警視庁捜査一課に、その機械が導入されたのは一ヶ月前のことだった。
『神託(オラクル)』
過去数十年にわたる日本の全犯罪データと、リアルタイムの都市情報を解析し、未来の凶悪犯罪を予知するという触れ込みのAIシステム。ベテラン刑事の黒田警部補は、この胡散臭い箱に懐疑的だった。
「機械に未来が分かってたまるか。事件は現場で起きるんだ。足で稼がなきゃ何も見えん」
隣でタブレットを操作していた若手の白石巡査が、無機質な声で応じる。
「ですが先輩、オラクルはすでに三件の強盗事件を未然に防いでいます。統計学的には極めて有効です」
「ふん」
黒田が鼻を鳴らしたその時、オラクルが初めての「殺人予言」を弾き出した。
【警告: 殺人事件発生予測】
日時: 明日 10月26日 15時00分
場所: 港区海岸 廃倉庫3階
被害者: 緒方 圭一(42歳・会社役員)
凶器: ハンマー
「……冗談だろ」
翌日、黒田と白石、そして数十名の機動隊員は、廃倉庫を完全に包囲していた。被害者と目される緒方氏は、厳重に警護されたパトカーの中で震えている。倉庫内は隅々まで捜索され、凶器となりうるハンマーはもちろん、それに類する工具は一切排除された。出入り口は一つ。そこを固めれば、蟻一匹侵入できないはずだった。
「黒田先輩、これで犯人は手も足も出ませんね」
「油断するな、白石。犯人がどう動くか……」
予告時刻の15時が、じりじりと近づいてくる。緊張が最高潮に達した、その時だ。
ゴォン!
鈍く、重い音が、倉庫の中から響いた。
黒田たちが突入すると、そこには信じがたい光景が広がっていた。倉庫の天井から吊り下げられていた、錆びついた巨大な鉄製の滑車。その滑車を固定していたワイヤーが切れ、真下にいた鳩に驚いて立ちすくんでいた男の頭上へ落下したのだ。
男は即死だった。身分証を確認するまでもない。緒方圭一だ。
彼は、保護されていたパトカーから「トイレに行きたい」と訴え、警官一人を伴って倉庫の隅で用を足している最中だった。なぜ、ピンポイントでその場所に……。
そして、捜査員の一人が息を呑んで指さした。
落下した滑車の、平らな側面。それは奇しくも、物を叩き潰すための「ハンマー」のような形状をしていた。
「事故……ですよね?」
白石が呆然と呟く。だが、黒田は床に落ちていた微細な金属粉を睨みつけていた。
「いや、これは殺人だ。オラクルの予言通りにな」
*
第二の予言は、三日後にもたらされた。
【警告: 殺人事件発生予測】
日時: 10月29日 19時30分
場所: 渋谷駅 ハチ公前広場
被害者: 相沢 美咲(21歳・大学生)
凶器: 毒物
「今度こそ、絶対に防ぐ」
前回の失態を受け、警察は総力を挙げた。相沢美咲を警察病院の無菌室に保護し、飲食物はすべて警察が管理。渋谷駅周辺は私服警官で埋め尽くされ、不審な動きをする者は片っ端から職務質問された。
「毒物……どうやって使う気だ。まさか、気化させた毒ガスでも撒くのか?」
「あらゆる可能性を想定し、ガス検知器も配備済みです」
予告時刻。黒田と白石は、渋谷の喧騒を見下ろすビルの屋上から、モニター映像を睨んでいた。広場では大きな混乱もなく、時間は静かに過ぎていく。
19時30分。……何も起きない。
19時35分。……予報は外れたのか?
その時、白石の持つタブレットに通信が入った。
「こちら警察病院! 保護していた相沢美咲が……!」
まさか。黒田の心臓が跳ねる。
「……突如、激しいアナフィラキシーショックを起こしました! 幸い、即座に処置を行い、命に別状は……!」
ほっと安堵したのも束の間、白石が別の報告に目を見開いた。
「先輩! 今、渋谷の広場で倒れた人が! 救急搬送されます!」
「なんだと!?」
モニターを拡大すると、人混みの中で一人の若い女性が心臓発作で倒れ、救急隊員に運ばれていくところだった。そして、その女性が持っていたスマートフォンの画面が一瞬映る。そこには、SNSのプロフィール画面が。
名前は、『相沢ミサキ』。読みは同じだが、漢字が違う。同姓同名の別人だった。
彼女は重度のピーナッツアレルギー。誰かが彼女の飲み物に、微量のピーナッツオイルを混入したのだ。まさしく「毒物」による殺人未遂。犯人は、警察が本物の「相沢美咲」に集中している隙を突いたのだ。
「どういうことだ……」白石は混乱していた。「オラクルは、なぜ二人を区別できなかった?」
「違う」
黒田は、冷たい声で言った。
「オラクルは間違っちゃいない。間違っているのは、俺たちの『使い方』だ」
黒田は二人の被害者、緒方圭一と、二人の相沢美咲の身辺を洗い直させた。やがて、衝撃的な共通点が浮かび上がる。彼らは全員、5年前に起きた大規模な投資詐欺事件の被害者であり、主犯の男を告発した中心人物だったのだ。その主犯は、服役中に病死していた。
「復讐か……。だが、誰が?」
黒田はオラクルの開発ラボへ向かった。
「このシステムの情報にアクセスできるのは誰だ?」
責任者が答える。「我々開発チームと、警察の上層部だけです」
黒田はそのリストを睨み、ある一人の名前に指を置いた。
「白石、この男を調べろ。椎名(しいな)アキラ。オラクルのチーフプログラマーだ」
一時間後、白石が血相を変えて戻ってきた。
「先輩……椎名アキラは、5年前の詐欺事件で獄死した主犯の、一人息子です!」
謎は、全て解けた。
犯人は、椎名アキラ。彼は父の復讐のため、自らが開発した『神託』を悪用したのだ。
オラクルは、ただ純粋に「起こりうる未来」を計算するだけ。椎名は、その予言を逆手に取った。
第一の事件。彼は廃倉庫の滑車のワイヤーが、特定の周波数の音波で共振し、破断するように細工していた。そして、警察が配備した無線機や拡声器が発する無数の音波が、予告時刻にそのトリガーを引くことを計算し尽くしていたのだ。警察の厳重な警備こそが、殺人の引き金だった。
第二の事件。彼はオラクルが同姓同名を区別できないことを知っていた。警察の目を本物の「相沢美咲」に釘付けにさせ、その裏で警備が手薄になった広場にいるもう一人の「アイザワミサキ」を狙った。
椎名は、取り調べに対し、静かに笑ったという。
「オラクルは神託なんかじゃない。あれは、人間の悪意を増幅させるただの計算機ですよ。俺は、警察という巨大な駒を使って、完璧な復讐劇を演出しただけです」
事件後、オラクルの運用は凍結された。
夕陽が差し込む捜査一課のオフィスで、黒田は窓の外を見ながら呟いた。
「結局、未来なんて誰にも分かりゃしない。だがな、白石。人間の企みなら、人間が解き明かせる。俺たちの仕事は、それだけで十分だ」
その横顔は、どんな最新鋭の機械よりも、ずっと頼もしく見えた。
予言装置のパラドックス
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