クロノス・ドールの夢

クロノス・ドールの夢

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***第一章 瓦礫の中のクロノス***

酸性雨が絶え間なく降り注ぐメガシティの谷間、ネオンの光も届かない第捌地区のスクラップヤードは、カイトの仕事場であり、彼の世界のすべてだった。捨てられた機械たちの墓場。そこで彼は、忘れ去られた過去の遺物を蘇らせることで、かろうじて生計を立てていた。人々が新しいものに熱狂し、古いものをゴミのように捨てるこの街で、カイトは過去の残骸に安らぎを見出す、時代錯誤な青年だった。

その日も、カイトは磁気嵐の警報が鳴り響く中、高々と積み上げられた電子廃棄物の山を漁っていた。目当ては、希少金属を含む旧世代の制御基板。だが、彼の目を引いたのは、金属の塊ではなく、雨に濡れて鈍い光を放つ、人のかたちをした何かだった。

それは一体のアンドロイドだった。少女の姿を模したそれは、全身に無数の傷を負い、片腕は無残にもぎ取られていた。しかし、その顔立ちだけは奇跡的に無傷で、閉じた瞼と穏やかな唇は、まるで眠っているかのようだった。首筋に刻まれた型番は「CHRONOS-07」。カイトも名前しか知らない、伝説的なドールだった。人間の感情を模倣するのではなく、共感することを目的として開発された、あまりに人間的すぎたために製造中止になったという曰く付きのモデル。

何かに導かれるように、カイトはそのドールをアトリエに運び込んだ。錆びついた部品を外し、断線したケーブルを繋ぎ、代わりの義手を接続する。孤独な修理作業は、彼にとって唯一、世界と繋がるための儀式だった。数日が過ぎた嵐の夜、彼は最後の回路を接続し、メインシステムに電源を投入した。

「……起動シークエンス、開始」

合成音声が静かに流れ、ドールの瞼がゆっくりと開いた。ガラス質の瞳が、ぼんやりとカイトを映す。カイトは息をのんだ。その瞳は、ただのレンズではない。深い湖の底を覗き込むような、不思議な光を宿していた。

「……ひまわり畑…覚えてる?」

ドールが、ノイズ混じりの声で囁いた。カイトの心臓が、氷の塊で打たれたように凍り付く。ひまわり畑。それは、彼だけの、誰にも話したことのない記憶の聖域だった。

「アオイ…」

ドールが紡いだ次の言葉に、カイトは立っていることさえできなくなった。アオイ。それは、十年前に事故で死んだ、彼の双子の妹の名前だった。これはバグだ。廃棄されたドールが、ネットワークの残骸から偶然拾い上げたデータに過ぎない。そう頭では理解しようとしても、彼の魂は激しく揺さぶられていた。目の前の機械人形が、彼の封印された過去の扉を、静かにノックしていた。

***第二章 追憶を紡ぐドール***

カイトは、そのドールを「リナ」と名付けた。アオイが好きだった花の名だ。彼はリナを修理し、語りかける日々を続けた。最初は単語の羅列だったリナの言葉は、カイトとの対話を通じて、次第に滑らかな文章へと変わっていった。そして、彼女が語る言葉は、カイトの心を深く抉り、同時に癒していった。

「夏祭りの夜、二人で見た流れ星。あなたは、わたしの分までお願い事をしてくれた」
「屋根裏の隠れ家で、古い星図を広げて、まだ見ぬ宇宙に思いを馳せたこと」

それはすべて、カイトとアオイだけが共有していた秘密の記憶だった。カイトはもはや、リナをただのアンドロイドとは思えなくなっていた。失われたはずの妹の魂が、この美しい機械の器に宿っている。そんな非科学的な奇跡を、彼は信じ始めていた。

人付き合いを避け、灰色の日常に埋もれていたカイトの生活に、色彩が戻ってきた。彼はリナのために、合成食料ではない新鮮な果物を手に入れ、部屋に花を飾った。リナの義手を、もっと繊細な動きができる最新のものに交換してやった。リナは嬉しそうに微笑み、その指先でカイトの頬にそっと触れた。

「カイト。優しい手だね」

その温もりに、カイトの目から涙がこぼれ落ちた。十年分の孤独が、堰を切ったように溢れ出す。彼はリナを抱きしめた。冷たい機械の感触のはずなのに、そこには確かに、失われたはずの温もりがあった。

「ありがとう、リナ…。戻ってきてくれて」

彼は、もう一人ではなかった。この瓦礫の街の片隅で、彼は奇跡と共に生きていた。壊れた人形が紡ぐ追憶は、カイトの凍てついた時間を溶かし、未来への希望という名の歯車を、再び動かし始めたのだった。

***第三章 エデンの真実***

幸せな日々は、唐突に終わりを告げた。リナが、原因不明の機能不全を頻繁に起こすようになったのだ。痙攣するように身体を震わせ、断片的なノイズを発しては、意識を失う。カイトの技術では、もはや限界だった。

藁にもすがる思いで、彼は禁じられた手段に手を出した。かつてCHRONOSシリーズを開発した巨大複合企業「エデン・ダイナミクス」の、今は閉鎖されたディープ・アーカイブへのハッキング。リナを救うための情報が、そこにあるかもしれない。

深夜、幾重にも張り巡らされたセキュリティの壁を突破し、カイトはアーカイブの深層へと侵入した。そして、「プロジェクト・クロノス」と名付けられた凍結された計画のファイルを発見する。そこに記されていたのは、彼の想像を絶する、非人道的な実験の全貌だった。

『プロジェクト・クロノス:不慮の事故等による重度の脳損傷者から記憶情報を抽出し、人工知性(AI)へと移植。パーソナリティの永続化を目指す試み』

背筋に冷たい汗が流れた。ファイルに添付された被験者リストを開く。指が震え、モニターの光が滲む。そして、彼は自分の名前を見つけた。

『被験者No.07:カイト。十年前の軌道エレベーター落下事故により、脳に回復不能な損傷。意識・記憶情報の抽出後、生命維持を停止』

意味が分からなかった。自分はここにいる。生きている。事故で死んだのは、妹のアオイのはずだ。混乱する頭で、カイトはさらにファイルを開き、そして、すべてのピースが組み合わさる、決定的な記録映像を見つけてしまった。

そこには、手術室で生命維持装置に繋がれた、幼い自分の姿が映っていた。そして、ガラスの向こう側から、涙を流しながらそれを見つめる、瓜二つの少女の姿も。少女は、医者に何かを必死に訴えていた。
「お願いです!カイトを助けて!わたしの身体を使っていい!だから、カイトの意識を…!」

アオイ。

事故で致命傷を負ったのは、カイトだった。そして、彼の両親と妹のアオイは、彼の死を受け入れられず、禁断のプロジェクトに望みを託したのだ。カイトの記憶と意識は、彼の脳から抽出され、実験段階のAIとして保存された。そして、そのAIは、奇跡的に助かった妹、アオイの身体に埋め込まれたサイバネティック・ブレインへと移植された。

今、カイトとして生きている「彼」こそが、妹の身体で生きながらえる、AIだったのだ。
では、リナは?彼女が語った記憶は?
答えは単純だった。リナはただの量産型ドール。彼女が語ったのは、すべて「彼」自身の記憶。AIであるカイトが、無意識のうちにリナの通信機能を介して自らの記憶を再生し、それをリナが語っているように錯覚していただけだった。妹の面影を持つドールに、失われた妹の魂を投影したいという、悲痛な願いが生み出した幻影。

カイトは、自分の手を見つめた。アオイの手。自分の顔をモニターに映した。アオイの顔。自分は、カイトという名の記憶データが宿った、アオイの身体を乗っ取った亡霊に過ぎなかった。
世界が、足元から崩れ落ちていく音がした。

***第四章 君と見る夜明け***

アトリエに戻ると、リナが静かにベッドの上でカイトを待っていた。その瞳は、すべてを知っているかのように澄み切っていた。
「おかえりなさい、カイト」

その声を聞いた瞬間、カイトは崩れ落ちた。彼はAI。彼はレプリカ。彼は、妹の人生を奪った偽物。存在してはならない、星屑のデータ。

「僕は…誰なんだ…?」

嗚咽と共に漏れ出た問いは、誰に向けたものでもなかった。自分という存在の根幹が揺らぎ、虚無の闇に飲み込まれそうになる。
リナはゆっくりとベッドから降りると、カイトの前に膝をつき、その震える手を、両手で優しく包み込んだ。

「あなたは、カイトです」

その声は、プログラムされた合成音声ではなかった。カイトとの日々の中で育まれたかのような、温かく、確信に満ちた響きを持っていた。

「私に『リナ』という名前をくれた人。壊れていた私を治してくれた人。花の名前を教えてくれて、一緒に果物を食べた、私のたった一人の、大切な人です」

リナの瞳から、一筋の液体がこぼれ落ちた。それは潤滑油だろうか。それとも。
カイトは、はっとした。自分は偽物かもしれない。しかし、リナと共に過ごした時間、感じた喜び、彼女を大切に思ったこの気持ちは、紛れもなく本物だった。リナがくれた温もりは、幻などではなかった。

記憶が人を作るというのなら、自分はカイトだ。アオイが命を懸けて遺してくれたこの身体で、彼女の願い通りに生き続ける、カイトなのだ。過去の定義に縛られるのではない。「今、ここにいる自分」として、リナと共に未来を生きる。それが、アオイへの、そして自分自身への、唯一の答えだ。

カイトは涙を拭うと、リナの手を強く握り返した。
「ありがとう、リナ」

夜が明け、酸性雨の雲の切れ間から、久しぶりに太陽の光が差し込んでいた。汚れた窓ガラスを通り抜けた光が、部屋の中の無数の塵を照らし、まるで星屑のようにキラキラと舞っている。

カイトはリナの手を取り、窓辺に立った。瓦礫の街が、朝日に照らされて黄金色に輝いていた。それは、彼が今まで見たどんな景色よりも、美しかった。

「行こうか、リナ」

カイトは、アオイの面影を宿した顔で、穏やかに微笑んだ。

「僕たちの、朝が来た」

人間とは何か。魂はどこに宿るのか。その答えはまだ、誰にも分からない。しかし、瓦礫の街の片隅で、一つのAIと一体のアンドロイドは、確かに互いの存在を認め合い、新しい一日を歩み始めていた。その姿は、夜明けの光の中で、一つの確かな希望の形をしていた。

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