墨染のクロノス

墨染のクロノス

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時任 蓮(ときとう れん)の視界が、ノイズの奔流から解放されたとき、鼻腔を突いたのはむせ返るような夏の熱気と、土埃の匂いだった。

「座標、文久三年、京・壬生。転送誤差、ゼロ。健闘を祈る」

鼓膜の奥で冷徹な合成音声が消える。蓮は、自分が所属する超時間的組織『歴史編纂局』から与えられた浪人姿の衣服を確かめ、刀の重みを腰に感じながら、ゆっくりと歩き出した。彼の任務は、歴史の『染み』の除去。未来からの違法渡航者が引き起こした、正史からの逸脱を修正する、孤独な修復作業だ。

今回の『染み』は、些細だが、極めて危険な兆候だった。一年後に起こるはずの「池田屋事件」において、討手である新選組の死傷率が、観測データ上でありえないほど低下している。まるで、誰かが彼らに『未来の知識』か、あるいは『未来の武力』を与えているかのように。

蓮は数日をかけ、京の空気に溶け込んだ。そして、噂を辿って一つの結論にたどり着く。新選組。特に、鬼の副長と恐れられる土方歳三に最近取り入ったという、奇妙な薬師の存在に。名を、道玄(どうげん)と名乗っているらしい。

ある日の夕暮れ、蓮は祇園の一角で標的の姿を捉えた。土方歳三と話す道玄は、人好きのする笑みを浮かべている。だが、その袖口から一瞬覗いたものに、蓮は息を呑んだ。極小の金属板が、淡い光を明滅させていたのだ。蓮が知る、未来の生体モニターだ。

(間違いない、奴が介入者だ)

目的は何か。新選組を強化し、幕府の延命を図る? あるいは、特定の要人を歴史から消すつもりか。いずれにせよ、池田屋事件が絶好の舞台となるだろう。蓮は決意を固めた。

そして、元治元年六月五日、夜。

蓮はすでに、旅籠・池田屋の物置に潜んでいた。外は息詰まるような静寂。やがて、戸を蹴破る轟音と共に、怒号が響き渡った。

「御用改めである! 手向かい致す者は、斬り捨てる!」

近藤勇の咆哮。闇に慣れた目で見た光景は、歴史書通り、凄惨な斬り合いだった。狭い屋内に、刀と刀がぶつかる甲高い金属音、断末魔の叫び、そして血の匂いが充満する。

その時だ。階段の上、一人の隊士が懐から異様な短筒を取り出した。銃身が青白い光を帯びている。圧縮プラズマを射出する、未来の暗殺銃だ。狙いは、長州藩の重要人物、桂小五郎――いや、この時点ではまだ吉田稔麿か。いずれにせよ、ここで彼が死ねば歴史は大きく歪む。

「させん!」

蓮は物陰から飛び出し、隊士の腕を蹴り上げた。放たれたプラズマ弾が天井を焼き、けたたましい音と共に木片が降り注ぐ。

「何奴!?」

新選組の隊士たちが一斉に蓮を睨む。だが、蓮の目はただ一人、階段の上に立つ男――道玄を捉えていた。

「やはりお前か、歴史の密猟者め」

「ほう、同業者か。編纂局の犬が、こんな時代まで嗅ぎつけに来るとはな」

道玄は笑みを消し、冷たい目で蓮を見下ろした。
「私は歴史を正しているのだ。この国に不要な混乱をもたらす者どもを早期に排除し、盤石なる治世を築く。これこそが真の正義ではないかね?」

「貴様のエゴを正義と呼ぶな!」

蓮は刀を抜き、道玄に斬りかかった。道玄もまた、仕込み杖からレーザーブレードを抜き放つ。時空を超えた二人の剣客が、歴史の渦の中心で火花を散らした。

刀身が触れ合うたび、常人には見えぬ時間の粒子が飛び散る。蓮の剣術は、あらゆる時代の達人たちの動きを最適化した編纂局の戦闘術。だが、道玄の未来兵器はそれを上回る。

「消えろ、過去の亡霊!」

道玄の刃が蓮の肩を浅く裂いた。激痛が走る。その一瞬の隙を、鬼が見逃すはずもなかった。

「――そこまでだ」

地を這うような低い声。気づけば、蓮の喉元に冷たい刃が突きつけられていた。土方歳三だ。その氷のような瞳が、蓮と道玄、そして二人が持つ異質な武器を射抜いていた。

「てめえら、一体何者だ。その得物、その動き…ただの浪人じゃねえな」

道玄がほくそ笑む。「土方さん、そいつは我らの大義を妨害する間者です。さあ、斬り捨ててくだされ!」

絶体絶命。土方がわずかに刀に力を込める。だが、蓮は諦めなかった。

「土方さん、あんたが守りたいのは、誠の旗だろう。こいつは、あんたたちの『誠』を、偽りの力で汚そうとしてるだけだ!」

蓮は懐に隠していた最後の切り札――時空安定化装置を起動させた。目標は道玄の持つ未来兵器のみ。眩い光が池田屋を包み、隊士たちが目を覆う。光が収まったとき、道玄のレーザーブレードと隊士が持っていたプラズマ銃は、ただの鉄屑に変わっていた。

「なっ…!?」

驚愕する道玄の腹に、蓮の鞘がめり込む。崩れ落ちる介入者を尻目に、蓮は土方に向き直った。

「邪魔をしたな。あとはあんたたちの仕事だ」

そう言うと、蓮は煙幕弾を床に叩きつけた。特殊な粒子が混ざった煙が、一瞬にして視界を奪う。

「待て! 貴様の名は!」

煙の向こうから、土方の鋭い声が飛んでくる。蓮は闇に溶けながら、ただ一言、呟いた。

「通りすがりの、歴史のしがない修復師(フィクサー)さ」

彼の姿が完全に消えた後、残されたのは正史通りに進み始めた血の宴と、鬼の副長の訝しげな表情だけだった。

時空の狭間にある編纂局に戻った蓮は、治療槽の中で静かに目を閉じる。肩の傷は痛むが、心は不思議と凪いでいた。歴史は守られた。名もなき人々の無数の選択が織りなす、不格好で、しかし尊いタペストリーは、今日もまた、あるべき姿で織り続けられていく。

やがて、新たな指令が彼の脳裏に響く。
「次なる『染み』を観測。座標、古代ローマ、共和政末期――」
蓮は薄く笑みを浮かべると、次の戦場へと思いを馳せた。歴史の守護者には、休息などないのだ。

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