忘れな草のゼンマイ

忘れな草のゼンマイ

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***第一章 零時の囁き***

古物商という仕事は、死者の呟きに耳を傾けるようなものだ、と師匠は言った。持ち主を失い、ただの「物」になった品々が、その身に刻まれた記憶を声なく語りかけてくる。それを聞き取れるようになって、初めて一人前だと。
水島亮(みずしま りょう)は、その言葉を思い出すたび、自嘲気味に口元を歪めた。師匠が亡くなって五年。今の自分は、物の声どころか、自分の心の声さえ聞こえなくなっていた。くすんだアンティーク家具の間に立ち、埃っぽい光の中で値札を眺める日々。そこにあるのは物語ではなく、市場価値という無味乾燥な数字だけだった。

その日、亮が引き取ったのは、街の片隅で百年近く続いた時計店が遺した、一台の壮麗なホールクロックだった。マホガニーの艶やかな躯体には、精緻な葡萄の蔓と小鳥の彫刻が施されている。店を畳む老婆は、皺だらけの手で時計のガラスをそっと撫でながら、寂しそうに言った。
「この子はね、特別なんです。時々、昔の音を奏でるんですよ。まるで、ゼンマイに記憶が宿っているみたいに」
亮は愛想笑いを浮かべながら、それを老人の感傷として聞き流した。長年連れ添った品に、特別な想いを抱くのはよくあることだ。彼は手際よく査定を済ませ、代金を支払い、その巨大な時計を店のバンに運び込んだ。

店に戻り、ホールクロックを壁際に据え付けると、ずしりとした存在感が、雑然とした店内の空気を引き締めた。振り子が刻む「コチ、コチ」という音は、まるで古い心臓の鼓動のようだ。その音を聞いていると、不思議と荒んでいた心が凪いでいくのを感じた。
その夜、亮は店の二階にある住居で、久しぶりに深い眠りに落ちた。

しかし、真夜中にふと意識が浮上する。階下から、何かが聞こえる。時計の音ではない。もっと有機的で、耳の奥を掻きむしるような、微かな音。
亮はベッドから抜け出し、軋む階段を慎重に下りた。店の暗がりに足を踏み入れると、音の源がすぐに分かった。ホールクロックだ。
スマートフォンのライトを向けると、長針と短針がちょうど真上の「12」で重なっていた。午前零時きっかり。振り子の音は止まり、代わりに、そこから漏れていたのは……若い女性の、息を押し殺したような泣き声だった。そして、途切れ途切れに、悲痛な囁きが響いた。
「お願い……やめて……」
全身の肌が粟立つ。それは幻聴などではない。あまりにも生々しい、絶望の色を帯びた声だった。数秒後、声はふっと消え、再び振り子が「コチ、コチ」と時を刻み始めた。
亮は、時計の前に立ち尽くしたまま、動けなかった。老婆の言葉が脳裏で反響する。『ゼンマイに記憶が宿っている』。冗談じゃない。これは、ただの記憶などではない。これは、誰かの断末魔の叫びだ。

***第二章 欠けた旋律***

翌日から、亮の日常は一変した。毎晩、午前零時になると、時計は決まって悲劇の断片を再生した。三日目の夜には、女性の泣き声に混じって、甲高いガラスの割れる音が響いた。五日目の夜には、何かが激しく階段を転がり落ちるような、鈍い衝撃音が聞こえた。
亮は眠れない夜を過ごしながら、これは単なる怪奇現象ではないと確信していた。この時計は、ある事件の唯一の「目撃者」なのだ。冷めきっていたはずの古物商の血が、ゆっくりと熱を帯びていくのを感じた。物の声を聞け、か。師匠、あんたの言う通りなら、こいつはとんでもないことを喋っている。

亮はまず、時計の来歴を徹底的に洗うことにした。幸い、時計の内部に製造元の銘板が残っていた。五十年前、腕利きの職人がたった一台だけ製作した特注品。そして、最初の所有者の名は「桐谷宗助(きりたに そうすけ)」と記されていた。
桐谷宗助。その名は、クラシック音楽の世界では伝説だった。戦後日本を代表する高名な音楽家であり、多くの才能ある弟子を育てたことでも知られている。亮は古い新聞記事を漁り、桐谷家に関する情報をかき集めた。
そこで、彼は一枚の写真に釘付けになった。桐谷宗助の隣で、はにかむように微笑む、聡明そうな美しい少女。娘の、桐谷小夜子(きりたに さよこ)。記事によれば、彼女は天才的なピアノの才能を持ち、将来を嘱望されていたが、二十歳の誕生日を目前にしたある日、自宅の階段から足を滑らせて転落。帰らぬ人となった。警察の判断は、不慮の事故。
亮の背筋に、冷たいものが走った。階段からの転落。時計が再生した音と、あまりにも符合しすぎる。

その夜、亮は再び時計の前に座り、息を詰めて零時を待った。いつものように泣き声と囁きが聞こえ、ガラスの割れる音が続く。だが、その日は違った。衝撃音の後、今まで聞こえなかった、新たな音が響いたのだ。
それは、ピアノの旋律だった。ショパンの『別れの曲』。しかし、その演奏はあまりにも拙く、いくつかの音を外した挙句、最も胸を打つはずのフレーズの途中で、ぷつりと途絶えてしまった。まるで、鍵盤を叩く指が力を失ったかのように。
欠けた旋律。それは小夜子の無念そのものであるかのように、店の暗闇に悲しく響き渡った。
亮は、もはやこの時計をただの骨董品として見ることはできなかった。これは呪われた品などではない。殺された少女の、最後のメッセージなのだ。事故として闇に葬られた事件の真実を、誰かに伝えるために。亮は、小夜子の声なき声に応えなければならないと、強く感じていた。

***第三章 真実の調律***

調査の末、桐谷宗助がまだ存命であることを突き止めた亮は、郊外の静かな老人ホームへと車を走らせた。九十歳を超えた桐谷は、車椅子の上で窓の外をぼんやりと眺めていた。かつての音楽界の巨匠の面影はなく、ただ静かに終焉を待つ一人の老人だった。
亮が来訪の目的を告げ、ホールクロックの話を切り出すと、桐谷の穏やかだった顔に険しい影が差した。
「あの時計は、とうの昔に手放したはずだ。今さら何の用かね」
「あの時計から、声が聞こえるんです。毎晩零時に。女性の泣き声と、『お願い、やめて』という囁きが」
桐谷は眉一つ動かさなかった。だが、亮が次の言葉を続けたとき、彼の時間が止まった。
「そして、ピアノの音も聞こえます。ショパンの『別れの曲』。でも、途中で……旋律が欠けているんです」
桐谷の指が、ぴくりと震えた。血の気の失せた唇が、かすかに開く。長い沈黙の後、彼は絞り出すような声で言った。
「……中へ入りなさい」

通された個室で、桐谷は重い口を開いた。彼の語る真実は、亮の予想を根底から覆すものだった。
「あの日、娘は事故で死んだのではない。……私が、この手で」
衝撃的な告白だった。しかし、桐谷の目に殺意の色はなく、ただ底なしの悲しみが広がっていた。
「小夜子は、不治の病に侵されていた。徐々に指先の感覚が麻痺していく、音楽家にとっては死刑宣告と同じ病だ。日に日に思うように弾けなくなるピアノに、彼女は絶望していた。そして、あの日、私に言ったのだ。『醜く弾けなくなる前に、一番美しい記憶のまま、音楽と共に死にたい』と」
桐谷は、必死で娘を説得したという。時計から聞こえた「お願い、やめて」という囁きは、娘を殺そうとする犯人の声ではなかった。自ら命を絶とうとする娘を、必死に止めようとする父親の悲痛な叫びだったのだ。
「だが、娘の決意は鋼のように固かった。彼女は、音楽を憎んで死んでいくことだけはしたくなかった。愛するピアノの記憶と共に、旅立ちたかったのだ」
苦悩の末、桐谷は娘の最後の願いを聞き入れることを決断した。それは、殺人でも自殺幇助でもない。父親として、娘の魂の尊厳を守るための、究極の愛の形だった。彼は娘に薬を手渡し、彼女が眠るように息を引き取るのを見届けた。階段から転落したように見せかけたのは、娘の名誉を守るための、苦渋の偽装工作だった。ガラスの花瓶を割り、物音を立てたのも、すべて彼自身だった。
「では、あの時計の音は……」
「事件の音ではない」と桐谷は首を横に振った。「あれは、事件の後に、私が何度も何度も頭の中で繰り返した、後悔と悲しみの記憶そのものだ。娘を止められなかった無念、彼女を失った痛み……私の想念が、長年連れ添ったあの時計に、染み付いてしまったのだろう」
時計は、殺人事件の物証ではなかった。それは、娘を愛しすぎた父親の、五十年にわたる悲痛な祈りの記録だったのである。

***第四章 忘れな草のゼンマイ***

「私が止めたかったのは、娘の命だけではない」桐谷は、窓の外に視線を移したまま続けた。「ピアニストとしての未来が絶たれた絶望から、音楽そのものを憎んで死んでいこうとしていた彼女の心を、止めたかった。彼女には、音楽を愛したまま、眠りについてほしかったのだ」
その言葉を聞いて、亮ははっとした。あの欠けたピアノの旋律。あれは、小夜子の絶望の象徴だったのだ。そして、桐谷の五十年の祈りは、その絶望を癒すためのものだった。

店に戻った亮は、吸い寄せられるようにホールクロックの前に立った。それはもはや、不気味な謎を秘めた物体ではなかった。深い愛と悲しみの物語を抱いた、聖遺物のように見えた。
彼はそっと時計に触れ、目を閉じた。物の声を聞け。師匠の言葉が、今なら本当の意味で理解できる。それは、物の背景にある人間の想い、喜び、そして悲しみに耳を傾けるということなのだ。金銭的な価値では測れない、魂の重さを受け止めることなのだ。

やがて、時計の針が零時を指した。
いつものように、押し殺した泣き声が響き、父親の悲痛な囁きが聞こえる。ガラスの割れる音、階段を転がる鈍い音。そして、ショパンの『別れの曲』が流れ始めた。
絶望に満ちた、あの欠けた旋律。
だが、その夜は違った。亮が息を飲んだ、その瞬間。ぷつりと途切れたはずのメロディの続きを、まるで天上の指が奏でるかのように、清らかで完璧なピアノの音が紡ぎ始めたのだ。それは、悲しみを乗り越え、すべてを赦し、昇華させていくような、光に満ちた音色だった。
まるで、父の五十年の想いがついに娘に届き、欠けていた彼女の魂の旋律を、今、完成させたかのように。
亮の頬を、一筋の涙が伝った。

翌日、亮は小さな花屋で、一輪の忘れな草を買った。店に戻ると、彼はホールクロックを売るための値札を剥がし、そっと屑籠に捨てた。そして、時計の傍らの小机に、小さなグラスに挿した忘れな草を飾った。
この時計は、もう誰にも売らない。この場所で、父と娘の愛の物語を、永遠に奏でさせよう。
振り子が刻む「コチ、コチ」という音は、もはやただの時間の経過を告げる音ではなかった。それは、失われた時を取り戻し、癒された魂が静かに呼吸する、優しい鼓動に聞こえた。
亮は静かに目を閉じる。物の声に耳を澄ます。古物商としての彼の本当の仕事が、今、この瞬間から始まったのだった。

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