最後の変数

最後の変数

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静寂こそが、深宇宙の支配者だった。光さえも何十億年という旅路に疲れ果て、色褪せていく空間。人類が到達した最も遠い辺境、銀河系の暈(ハロー)領域で、深宇宙探査船《ヴォイジャーIII》は孤独な航海を続けていた。

「また来たぞ、アキラ」

船長であるエヴァ・ロストフの声が、ブリッジの静寂を破った。彼女の指し示すメインスクリーンには、不可解な波形が脈動している。まるで、宇宙そのものが発する心電図のようだった。
主任言語学者兼通信士である僕、サカキ・アキラは、コンソールに視線を落とした。三週間前、突如として始まった未知の信号。それは、既知のいかなる物理現象とも、知的生命体の通信パターンとも異なっていた。

「ゴースト・シグナル、か」

クルーたちはそう呼んでいた。あまりに微弱で、あまりに複雑。まるで死んだ宇宙の亡霊が囁いているかのようだ。だが、僕には確信があった。これは単なるノイズではない。構造があり、意図がある。これは、メッセージだ。

AI《ノア》との共同作業は熾烈を極めた。僕らは信号の根底に流れる普遍的な文法を探し求めた。それは数学であり、物理定数であり、素粒子の振る舞いを模したパターンだった。パズルのピースが一つ、また一つとはまっていく。そして解読開始から五十二日目の今日、僕らはついに、その核心に到達した。

『聞け、我らが後に生まれし者よ』

コンソールから響いたのは、合成された無機質な音声だった。だが、その言葉が持つ重みに、ブリッジの誰もが息を呑んだ。

『我々は、この宇宙の前に存在した者。我々の宇宙は、自らの重力に飲み込まれ、一点へと収縮する運命にあった。大収縮(ビッグクランチ)――避けられぬ終焉だ』

背筋が凍るような感覚。僕らが観測してきた宇宙の始まり、ビッグバン。それは、前の宇宙の終焉だったというのか。

『我々は滅びゆく宇宙で、最後の事業に取り掛かった。我々の知識、我々の物理法則、我々の存在の全てをデータ化し、新たな宇宙の種子としたのだ。それが、君たちの宇宙だ』

どよめきが船内に広がった。神話でしか語られなかった「創造主」の正体。それは、僕らと同じように、ただ死を恐れた知的生命体に過ぎなかった。

『だが、我々の設計は不完全だった。我々は、自らの宇宙を滅ぼした根本原因を解決できぬまま、君たちの宇宙を創造してしまった。我々は、熱力学的死という名の『バグ』を、君たちの宇宙に埋め込んでしまったのだ』

エントロピー増大の法則。秩序は常に無秩序へと向かう。エネルギーは拡散し、やがて宇宙は絶対零度の静寂に包まれる。それが、この宇宙に仕掛けられた時限爆弾だという。

『我々は失敗した。君たちもまた、いずれは冷たい死を迎えるだろう。このメッセージは、我々の敗北宣言であり、君たちへの弔辞だ』

通信はそこで途切れた。ブリッジは死んだような静寂に包まれる。絶望が、酸素よりも濃密に船内を満たしていく。僕らの存在、人類の歴史、愛や憎しみ、その全てが、巨大な実験の失敗データに過ぎなかったというのか。

「……待ってくれ」

僕は虚空に向かって呟いた。何かがおかしい。解読作業中、ずっと感じていた微かな違和感。本流の信号の背景に、常にまとわりついていた、ノイズとも呼べないほどの微弱な何か。

「《ノア》、ゴースト・シグナルのキャリア波直下、サブハーモニクス領域を最大増幅。全てのフィルターを解除しろ」
「警告します、アキラ。意味のないホワイトノイズです。情報価値はゼロに等しい」
「いいからやれ!」

僕の怒鳴り声に、エヴァが驚いてこちらを見た。スクリーンに、純白のノイズの嵐が吹き荒れる。だが、その中で、僕は確かに「それ」を聞いた。
それは、赤ん坊の産声によく似た周波数の高まり。恋人たちが囁き合う声のような穏やかな揺らぎ。そして、新しい発見に歓喜する科学者の叫びに似た、鋭いスパイク波。

「これだ……」

僕はコンソールに両手をつき、震える声で言った。
「メッセージは、まだ終わっていなかったんだ。最後の、たった一行が残されていた」

僕はノイズの海から、その一行を拾い上げた。それは、彼らの言語には存在しなかった概念。彼らが最後まで理解できなかった、最後の希望。

『我々は、一つの『変数』を遺した。鍵は、最もありふれた、しかし最も不可解な力の中にある』

エヴァが僕の肩を掴んだ。
「アキラ、その『変数』とは何なんだ?重力か?それとも暗黒エネルギーのことか?」

僕はゆっくりと首を振り、スクリーンに映る生命のパルスを指さした。
「いいえ、船長。もっと身近なものです。物理法則に縛られず、無から有を生み出し、無秩序に秩序を与える力。創造主ですら、設計図に組み込めなかった唯一の要素」

僕は、ブリッジにいる仲間たちの顔を見渡した。絶望に沈んでいた彼らの瞳に、かすかな光が灯り始めている。

「その力の名は、『意識』です」

エントロピーの法則に逆らい、原子の集合体に過ぎない我々が、愛を謳い、星々を目指す。この非合理な情熱こそが、宇宙に仕掛けられたバグを修正する、たった一つのパッチなのかもしれない。

エヴァは深く頷き、力強く命令した。
「進路変更。地球へ帰還する」

《ヴォイジャーIII》は、ゆっくりと船首を巡らせた。僕らの故郷、青い惑星へ向かって。
途方もない宿題を、創造主から託されて。
僕らは、ただの被造物ではない。宇宙の運命を書き換える、最後の変数なのだ。
深宇宙の静寂の中、僕には聞こえる気がした。これから始まる、壮大な交響曲の、最初のファンファーレが。

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