大学で古文書学を専攻する俺、水沢健太は、歴史とは静的なものだと信じていた。インクの染みや紙魚(しみ)の跡が語る、決して変わることのない過去の記録。そう、祖父の遺品の中から、あの奇妙な懐中時計を見つけるまでは。
銀製のそれは、ずしりと重く、文字盤には十二支と不可解な記号が刻まれていた。竜頭を引くと、ガラスの内側で青い光が灯り、一本の針が震えながら特定の方角を指し示した。添えられていた祖父のメモには、震えるような筆跡でこう書かれていた。
『歴史の歪みを正せ。ただし、天正十年六月二日、織田信長を救うな』
意味が分からなかった。本能寺の変。歴史の教科書に載っている、確定された事実。それを「歪み」と呼びながら、なぜ「救うな」と命じるのか。矛盾した遺言の謎を解きたい一心で、俺は懐中時計が指し示す京都の古い神社の跡地へと向かった。時計の針が激しく回転し始めたかと思うと、次の瞬間、俺は燃え盛るような夕焼けと、土と草いきれの匂いに包まれていた。
目の前には、幟(のぼり)を掲げた武士の行列。聞こえてくる言葉は、時代劇でしか聞いたことのないアクセント。どうやら俺は、本当に飛んでしまったらしい。天正十年、本能寺の変が起こる、わずか数時間前の京の都へ。
恐怖と興奮が入り混じる中、俺は宿を探し、本能寺の場所を確認した。歴史を変えるつもりはない。ただ、この目で真実を見届けたい。しかし、運命は俺を傍観者にしてはくれなかった。夜更け、町を偵察していると、黒装束の一団が俺を取り囲んだ。彼らの動きは人間離れしており、闇に溶けるように現れた。
「時渡りの者か。貴様の持つ『羅針盤』を渡せ」
リーダー格の男が、金属的な響きの声で言った。絶体絶命。その時、一陣の風と共に、別の影が現れた。
「待たれよ。その者は我らが客人だ」
月光に照らされたのは、苦みばしった顔の武将。兜の意匠は、桔梗紋。まさか、明智光秀……!
光秀に助けられた俺は、彼の陣屋に連れていかれた。そこで聞かされた話は、俺の歴史認識を根底から覆すものだった。
「今、本能寺におわす御方(おんかた)は、もはや我らの知る上様にあらず」
光秀は静かに語った。数ヶ月前、信長は原因不明の病に倒れた。そして回復した後、彼はまるで別人のようになったという。未来の知識を口にし、不可解な「からくり」を使い、常軌を逸した速度で天下統一を進め始めた。
「上様は、『時渡り』と名乗る何者かに、その魂魄(こんぱく)を喰われておられる。このままでは、日の本は人の手によらぬ、歪んだ未来へと導かれよう」
黒装束の連中は、偽の信長に仕える者たち。彼らもまた、未来から来た技術で強化された「忍」なのだという。そして、祖父が属していた「歴史修正者」と呼ばれる一族は、密かに光秀と接触し、この歴史改変を防ごうとしていたのだ。
「信長を救うな」。その言葉の意味が、雷のように俺の脳を撃ち抜いた。救うべきは信長ではなく、彼に乗っ取られた「歴史」そのものだった。
「俺に、何ができますか」
「そなたの持つ『羅針盤』。それは時空の座標を示すだけでなく、時空のエネルギーを乱す力を持つと聞く。偽の上様が使う『からくり』の力の源は、未来から送られる『ゲート』と呼ばれるエネルギー。それを乱せば、奴の力は封じられるはず」
光秀が起こす「本能寺の変」。それは、歴史通りの謀反ではない。偽りの王を討ち、未来の侵略を阻止するための、人類史を懸けた防衛戦だったのだ。祖父のメモの『G』は、『Gate』のGだったのか。
夜明け前、鬨(とき)の声が上がり、明智軍が本能寺になだれ込んだ。俺は光秀の手引きで、燃え盛る本堂の地下へと潜入した。そこには、およそ戦国時代には似つかわしくない、青白い光を放つ機械が鎮座していた。これがゲート。偽の信長が君臨する玉座の真下で、彼の力の源となっていた。
「来たか、過去の遺物め」
背後に、冷たい声が響いた。振り返ると、そこにいたのは織田信長。だが、その目は人間的な熱を失い、冷たいガラス玉のようだった。
「愚かな。この私が創る完璧な歴史こそが、人類の至宝となるものを」
偽の信長が手をかざすと、周囲の空間が歪み、俺の体に重圧がかかる。これが未来の力。だが、俺は懐から羅針盤を取り出し、竜頭を回した。
「悪いが、俺は不完全で、間違いだらけの、人間が作った歴史の方が好きなんでね!」
叫びと共に、羅針盤から放たれた黄金の光が、ゲートの青い光と激突した。火花が散り、空間が悲鳴を上げる。偽の信長が苦悶の表情を浮かべた。彼の体が半透明になり、未来の技術で作られた鎧が崩れていく。
「おのれ、修正者……!」
断末魔の叫びと共に、偽の信長の姿がゲートの光の中に吸い込まれ、消滅した。同時に、ゲートも暴走を始め、眩い光を放って収縮していく。俺は燃え落ちる梁を避けながら、必死で地上へと脱出した。
外に出ると、本能寺は紅蓮の炎に包まれていた。歴史通り、織田信長は炎の中でその生涯を終えた、ということになるのだろう。光秀は俺を一瞥し、静かに頷くと、部隊を率いて去っていった。彼の背負う「謀反人」という汚名は、歴史を守った英雄の仮面なのだ。
気がつくと、俺は再び現代の神社の跡地に立っていた。手の中の懐中時計は、熱を失い、静かに時を刻んでいる。
家に帰り、祖父のメモを改めて見返した。走り書きの最後に、小さな文字が書き加えられていることに気づいた。
『最初の任務、ご苦労。次は、紀元前四世紀、マケドニアで会おう』
時計の針が、再びゆっくりと動き始める。俺の退屈だった日常は、終わった。歴史とは、決して静的な記録などではない。それは、無数の時間軸で繰り広げられる、壮大な戦いの舞台なのだ。そしてどうやら俺は、その最前線に立つチケットを手にしてしまったらしい。
クロノスの羅針盤と本能寺のG
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