを確信した、その時だった。
ポケットに何か硬い感触があるのに気づいた。取り出してみると、それは一枚のプラスチックカードだった。大学図書館の、貸出カード。
俺の名前が印字されたそのカードの裏には、こう書かれていた。

『次回のご利用を、心よりお待ちしております』

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