***第一章 青空の断片***
カイリの仕事場は、静寂と秩序で満たされていた。壁一面に広がるサーバーラックが放つ微かな駆動音と、冷却ファンの吐息だけが、彼の孤独な世界のBGMだ。彼は「メモリア・アーカイバー」。人々が捨てたがる記憶を買い取り、デジタルデータとして永久保存する、いわば記憶の墓守だった。
「売却希望は、『初めて空を見上げた瞬間の記憶』、ですか」
カイリはカウンター越しに座る老婆を見つめ、眉をひそめた。皺の刻まれた顔、穏やかだがどこか遠くを見ているような瞳。人々が売りに来るのは、大抵がトラウマや失敗、恥といった負の記憶だ。そんなものに比べれば、この老婆の依頼はあまりに異質で、そして無価値に思えた。
「はい。あの、どこまでも広がっていた青色を。あの日、風が頬を撫でた感触も一緒に。お願いできますでしょうか」
丁寧すぎるほどの言葉遣いだった。カイリは規約集を指先でなぞる。「感情的価値の高い記憶は、高額査定の対象外となりますが、よろしいですね?」
「ええ、お金はいくらでも。ただ、誰かに覚えていてほしいのです。私が忘れてしまっても、世界のどこかに、あの空が存在し続けてくれるのなら」
その言葉は、カイリの心を微かに揺さぶった。彼はいつも通り、無感情を装って手続きを進める。ヘッドギアを老婆に装着させると、彼女の意識の海から、指定された記憶の断片が抜き取られていく。モニターに映し出されたのは、息を呑むほどに鮮やかな空だった。雲ひとつない、どこまでも続くセルリアンブルー。幼子の視点だろうか、視界が低く、世界が巨大に見える。風の音がサラサラと流れ、陽光の温かさが伝わってくるような、完璧な記憶データだった。
処理を終え、老婆は小さな礼を言って立ち去った。彼女の背中は、何か重いものを一つ下ろしたかのように、少しだけ軽く見えた。
カイリはアーカイブされたばかりの「青空の断片」を眺めた。商品番号MMR-7310。彼の仕事は、こうして個人の記憶から感情と文脈を剥ぎ取り、ただのカタログ番号を振ることだ。そう、これはただのデータだ。そう割り切らなければ、他人の人生の断片に溺れてしまう。彼はコーヒーを一口すすり、モニターの光から目をそらした。だが、網膜の裏に焼き付いたその青色は、なぜかいつまでも消えなかった。
***第二章 混線のノイズ***
数日後、あの老婆が再びカイリの店を訪れた。今度の売却希望は『初めて雨の匂いを嗅いだ記憶』だった。アスファルトが湿り、土の香りが立ち上る、あの独特の感覚。またしても、誰もが心の片隅に持っているような、ささやかで美しい記憶だ。
「また、あなたでしたか」
カイリの言葉には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。老婆は静かに微笑むだけだった。
手続きは前回と同じように進んだ。だが、記憶データを抽出したカイリは、モニターの前で動きを止めた。データの波形に、奇妙な乱れが生じている。ノイズだ。通常、記憶抽出の際に発生するエラーとは質が違う。それはまるで、別の記憶が混線しているかのような、不自然な揺らぎだった。
カイリは解析ツールを起動し、ノイズ部分を拡大した。すると、そこには一瞬だけ、別の映像が浮かび上がった。――薄暗い部屋。ベッドの上で、小さな男の子が苦しそうに咳き込んでいる。映像はそれだけですぐに消え、元の雨の匂いの記憶に戻った。
「何か、問題でも?」
老婆が不安そうに尋ねる。
「いえ、少しデータが不安定なだけです。処理は完了しました」
カイリは平静を装いながら、胸のざわめきを抑えきれなかった。前回の「青空の断片」のデータを急いで呼び出す。注意深く解析すると、やはり同じようなノイズがあった。そこには、同じ男の子が窓の外を見て、寂しそうに微笑む姿が記録されていた。
この老婆は、何かを隠している。彼女が売りに来る美しい記憶は、ただの記憶ではない。その裏には、あの病弱な少年の影が常に付きまとっている。
「失礼ですが」カイリは、アーカイバーとしての職分を逸脱していると自覚しながらも、口を開かずにはいられなかった。「あなたが手放そうとしている記憶は、本当に、あなた自身のものですか?」
老婆の瞳が、初めて見せる鋭い光を帯びて揺れた。彼女は何も答えず、ただ震える手でカウンターに置かれた僅かな報酬金を受け取ると、逃げるように店を出ていった。
残されたカイリは、二つの記憶データと、そこに潜む少年の断片を前に、深い思索の海に沈んでいった。これは単なる商取引ではない。自分が足を踏み入れたのは、誰かの魂の、最も神聖で、そして最も痛ましい領域なのかもしれない。彼は禁じられていると知りながら、老婆の個人IDを手掛かりに、彼女の過去の記録を検索し始めた。
***第三章 移植された魂***
カイリがたどり着いた事実は、彼の想像を遥かに超え、その価値観を根底から揺るがすものだった。
老婆の名前は、エラ。彼女にはかつて、ハルトという名前の一人息子がいた。ハルトは先天性の免疫不全を患い、人生のほとんどを無菌室の中で過ごした。窓から空を眺め、本で読んだ雨の匂いを想像することしかできない少年だった。彼は、8歳の誕生日を迎えることなく、その短い生涯を終えている。
そして、カイリの全身を総毛立たせる記録が見つかった。ハルトが亡くなる直前、エラは非合法の「記憶移植」手術を受けていたのだ。それは、息子の脳が活動を停止するまでの全感覚――彼が見たもの、聞いたもの、感じたもの全てを、母親であるエラの脳に転写するという、禁忌の技術だった。
カイリは愕然とした。エラが売りに来た記憶は、彼女自身のものではなかった。あれは、無菌室から出ることのできなかった息子、ハルトの記憶だったのだ。
『初めて空を見上げた瞬間の記憶』。それは、ハルトが写真で見た空を想像し、心の中で描いた、憧れの空だった。『初めて雨の匂いを嗅いだ記憶』。それは、母親が読んでくれた物語から、ハルトが必死に紡ぎ出した、想像の匂いだった。
カイリが処理していたのは、一人の少年が生きたかった世界の記録であり、母親がその身に引き受けた、愛と悲しみの結晶だった。混線していたノイズは、エラの精神が、息子の記憶の重みに耐えきれず、悲鳴を上げている証拠だったのだ。移植された記憶は、年月と共にエラ自身の記憶と癒着し、彼女の自己同一性を少しずつ侵食し始めていた。
彼女が記憶を一つずつ売りに来ていたのは、金のためではない。息子が生きた証、彼が感じたであろう世界の美しさを、誰かに、何かに、託したかったのだ。そして同時に、それは息子との二度目の別れであり、狂気に飲み込まれる前に自分自身を取り戻すための、悲痛な儀式だった。
カイリは自分のデスクに突っ伏した。自分が今まで「データ」として淡々と処理してきたものの本当の重さを知り、吐き気すら覚えた。無数の記憶が保管されたサーバーラックが、今はまるで巨大な墓標のように見えた。一つ一つの光の点滅が、誰かの人生の鼓動のように思えてならなかった。彼の築き上げてきたプロフェッショナルとしての壁は、音を立てて崩れ落ちていた。
***第四章 あなたの空を覚えている***
数週間後、エラが三度、店に現れた。以前よりもずっと痩せ、その足取りは見るからに弱々しかった。彼女が差し出したメモリーチップには、こう書かれていた。
『母親の温もりを初めて感じた記憶』
カイリは息を呑んだ。それはハルトの記憶であり、同時に、ハルトを抱きしめたエラ自身の記憶でもあるはずだ。二人の魂が、最も深く結びついた瞬間の記録。彼女は、ついにこれを手放す覚悟を決めたのだ。
「これで、最後です」エラは、か細い声で言った。「あの子の全てを、お願いします」
カイリはしばらくの間、黙ってエラを見つめていた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「この記憶は、買い取れません」
エラの目に戸惑いの色が浮かぶ。
「なぜ…?規約違反でも…」
「いいえ」カイリは彼女の言葉を遮り、自分のヘッドギアを手に取った。「これは、あなたが持っているべき記憶です。手放してはいけない」
カイリは躊躇わなかった。彼は自分の脳にデバイスを接続し、自身の記憶の海を探った。幼い頃、転んで泣いていた自分を、母親が優しく抱きしめてくれた記憶。その温もり、安心感、そして愛されているという絶対的な感覚。彼はその記憶をデータとして抜き出し、目の前のモニターに映し出した。
「僕の記憶です。母はもういませんが、この温もりは、僕の中で今も生きています」
モニターには、カイリの母親が幼い彼を抱きしめる姿が映し出されていた。エラはそれを見つめ、その瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは絶望の涙ではなかった。共感と、解放の涙だった。
「あなたの愛は、無駄じゃなかった。ハルトくんが生きた証は、彼が感じた世界の美しさは、確かにここに記録されています。そして…」カイリはエラの目を真っ直ぐに見て言った。「僕が、覚えています。あの青空を、雨の匂いを。僕が、決して忘れません」
エラは何度も頷き、嗚咽を漏らした。やがて彼女は深々と頭を下げると、何も持たずに店を出ていった。その背中は、来た時よりも遥かに軽く、確かな一歩を踏みしめているように見えた。
カイリは一人、静寂に戻った仕事場で、壁一面のサーバーラックを見上げた。無数の光の点滅が、まるで満天の星空のように見えた。それらはもはや単なるデータではなかった。一つ一つが誰かの人生であり、物語であり、愛の記録だった。
彼は窓の外に目をやった。都市のビル群の向こうに、エラが売りに来た記憶と寸分違わぬ、どこまでも広がる青空が見えた。その青の深さに、カイリは初めて、自分の仕事の本当の意味を見出したような気がした。記憶は、ただ消去したり保存したりするものではない。誰かが誰かの記憶を受け継ぎ、覚えていくこと。それこそが、人が永遠を生きる唯一の方法なのかもしれない。
カイリは、ずっと目を背けてきた自分自身の過去の記憶と、そろそろ向き合う時が来たと、静かに決意した。空は、ただ青く、美しく、全てを知っているかのように彼を見下ろしていた。
メモリア・ブルー
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