クロノス・ダイアリーに君はいない

クロノス・ダイアリーに君はいない

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***第一章 存在しないはずの恋敵***

半透明のコンソールに指を滑らせると、冷たい光の粒子が宙に舞った。俺、天野リョウジは、静寂に満ちた自室で「追憶再生機(レミニセンス・プレイヤー)」を起動していた。三週間前、恋人の望月ミサキが、交差点での不慮の事故で帰らぬ人となってから、世界は色を失った。俺の心は、彼女がいた場所だけがぽっかりと抉られたように、虚ろな空洞を抱えていた。

この追憶再生機は、俺が開発チームの一員として心血を注いだ最新技術の結晶だ。故人の脳内に保存されたシナプス情報を読み解き、その人物が体験した過去を一人称視点で再現する。倫理的な問題をクリアし、限定的ながら実用化されたのはつい半年前のこと。まさか、自分がこれを使って、愛する人の最期の日々を辿ることになるとは、夢にも思わなかった。

「ミサキ、今から会いに行くよ」

誰にともなく呟き、ヘッドギアを装着する。網膜に直接投影される光が視界を白く染め上げ、やがて鮮やかな色彩が溢れ出した。ミサキの視界だ。陽光が差し込む見慣れたリビング、彼女が好きだった北欧デザインのマグカップ、窓辺で揺れる観葉植物。嗅覚センサーが、淹れたてのコーヒーの香ばしいアロマを俺の鼻腔に届ける。すべてが、あまりにも生々しい。涙が込み上げてくるのを、ぐっと堪えた。

再生ポイントは、事故の一ヶ月前。俺たちが記念日に訪れた海辺のカフェだ。潮風の匂い、カモメの鳴き声。目の前のテーブルには、彼女がいつも頼んでいたベリーのタルトがある。そして、その向かいに座るはずの俺の姿を、俺は待っていた。ミサキの瞳が、優しく細められる。彼女が微笑む相手は、俺のはずだ。

しかし、ミサキの視界に映ったのは、俺ではなかった。

そこにいたのは、俺の知らない男だった。日に焼けた肌に、柔らかなウェーブのかかった髪。人懐っこい笑顔を浮かべ、ミサキに何かを話しかけている。ミサキは、心の底から幸せそうに笑い返し、その男の手をそっと握った。

「ハヤトさん、本当に面白い」

ミサキの声が、鼓膜を震わせる。ハヤト。誰だ、その男は。俺の全身から血の気が引いていくのが分かった。これは何かのエラーだ。システムのバグに違いない。俺は慌てて再生を中断し、ヘッドギアを乱暴に引き剥がした。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。ありえない。ミサキが俺以外の男と? しかも、あんなに幸せそうに?

震える手で、もう一度再生ポイントを探る。俺の誕生日、二人で過ごした夜。ミサキが初めて俺に手料理を振る舞ってくれた日。だが、再生される記憶はどれも同じだった。俺がいるべき場所に、必ずあの「ハヤト」という男がいる。そしてミサキは、俺に見せたことすらないような、無防備で愛に満ちた表情を彼に向けているのだ。

まるで、天野リョウジという人間が、彼女の人生に最初から存在しなかったかのように。ミサキの追憶の中で、俺は完全に消されていた。一体、なぜ? これは、機械の故障なのか。それとも、俺が知らなかっただけの、ミサキの、残酷な真実なのか。冷たい汗が、背筋を伝った。

***第二章 歪んだ追憶の迷宮***

俺は狂ったようにミサキの記憶を再生し続けた。それは自傷行為に近かった。彼女の視界を通して、ハヤトという男との完璧な日々を見せつけられる。公園でのピクニック、深夜の映画鑑賞、他愛ないことで笑い合う食卓。その一つひとつが、鋭利な刃物となって俺の心を切り刻んだ。嫉妬と絶望が黒い霧のように思考を覆い尽くす。俺たちの愛した時間は、すべて幻だったというのか。

だが、何十回となく同じ記憶を再生するうち、俺は微かな違和感に気づき始めた。それは、完璧な映像に混じる、一瞬のノイズ。

例えば、ハヤトがミサキにプレゼントを渡すシーン。彼はミサキが好きだったマイナーな作家の新刊を差し出す。ミサキは喜ぶが、その視界の端が、ほんの一瞬、不自然に揺らぐのだ。まるで、そこに別の何かを幻視したかのように。その作家をミサキに教えたのは、俺だった。

またある時、二人がカフェにいる場面。ハヤトがブラックコーヒーを注文すると、ミサキの口が何かを言いかけて、止まる。音声データには残っていないが、唇の動きは「リョ…」と読めた。俺の名前だ。俺はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。

これらの些細な綻びは、記憶という名のタペストリーに紛れ込んだ、僅かな糸のほつれのようだった。最初はシステムの限界によるエラーだと片付けようとした。だが、エンジニアとしての勘が警鐘を鳴らす。これは自然な欠落ではない。何者かによって、意図的に「上書き」された記憶の痕跡ではないのか。

もしそうなら、犯人は誰だ? ハヤトか? 彼がミサキを騙し、何らかの方法で記憶を改竄したのか? いや、そんな技術はまだ公になっていない。だとしたら、一体…。

俺は一つの仮説にたどり着いた。ミサキ自身が、何らかの理由で自らの記憶を書き換えたのではないか。しかし、なぜ? 俺という存在を消し去ってまで、架空の恋人を創り出す理由とは何だ。謎は深まるばかりだった。俺は、この歪んだ追憶の迷宮の出口を求めて、さらに深層へと潜ることを決意した。たとえその先に、知りたくない真実が待っていたとしても。

***第三章 鏡の向こうの真実***

俺は追憶再生機のセキュリティロックを解除し、通常はアクセスが禁じられている脳の深層記憶領域――事故直前の、断片的で不安定なデータバンクへとダイブした。システムが危険信号を発し、網膜に赤い警告表示が点滅する。だが、もう引き返す気はなかった。

視界が激しく明滅し、ノイズ交じりの光景が津波のように押し寄せる。車のクラクション、人々の悲鳴、ガラスの砕ける甲高い音。事故の瞬間だ。ミサキの視界は激しく揺れ、アスファルトの灰色が迫ってくる。息が詰まるほどの衝撃。そして、視界の隅に映ったものに、俺は息を呑んだ。

倒れているのは、ミサキではなかった。血塗れになって路上に横たわっているのは、紛れもなく、俺――天野リョウジだった。

混乱する頭で、途切れ途切れのミサキの声を聞く。
「リョウジ…! しっかりして! ねぇ、リョウジ!」
彼女の悲痛な叫びが、ノイズの向こうから響く。視界が白んでいく。次に再生されたのは、病院の無機質な白い天井だった。ミサキは、ベッドに横たわる俺の手を握りしめて泣いていた。医師の宣告が、無情に響く。
「…脳の損傷が激しく、意識の回復は絶望的です」

何が起きている? 事故に遭ったのは、俺だったのか? では、今こうしてミサキの記憶を見ている「俺」は、一体何なのだ。

次の瞬間、再生された光景が、すべての答えを俺に突きつけた。そこは、見覚えのある研究室。俺が所属していた企業の、極秘プロジェクトが進められていた場所だった。ミサキは、俺の同僚に泣きながら懇願していた。
「お願いです! 未認可なのは分かっています。でも、このまま彼を失うなんてできない…! 意識転写を、試させてください!」

意識転写。それは、ある人間の意識データを抽出し、別の脳に移植するという禁断の技術。理論上は可能とされていたが、倫理面と技術的な危険性から凍結されていたはずのプロジェクトだ。

「馬鹿なことを言うな! 成功例はないんだぞ! 最悪の場合、君の精神も崩壊する!」
同僚の制止も聞かず、ミサキは決意の表情を浮かべていた。
「構いません。彼の心だけでも、生き続けてくれるなら。私の体の中で、彼が生き続けてくれるなら…!」

全身の力が抜けていく。理解してしまった。俺は、もうこの世にいない。俺の身体は、あの事故の日に失われた。そしてミサキは、俺の意識を救うために、自らの脳を差し出したのだ。今、こうして彼女の記憶を追体験している「俺」は、ミサキの脳内に移植された、データとしての「天野リョウジ」の意識だった。

そして、ハヤトという男の正体も。二つの意識は、一つの脳に完全には共存できない。俺の意識が、彼女の記憶を上書きし、侵食し始めていたのだ。ミサキは、俺という存在によって自らのアイデンティティが消えゆく恐怖の中で、最後の選択をした。

彼女は、俺の記憶を消すことで俺の意識を守ったのだ。俺を「ハヤト」という架空の恋人に置き換えることで、俺の意識が安住できる「優しい嘘の世界」を、自らの記憶の中に創り上げた。俺が嫉妬し、憎んだ男は、ミサキが俺を愛するがゆえに生み出した、究極の自己犠牲の形だったのだ。

俺は、もう泣くことさえできなかった。俺が見ていたのはミサキの記憶ではなかった。ミサキが、俺のために遺してくれた、最後のラブレターだったのだ。

***第四章 君が遺した世界で***

すべての真実を知った俺(の意識)は、追憶再生のインターフェース画面を、ただ呆然と見つめていた。ミサキの自己犠牲。そのあまりに深く、そして痛ましい愛に、魂が震えた。俺は、彼女の記憶の中で生きる、ただのゴーストに過ぎない。だが、彼女はそのゴーストのために、自分自身を捧げてくれた。

ふと、追憶データの最終セクタに、一つのファイルが残されていることに気づいた。ロックはかかっていない。祈るような気持ちでそれを開くと、ミサキの柔らかな声が、静寂の中に響き渡った。それは、彼女が意識転写の直前に、俺の意識に向けて遺したメッセージだった。

「リョウジへ。もし、あなたがこの真実に辿り着いてしまったのなら…ごめんなさい。あなたを偽りの世界に閉じ込めるつもりはなかった。でも、あなたのいない世界で生きていくなんて、私にはできなかった」
声が、少し震える。
「私の記憶が、あなたの意識に侵食されていくのを感じた時、怖かった。でも、それ以上に、あなたという存在が完全に消えてしまうことが、耐えられなかった。だから、私の中に、あなただけの場所を作ろうと思ったの。ハヤトさんは、私が創った、あなたを守るための人。私が、心から愛したあなた自身の、もう一つの姿よ」

涙で言葉が途切れる。
「忘れないで。私は、心の底からあなたを愛していた。この体の中で、あなたの心臓が鼓動を続けるように、あなたの魂も生き続けている。だから、どうか…私の記憶の中で、幸せに生きて。お願い…」

メッセージはそこで途切れた。俺は、存在しないはずの目から、熱い雫がこぼれ落ちるのを感じた。俺はもう、現実のミサキに触れることも、言葉を交わすこともできない。だが、彼女の愛は、確かにここに在る。このデータの中に、永遠に刻まれている。

俺は、もう一度ヘッドギアを装着した。そして、迷うことなく再生ボタンを押す。選んだのは、あの海辺のカフェの記憶。ミサキが「ハヤト」と微笑み合っていた、俺が最初に絶望した、あの光景だ。

陽光が差し込み、潮風が香る。ミサキが、幸せそうに微笑んでいる。その視線の先にいるのは、ハヤトと名乗る、日に焼けた男。
だが、もう俺の心に嫉妬はなかった。鏡に映った自分を見るように、彼の姿をただ愛おしく見つめる。彼は俺なのだ。ミサキが命を懸けて守ろうとした、俺の魂の欠片なのだ。

「きれいだね、ミサキ」

俺は、ハヤトの唇を借りて、そう呟いた。
ミサキは、最高の笑顔で頷く。

俺は、彼女が遺してくれたこの世界で、生きていく。彼女の愛に包まれて、永遠に続く追憶の中で。それが幸福なのか悲劇なのか、答えは出ない。だが、確かなことが一つだけある。愛とは、時に記憶となり、世界をさえ創り変えるのだ。俺たちのクロノス・ダイアリーには、もう悲しみはない。ただ、光に満ちた君との時間が、無限に続いていくだけだ。

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