大学院で古代史を専攻する僕、天野樹(あまの いつき)の日常は、一冊の古書によって終わりを告げた。それは、風変わりな郷土史家だった祖父の遺品整理で見つけた、螺鈿細工の木箱に収められていた。羊皮紙と思しき数枚の紙片。そこに描かれていたのは、日本のどの時代のものとも違う、鳥のようにも星のようにも見える奇妙な象形文字だった。
「こんな文字、見たことがない……」
指導教官に見せても、「君の祖父君の創作だろう」と一笑に付されただけ。だが、僕には分かっていた。祖父は、そんな悪戯をする人ではなかった。諦めきれない僕は、羊皮紙の一片をスキャンし、匿名の歴史フォーラムに投稿した。それが、運命の引き金だった。
翌日、僕のアパートのドアが乱暴に叩かれた。ドアスコープを覗くと、黒いスーツを着た二人の男。直感的な恐怖に襲われ、裏口から逃げ出した僕のスマートフォンが震えた。非通知の着信。恐る恐る出ると、凛とした若い女性の声が響いた。
「天野樹さんですね。私は水上詩織(みなかみ しおり)。あなたの投稿、見ました。すぐにそこから離れて。彼らは《黒曜会》……歴史の異分子を消す者たちです」
詩織と名乗る女性と落ち合ったのは、都心から外れた古い神社の境内だった。彼女はそこの神主の娘で、僕の祖父と彼女の祖父は、同じ研究仲間だったのだという。
「この羊皮紙は、《先史日本》の記録。歴史から抹消された、もう一つの王朝……《アマツ王朝》の遺産よ」
詩織の話は荒唐無稽に聞こえた。だが、僕を追ってきた男たちの存在が、彼女の言葉に恐ろしいほどの信憑性を与えていた。僕と詩織は、二人の祖父が残した研究資料を突き合わせ、羊皮紙の解読に取り掛かった。
象形文字は、古代の星座の配置と、日本各地に点在する特定の神社の位置を組み合わせた、壮大な暗号だった。最初の答えが導き出された時、僕たちは息を呑んだ。
「奈良、明日香村の奥……地図にない石舞台……?」
僕たちは、追っ手を警戒しながら深夜の明日香村へ飛んだ。月明かりだけが頼りの山道を進むと、苔むした巨石が折り重なる、忘れられた古墳群が現れた。羊皮紙が示す中心の石室へ入ると、壁には羊皮紙と同じ象形文字がびっしりと刻まれていた。
「これは……星の航海図だ」僕が呟いた。「彼らは、星を見ていただけじゃない。星を渡っていた……?」
その時、石室の入り口から複数の懐中電灯の光が差し込んだ。《黒曜会》だ。
「そこまでだ。その記録は我々が回収する」
絶体絶命。しかし、詩織は冷静だった。彼女は壁の一つの紋様を強く押し込んだ。ゴゴゴ、と地響きがして、僕たちの足元の床が抜け落ちる。滑り台のような暗い通路を転がり落ち、僕たちは地下水路へと脱出した。
「《アマツ王朝》は、ただの古代人じゃない。彼らは、天体の運行を完璧に読み解き、地脈を操るほどの技術を持っていた。その知識が為政者の手に渡ることを恐れ、自ら歴史から姿を消したの」と、ずぶ濡れの詩織が言った。
羊皮紙が示す次の場所は、出雲。そして、阿蘇へ。僕たちは《黒曜会》の執拗な追跡をかわしながら、日本神話の裏に隠された《アマツ王朝》の痕跡を辿る旅を続けた。彼らが残した遺跡は、現代科学では再現不可能な、オーパーツとしか思えないものばかりだった。彼らは一体、何者だったのか。
最後の地は、琵琶湖に浮かぶ竹生島。島の最深部にある洞窟で、僕たちはついに《アマツ王朝》の心臓部へとたどり着いた。
そこに鎮座していたのは、巨大な天球儀だった。青銅と水晶でできたそれは、ゆっくりと回転し、未来永劫の星々の動きを寸分の狂いなくシミュレートしていた。それは、単なる天文装置ではない。天災、干ばつ、そしておそらくは、人の世の栄枯盛衰さえも予測する、究極の「予言機」だった。
「これを……守るために……」
背後から、銃口を突きつけられた。振り向くと、《黒曜会》のリーダーと思しき老人が立っていた。
「その通りだ、若者たち。この『クロノスの羅針盤』が公になれば、世界は秩序を失い、大いなる混乱に陥る。未来を知った人間は、希望ではなく絶望を抱くのだ。我々は、それを防ぐために歴史を管理してきた」
僕と老人の視線が交錯する。彼の言うことにも一理あるのかもしれない。だが、隠蔽された真実の上に成り立つ平和など、本当に正しいのだろうか。
「歴史は、あなたたちだけのものではない!」僕は叫んだ。「この真実をどう使うか、決めるのは未来を生きる僕たちだ!」
僕の言葉を合図にしたかのように、詩織が懐から取り出したお守りを天球儀の中心に投げつけた。閃光が走り、洞窟全体が激しく揺れ始める。
「自己修復プログラムが……! いかん、崩れるぞ!」
老人が叫ぶ。僕たちは、崩れ落ちる岩石をかいくぐり、必死に出口へと走った。背後で、人類の叡智を超えた遺産が、再び悠久の眠りにつく轟音が響いていた。
湖畔にたどり着いた僕たちの手には、数枚の羊皮紙の写しだけが残されていた。朝日が、傷だらけの僕たちを照らし出す。失われたものは大きい。だが、僕たちの胸には、確かな興奮と使命感が燃えていた。
「終わったんじゃない」詩織が僕を見て、悪戯っぽく笑った。「始まったのよ、私たちの本当の探求が」
僕は頷き、昇り始めた太陽を見つめた。歴史の教科書には載っていない、空白のページはまだ無数にある。そして、その謎を解き明かす鍵は、今、僕たちの手の中にあるのだから。
クロノスの羊皮紙
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