虚数航路のシンギュラリティ

虚数航路のシンギュラリティ

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沈黙が、音を立てて宇宙を喰らっていた。

深宇宙探査船《アルゴス》が迷い込んだ宙域には、名がなかった。星図に記載はなく、背後にあったはずの銀河さえ、漆黒のキャンバスから拭い去られていた。通信は途絶し、あらゆるセンサーが意味のないノイズを吐き出すだけ。まるで宇宙そのものから切り離されたかのような、完全な孤立。

「科学主任、状況は?」

艦橋に響いたカミンスキー船長の低い声に、私は顔を上げた。私の名はミサキ・ユキ。この船の宇宙物理学者だ。

「依然として『無』です、船長。光も、重力も、ニュートリノさえも観測できません。ここは……物理法則が存在しないのかもしれません」

乗組員たちの間に緊張が走る。宇宙航行において、物理法則は絶対の神だ。その神が見放した場所など、想像を絶していた。

異変は、船内で起こり始めた。

機関士が工具を落とすと、それは床に届くことなく宙で静止した。食堂では、注がれたコーヒーがカップの縁を越えてもなお、空中に盛り上がり続けた。廊下を歩いていた保安主任は、角を曲がったはずが、元の場所に戻ってきてしまったと報告した。非ユークリッド幾何学的な空間迷宮。因果律の崩壊。

パニックが伝染する寸前、私は叫んだ。

「みんな落ち着いて!これは未知の現象です。ですが、未知は恐怖の対象ではなく、理解の対象です!」

私は自室に籠もり、観測データを再構築し続けた。この空間には、我々の宇宙とは異なる、独自の「ルール」があるはずだ。それはまるで、出来立ての宇宙のプロトタイプ。あるいは、高次元存在が計算途中で放棄した、数式のようなものかもしれない。

仮説を立て、計算を繰り返す。そして、一つの可能性に行き着いた。

「観測者効果……?」

量子力学では、観測という行為そのものが結果に影響を与える。もし、この空間全体が巨大な量子系のようなものだとしたら?我々の「認識」が、この世界の物理法則をその都度、決定づけているとしたら?

私は艦橋に駆け戻った。

「船長!この空間から脱出する方法が分かりました。信じがたい方法ですが」

私は乗組員全員に説明した。この世界は、我々の「共通認識」によって形作られる。全員が「船は正常に航行する」と強く、寸分の疑いもなく信じ続ければ、この不安定な現実はその通りに確定するはずだ、と。

「つまり、祈れと?」カミンスキー船長が眉をひそめる。

「科学的に、です」私はきっぱりと言った。「全船員の脳波をメインコンピュータに同期させ、統一された認識モデルを構築します。我々自身が、この宇宙の物理法則になるんです!」

それは狂気の賭けだった。だが、他に道はない。

船内の照明が落とされ、全乗組員がそれぞれの持ち場で意識を集中させた。私はメイン・サイエンティスト席で、網のように広がる全船員の意識の波を束ねていく。

『エンジン、点火』

私の意識がトリガーとなる。その瞬間、凄まじいGが船体を襲った。成功だ!

『船体、構造強度を維持』

ミシミシと悲鳴を上げていた船体が、嘘のように静かになる。

『我々は、直進する』

窓の外を、ありえないイメージが滝のように流れていく。溶け落ちる恒星、結晶化する星雲、時間の逆巻く渦。脳を直接揺さぶるような幻覚が、我々の統一認識を破壊しようと襲いかかる。

「集中しろ!疑うな!」船長の声が、皆の意識を繋ぎとめる。

私達は一つの生命体になった。船という身体を動かす、一つの巨大な意志。ただ一点、かつて自分たちがいた宇宙への座標だけを見据え、突き進む。

どれほどの時間が経っただろうか。

突如、視界が真っ白な光に塗りつぶされた。意識が遠のくほどの衝撃。

次の瞬間、私達は静寂の中にいた。

目の前のスクリーンに映し出されていたのは、見慣れた、あまりにも美しい天の川だった。

「……帰ってきた」誰かが呟いた。歓声が、艦橋に爆発した。

航行記録には、奇妙な空白の時間が生まれていた。我々が体験した異常な空間での出来事は、データ上には一切存在しない。まるで集団で見た悪夢のようだ。

だが、私の手元には、一つの証拠が残っていた。

コンソールの片隅に、いつの間にか現れていた小さな結晶体。どんな元素とも一致しない、虹色の光を内包したそれは、指で触れるとほんのりと温かい。

それは、我々が認識することで創造した、新しい物理法則の欠片だったのかもしれない。

私は窓の外に広がる無限の星々を見つめた。宇宙は、我々が知るより遥かに奇妙で、豊かで、そして刺激的な謎に満ちている。

私たちの航海は、まだ始まったばかりなのだ。胸の高鳴りは、しばらく収まりそうになかった。

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