アッカドの警告

アッカドの警告

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それは、歴史という名の静かな湖に投げ込まれた、一個の異物だった。

若き考古学者、神崎隼人(かんざきはやと)がイラク南部の古代都市ウルの遺跡でその粘土板を発見した時、彼の全身を駆け巡ったのは歓喜よりもむしろ、当惑だった。四千年以上の時を経て土の中から現れたそれは、一見すればありふれた楔形文字の記録板だ。だが、そこに刻まれた図形は、隼人の知識体系を根底から揺るがすものだった。

無数の歯車、精密に角度が計算されたであろう支柱、そして中央には磨かれた黒曜石か水晶をはめ込むためのものと思われる円形の窪み。それはどう見ても、複雑な天体観測装置――それも、ガリレオの望遠鏡をすら凌駕しかねない、恐ろしく高度な機械の設計図だったのだ。

「ありえない……」

帰国後、隼人はすぐさま論文をまとめ、学会に発表した。しかし、反応は冷ややかだった。重鎮たちは鼻で笑い、彼の発見を「想像力の産物」「儀式用の装飾模様の誤読」と一蹴した。歴史の教科書を書き換える可能性を秘めた大発見は、権威という名の分厚い壁の前に、あっけなく黙殺された。

「連中は、自分の築き上げた歴史観が壊されるのが怖いだけだ」
悔しさに唇を噛む隼人に、そう言ってくれたのは恩師の高遠教授だけだった。引退した老教授は、隼人が持ち帰った粘土板のレプリカを、皺だらけの指で優しくなぞった。
「隼人くん。この設計図の横にある、奇妙な楔形文字の羅列……。誰も解読できんと言っていたな」
「はい。シュメール語でもアッカド語でもない、未知の言語です」
「わしは、これが伝説の『星詠みの一族』が使った文字ではないかと思うとる」

星詠みの一族。メソポタミアの歴史の影で、王たちにすら恐れられたという謎の集団だ。彼らは天体の運行から未来を読み解き、時には文明の存亡に関わる預言すら行ったと、いくつかの断片的な記録に残されている。

「粘土板の隅に、他の文字とは少し違う刻印がある」と高遠教授は虫眼鏡をかざした。「おそらく地名だ。『静寂の谷』と読める。古地図を当たってみる価値はあるかもしれんぞ」

もはや学会に居場所のない隼人にとって、それは唯一の光だった。私財を投げ打ち、数少ない協力者から情報を集め、彼は再び中東の乾いた大地へと飛んだ。

古地図とGPSを頼りに、灼熱の砂漠を何日も彷徨った末、隼人はついにそれを見つけた。巨大な岩壁に囲まれた、風の音すらしない奇妙な盆地。まさに『静寂の谷』だ。そして、その谷の奥深くに、人工的に穿たれたとしか思えない洞窟の入り口が、ぽっかりと黒い口を開けていた。

ヘッドライトの光を頼りに洞窟を進むと、やがて巨大な地下神殿のような空間に出た。空気はひやりと冷たく、数千年の沈黙が満ちている。

隼人は息を呑んだ。
空間の中央に鎮座していたのは、あの粘土板の設計図が現実の形となった、巨大な機械の残骸だった。青銅製の歯車は緑青に覆われ、支柱は崩れ落ちていたが、その構造の複雑さと壮大さは、隼人の想像を遥かに超えていた。彼らは、本当にこれを作り上げていたのだ。

そして、隼人の視線は神殿の壁一面に刻まれたレリーフに釘付けになった。
そこには、この装置を使って星空を観測する人々の姿、そして、彼らが観測したであろう天体の軌道図が、延々と描かれていた。彗星、惑星、そして――。

レリーフの終着点。そこに描かれていたのは、巨大な「何か」が地球に向かって突き進んでくる、終末的な光景だった。パニックに陥る人々、崩壊する都市。それは、未来への預言なのか。

だが、隼人はあることに気づき、愕然とした。壁画に描かれた星々の配置は、現代の天文学のデータと照合すると、極めて正確なものだった。彼らは未来を「見ていた」のではない。恐るべき精度で、未来を「計算」していたのだ。
数千年も先の、天体の運行を。

隼人は震える手でスマートフォンを取り出し、天文学者の友人に送ってもらっていた最新のデータを表示した。数年前に発見され、現在、地球への衝突コースに乗る可能性が指摘されている小惑星『アポフィス』。その軌道予測データと、壁画に描かれた「災いの星」の軌道が、寸分違わず一致した。

粘土板の設計図は、単なる歴史的遺物ではなかった。
そして壁画は、預言の書ではなかった。

それは、四千年の時を超えて現代に送られた、極めて科学的な『警告書』だったのだ。

夜明けが近いのか、洞窟の入り口から一条の光が差し込み、神殿の床を照らした。隼人は、崩れ落ちた観測儀の残骸と、壁に刻まれた古代人からのメッセージを交互に見つめた。

歴史の発見は、過去を解き明かすだけではない。時には、未来を救う鍵にさえなる。
学会の権威も、世間の嘲笑も、もはやどうでもよかった。伝えるべきことがある。やらなければならないことがある。

「わかった。確かに受け取ったぞ、古代の天文学者たち……」

隼人は力強く呟くと、昇り始めた太陽が待つ外界へと、確かな足取りで歩き出した。彼の背中には、人類の未来という、重く、そして誇らしい使命が宿っていた。

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