ペルセウス腕の外縁に浮かぶ小惑星帯、「静寂の海」。その中心で、宇宙灯台「クロノス」は百年変わらず瞬いていた。超光速航路を往く船たちのための、ただ一つの道標。その灯台守であるカイの日常は、宇宙そのもののように静かだった。
「カイ。定時報告の時間です」
管制ユニットから響く人工音声は、彼の唯一の話し相手であるAI「テミス」のものだ。
「異常なし。いつも通りだ」
カイは無機質なコンソールを眺めながら答えた。窓の外には、砕けた星々の骸がダイヤモンドダストのように煌めき、音もなく流れていく。この絶対的な沈黙と孤独に、彼はもう慣れてしまった。いや、慣れたと思い込もうとしていた。心の奥底に澱のように溜まった寂しさは、時折、無重力の涙となって彼の頬を濡らした。
その日、異変は前触れもなく訪れた。定期観測スペクトルの中に、これまで見たこともない微弱な信号が混じっていたのだ。ノイズの向こうから、か細く、それでいて不思議なほど懐かしいメロディが聞こえるような気がした。
「ノイズ源を特定。規定に基づき、フィルターを強化します」
テミスの冷静な声が響く。
「待ってくれ」
カイは思わず制止した。「その信号、もう少し増幅できないか」
「規定外の行動です。航路の安全維持に無関係な信号への干渉は禁止されています」
テミスの警告を無視し、カイは手動で受信ゲインを上げた。ノイズが激しくなる。だが、その奥で確かに何かが「歌って」いた。それは特定の言語ではなく、感情の波そのもののように彼の意識に流れ込んでくる。悲しみと、喜びと、そして何よりも強い、誰かに会いたいという純粋な願い。カイの凍てついていた心が、その微かな温もりに揺さぶられた。この宇宙で、自分以外の誰かが、自分と同じように孤独を抱えている。そう直感した。それからの数日間、カイは任務の合間を縫って信号の解析に没頭した。
信号の発信源を特定した時、カイは息を呑んだ。それは星でも惑星でもなく、空間そのものに生じた微小な裂け目――これまで理論上でしか語られてこなかった、時空の歪みだった。
彼が観測を続ける目の前で、信じがたい光景が広がった。裂け目がゆっくりと広がり、その漆黒の向こうから、巨大な船影が滑るように姿を現したのだ。船体には「ODYSSEIA」の文字。五十年前、この宙域で忽然と姿を消した、伝説の深宇宙探査船「オデュッセイア号」だった。
船はゴーストシップのように静まり返り、不気味なほど損傷がない。そして、あの「歌」は、間違いなくこの船から発せられていた。
「カイ、危険です。直ちに艦隊司令部へ報告を」
テミスの声が遠くに聞こえる。カイの心は、恐怖よりも強い好奇心に支配されていた。彼は船外活動ユニットを纏い、ゆっくりとオデュッセイア号に接近した。
エアロックを無理やりこじ開け、船内へと足を踏み入れる。そこは無人だった。だが、あのメロディはより鮮明に彼の頭に響いてきた。それは、幼い日に母が歌ってくれた子守唄の旋律に酷似していた。どうして? 混乱しながらブリッジへ向かい、航行記録装置を起動する。そこに記されていたのは、戦慄すべき真実だった。
クルーたちは、この「歌」を受信した直後から、次々と重度の精神混濁に陥っていた。最後の記録には、船長のかすれた声が残されていた。「……これは歌ではない。呼び声だ。だが、我々の脳は……その意味を理解するには、あまりに……脆い……」
「歌」は、この宇宙とは異なる次元に存在する知的生命体が、我々三次元世界の存在へ向けて発した、純粋なコンタクトの試みだったのだ。しかし、その情報量は人類の認知能力を遥かに超越しており、受信した者の精神を内側から焼き切ってしまう、致死の呼び声だった。カイに子守唄として聞こえたのは、彼の脳が理解不能な情報を、最も安心できる記憶の形へと必死に誤変換していたからに過ぎなかった。
「脅威レベル、最大。信号源の破壊を推奨します」
テミスの無感情な声が、カイを現実に引き戻した。そうだ、これが灯台守としての正しい判断だ。このままでは、航路を通過する船が第二のオデュッセイア号になりかねない。クロノスの主砲を向ければ、時空の裂け目ごと探査船を消滅させられるだろう。
だが、カイの指は動かなかった。
破壊すれば、人類は永遠に彼らと出会う機会を失う。それは、悪意のない、ただ「会いたい」と願う隣人の声を、恐怖のあまり封殺する行為ではないのか。
彼の脳裏に、これまでの孤独な日々が駆け巡った。誰にも届かない声を、ただ虚空へ発し続けてきた自分。あの「歌」に込められた想いは、痛いほど理解できた。
「テミス」
カイは静かに呟いた。「灯台の全エネルギーを、メイン送信アレイに接続してくれ」
「目的が理解できません。命令を拒否します」
「これは命令じゃない。俺の、最後の仕事だ」
カイはコンソールに向き直った。彼のやろうとしていることは、狂気の沙汰だった。自らの脳をフィルターとし、この致死の「歌」を、人類が理解可能なデータ構造に「翻訳」して地球へ送る。それは、彼の精神が燃え尽きることを意味していた。
「カイ、あなたのニューラルリンクは持ちません!」
テミスの悲鳴のような警告を背に、カイはインターフェースに意識を繋いだ。途端に、情報の奔流が彼の存在を飲み込む。それは歌ではなかった。宇宙の創生、生命の律動、時空の構造、そして名状しがたい愛と孤独の幾何学。無数の知識と感情が、彼の脳を焼き切っていく。
激しい光と痛みの中で、カイは感じていた。自分はもう、孤独ではない。この瞬間、自分は宇宙そのものと一つになったのだと。
意識が途切れる寸前、彼の視界の隅で、コンソールの小さなランプが静かな青い光を灯した。
――翻訳データ、送信完了。
クロノス灯台の明かりが、ふっと消えた。主を失った灯台は、再び静寂の海のなかに沈んでいく。だが、その沈黙は、もはやカイが知る孤独の色ではなかった。
遥か彼方の地球では、一つの天文台が、誰も予期しなかった奇跡の信号を受信しようとしていた。それは、一人の孤独な灯台守が命を賭して届けた、星々の海を越えた最初の「こんにちは」だった。
クロノスの灯台守
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