クロノ・ポストの代償

クロノ・ポストの代償

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***第一章 止まった時計と未来からのチラシ***

神保町の古書店の片隅で、相馬悠人(そうま ゆうと)の時間は止まっていた。三年前、妻の美咲を突然の事故で失ってから、彼の世界は色褪せたセピア色の写真のようになった。埃とインクの匂いが混じり合う静寂の中、背表紙の焼けた本たちだけが、変わらない友だった。店は亡き父から継いだものだが、今では悠人にとって、喧騒に満ちた現実から身を隠すためのシェルターでしかなかった。

美咲が好きだった窓際の席には、今も彼女が使っていたマグカップが置かれている。そこに花を生けるのが、悠人の数少ない日課だった。今日は、淡い紫のスターチス。花言葉は「変わらぬ心」。まるで自分自身に言い聞かせるように、彼は毎日花を選んでいた。

その日、店を閉めようとカウンターの上を片付けていると、一冊の古書の間に挟まっていた見慣れないチラシが目に留まった。ざらりとした手触りの、上質な紙。中央には、古風な万年筆のイラストと共に、こう印刷されていた。

『クロノ・ポスト ― あの頃のあなたへ、届けられなかった言葉を』

胡散臭い、と思った。時間旅行を謳うサービスなど、SF小説の中だけの話だ。だが、その下に続く小さな文字が、悠人の心を釘付けにした。

「物理的なタイムトラベルではありません。独自の量子通信技術により、あなたのメッセージを過去の特定の人物の『記憶』へ、鮮明な夢として送信します。過去改変のリスクなしに、あなたの想いを届ける、ただ一度きりのチャンスを」

馬鹿げている。そう頭では分かっているのに、指先が微かに震えた。美咲が事故に遭う日の朝、些細なことで口論をした。いつもならすぐに「ごめん」と言えるのに、その日に限って、互いに意地を張ってしまった。彼女の最後の記憶が、あの気まずい朝のままだとしたら。悠人は、その後悔の棘に、三年間ずっと苛まれ続けていた。

伝えたい言葉があった。「ありがとう」と。そして、「愛している」と。

チラシの裏には、QRコードと「完全予約制」の文字。悠人は吸い寄せられるようにスマートフォンをかざした。画面に表示されたのは、無機質な予約フォームと、天文学的な数字が並んだ利用料金。全財産を投げ打っても足りるかどうか。だが、彼の心はすでに決まっていた。止まった時間を動かせる可能性があるのなら、どんな代償だって払うつもりだった。

***第二章 クロノ・ポストに託した言葉***

予約した日、悠人は指定された銀座の古いビルの地下へと足を運んだ。重厚な扉の先にあったのは、未来的な研究室というより、むしろアンティークな書斎のような空間だった。壁一面の本棚、革張りのソファ、そして部屋の中央に鎮座する、真鍮とガラスでできた巨大な砂時計のようなオブジェ。それが「クロノ・ポスト」の送信機らしい。

白衣を着た初老の男が、穏やかな口調で説明を始めた。
「送信先の日時と人物を特定します。メッセージは、受信者の潜在意識に直接インプットされ、非常にリアルな夢、あるいは強烈なデジャヴとして体験されます。物理的な証拠は一切残りません。それが、因果律を乱さないための我々のルールです」

悠人は頷き、美咲が事故に遭う前日の夜を指定した。穏やかな気持ちで眠りについているであろう、その時間に。
「準備はよろしいですか」
男に促され、悠人は送信機の前に置かれたヘッドセットを装着した。目を閉じると、意識が深く沈んでいくような感覚に襲われる。目の前のスクリーンに、文字入力画面が浮かび上がった。

『美咲へ』

指が震える。何から伝えればいいのか。三年間、胸の内で繰り返し、熟成させ、そして腐敗しかけていた言葉たちが、奔流となって溢れ出しそうになる。だが、書ける文字数には限りがあった。悠人は深呼吸し、最も純粋な想いだけを紡ぐことにした。

『君と過ごした時間は、僕の人生の宝物だ。君の笑顔も、怒った顔も、全部憶えている。明日の朝、僕たちは些細なことで喧嘩をするかもしれない。でも、忘れないでほしい。僕が君をどれほど愛しているか。本当に、ありがとう。君に出会えて、僕は世界で一番幸せだった』

最後に、そっと「愛している」と付け加えた。送信ボタンを押すと、視界が真っ白な光に包まれた。全身の力が抜け、深い安堵感と共に意識が遠のいていく。

サービスを終え、地上に出た悠人の足取りは、驚くほど軽かった。本当に届いたかは分からない。自己満足に過ぎないのかもしれない。それでも、確かに「伝えた」という感覚が、鉛のように重かった彼の心を少しだけ浮かび上がらせてくれた。空を見上げると、いつもと同じ灰色だった空が、心なしか青みを帯びて見えた。

その日から、悠人の日常は少しずつ変わり始めた。店の掃除に身が入り、客との会話も増えた。窓辺のマグカップには、変わらず花を生け続けたが、そこに添える気持ちは「変わらぬ心」から、感謝と追憶へと静かに変化していた。過去は変えられない。だが、過去との向き合い方は、変えられるのかもしれない。

***第三章 代償としての幸福な記憶***

変化の兆しが見えてきた数週間後の夜、悠人は奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼は見知らぬ公園のベンチに座っていた。隣には、柔らかな陽光に髪をきらめかせている女性がいる。彼女の顔ははっきりとは見えない。だが、彼女が浮かべる微笑み、彼を見つめる優しい眼差し、そして、彼の手を握るその温もりは、圧倒的な幸福感をもって悠人の全身を包み込んだ。
「悠人さん、見て。あの子、あなたの小さい頃にそっくり」
彼女が指さす先では、小さな女の子が覚束ない足取りで鳩を追いかけていた。その光景を眺める自分の心が、愛おしさで満たされていく。これは、誰の記憶だ? まるで、自分が体験したことのない、未来のワンシーンを追体験しているかのようだった。

夢から覚めた悠人は、全身にびっしょりと汗をかいていた。頬には、一筋の涙が伝っていた。あの幸福感は、美咲と過ごした日々に感じたものとよく似ていたが、どこか違う。それは、喪失を知った上で、再び手に入れた、穏やかで成熟した愛の形だった。

混乱した彼は、ベッドから飛び起き、クロノ・ポストの利用規約が書かれた書類を探し出した。契約時に流し読みしただけの、細かい文字の羅列。その最後の項目に、彼は衝撃的な一文を見つけた。

『本サービスの利用には代償が伴います。過去へのメッセージ送信と同時に、システムはあなたの未来から『最も幸福な瞬間』の記憶データを抽出し、現在のあなたへフィードバックします。これは、過去への干渉という行為に対する、時間軸からの反作用を相殺するための安全措置です』

つまり、あのメッセージは過去の美咲に送ったものではなかったのか? いや、送られてはいるのだろう。だが、このサービスの本当の目的は、別のところにあった。
悠人は悟った。自分が利用したのは、過去に手紙を送るサービスなどではない。これは、未来の自分が、過去の自分、つまり今の悠人を救うために用意した、「希望」という名のメッセージだったのだ。

あの幸福な記憶は、美咲の死を乗り越え、長い時間を経て、悠人が再び誰かを愛し、家庭を築いた未来の姿だった。「大丈夫だ。君はまた笑える日が来る。幸せになれる」――それは、未来の自分からの、何より力強いエールだった。

そして、もう一つの可能性に思い至り、悠人は息を呑んだ。
自分が過去の美咲へ向けて送った「ありがとう」と「愛している」というメッセージ。それは本当に、彼女の夢の中に届いたのだろうか。もし届いていたとしたら。死の直前に、彼女は夫からの最後の愛の言葉を受け取っていたことになる。自分の後悔を晴らすための行為が、意図せず、彼女の最後の瞬間を慰めていたのかもしれない。

過去に囚われた自分を未来の自分が救い、その行為が結果として、過去の妻をも救っていたのかもしれない。時間の因果律が、愛という名の奇妙なループを描いて、彼の目の前で完結した。悠人は、その巨大で優しい構造の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。

***第四章 白紙の地図を歩き出す***

全てを理解した悠人は、古書店のカウンターに静かに座っていた。窓から差し込む朝の光が、埃をきらきらと舞い上がらせる。それは、時間が再び動き出した証のように見えた。
壁に飾られた美咲の写真。屈託なく笑う彼女は、何も変わらない。
悠人は、写真に向かってそっと語りかけた。

「美咲。僕は、未来で誰かと笑い合っているらしい。驚いたよ。君以外の誰かを、あんなふうに愛せる日が来るなんて、想像もできなかった」

彼の声は震えていた。だが、それは悲しみだけの色ではなかった。

「でも、勘違いしないでくれ。君を忘れるわけじゃない。君がくれた時間、君と育んだ愛があったから……だからきっと、僕はもう一度、人を愛せるようになるんだ。君との過去が、僕の未来の土台になってくれている。そう信じてもいいかな」

未来の自分から送られてきた幸福な記憶。それは、美咲との思い出を上書きするものではない。むしろ、その思い出を抱きしめたまま、前へ進むことを肯定してくれる、温かい光だった。失った悲しみは、決して消えることはないだろう。だが、その悲しみごと、これからの時間を生きていく。それが、未来の自分から託された宿題であり、祝福なのだと彼は思った。

悠人は立ち上がり、店の扉に手をかけた。「準備中」の札を、「営業中」に裏返す。カラン、と軽やかなドアベルの音が、静寂を破った。それは、新しい一日の始まりを告げる音だった。

未来の記憶は、彼の心に確かな道標として刻まれた。しかし、そこにたどり着くまでの道のりが描かれた地図は、まだ真っ白だ。これからどんな出会いがあり、どんな別れがあるのか、誰にも分からない。

悠人は、店の外に広がる、見慣れたはずの街並みを見つめた。陽光がアスファルトを照らし、人々が行き交う。彼の止まっていた世界が、再び色鮮やかに動き出す。
彼は、その白紙の地図に、自分の足で最初のインクを落とすべく、ゆっくりと、しかし確かな一歩を踏み出した。その胸には、過去の愛と、未来の希望、その両方を抱きしめて。

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