残響ノイズ

残響ノイズ

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防音扉が重たい音を立てて閉まると、世界から切り離されたような静寂が俺、相田拓也を包み込んだ。フリーの音声編集者である俺にとって、この六畳ほどの防音室は聖域であり、仕事場だ。だが今、目の前の古びたオープンリールデッキが放つ存在感は、この聖域にそぐわない異物のように感じられた。

依頼は一週間前、メールで舞い込んだ。差出人は「倉田」と名乗るだけで、顔も素性も知らない。旧家の蔵から出てきたというテープのデジタル化とノイズ除去。破格の報酬に目が眩み、俺は二つ返事で仕事を引き受けた。

再生ボタンを押すと、リールがゆっくりと回り始める。スピーカーから流れ出したのは、昭和のホームビデオのような、くぐもった家族の団らんの声だった。子供のはしゃぐ声、母親の笑い声、テレビの音。その奥で、ジジ、というテープの劣化音が絶え間なく鳴っている。ここまでは想定内だ。問題は、そのさらに奥で鳴っている、奇妙な「何か」だった。

それは単なるヒスノイズではない。ごく微かに、しかし確かに、何かのリズムを刻んでいる。キ、キ、キ……。金属を爪で引っ掻くような、耳障りな高音。俺は眉をひそめ、機材のフェーダーを慎重に操作した。この不快な音を取り除くのが、今回の主な仕事になるだろう。

作業に没頭して数日が過ぎた。ノイズ除去は遅々として進まなかった。例のノイズは、まるで生き物のように俺の編集をすり抜ける。除去したかと思えば、別の周波数帯に姿を変えて現れるのだ。その執拗さに、俺は次第に苛立ちと言いようのない不安を募らせていった。

異変は、仕事部屋の外でも起き始めた。深夜、キッチンで水を飲もうと蛇口をひねると、シンクに落ちる水滴の音が、あのノイズと同じリズムを刻んでいるように聞こえた。カツ、カツ、カツ……。気のせいだ、と頭を振る。疲れているんだ。しかし翌日には、換気扇のモーター音が、その翌日には、俺自身のキーボードを叩くタイプ音が、あの不快な音階をなぞっているように思えてならなかった。

日常の音が、少しずつ汚染されていく。静寂であるはずの防音室にいても、耳の奥で幻聴のようにあの音が鳴り響き、俺は眠れぬ夜を過ごすようになった。倉田に連絡を取ろうとしたが、メールの返信はなく、電話番号も使われていなかった。高額な報酬は、この得体の知れない恐怖に対する口止め料だったのかもしれない。

もう限界だった。俺は半ば自棄になり、最後の手段に出ることにした。問題のノイズ部分だけを抽出し、解析ソフトにかける。周波数、波形、あらゆるデータを洗い出す。もしこれがただの音響現象でないのなら、何かしらの正体が掴めるはずだ。

モニターに表示された波形は、一見すると無秩序なスパイクの連続だった。だが、俺は違和感に気づく。その波形には、人間の声紋に似た特徴が微かに見て取れたのだ。まさか。震える手でマウスを操作し、再生ピッチを極端に、あり得ないほど低く設定した。

再生ボタンをクリックする。

スピーカーから響いたのは、もはやノイズではなかった。地獄の底から響いてくるような、低く、歪んだ男の声。それは、同じ言葉を何度も、何度も繰り返していた。

「オマエノオトヲクレ」

全身の血が凍りついた。椅子を蹴立てるように立ち上がろうとした、その瞬間。

静寂が、破られた。

背後から音がした。俺の心臓が恐怖に跳ねる音。ドクン、と。その直後、寸分違わず同じ音が、部屋の隅の暗闇から聞こえた。ドクン。俺が恐怖で息を呑む。ヒュッ、と喉が鳴る。暗闇もまた、ヒュッ、と鳴った。俺の呼吸、血液が体内を巡る音、筋肉が強張る微かな軋み。俺という存在が発する全ての「音」が、リアルタイムで模倣され、暗闇から返ってくる。

テープは止まっている。ヘッドフォンもしていない。なのに、その音は頭蓋の内側に直接響いてきた。

「オマエノオトヲクレ」

声が聞こえた。今度は、俺自身の声で。いや、俺の声ではない。俺の声を模倣した「何か」の声だ。

パニックに駆られ、防音扉に殺到する。だが、分厚い扉はびくともしない。まるで外から固く閉ざされたかのように。ガチャガチャとノブを揺らすが、その金属音さえ、即座に暗闇に吸い込まれ、寸分違わぬ響きで返ってくる。

やがて、異変が起きた。俺自身の音が、消え始めたのだ。

必死に叩いていた心臓の鼓動が、ふっと聞こえなくなった。いや、動いてはいる。だが、その「音」だけが奪われたのだ。続いて、喘ぐような呼吸音も消えた。叫ぼうとした。喉を震わせ、ありったけの空気で声帯を鳴らそうとする。しかし、唇から漏れたのは、音にならない乾いた吐息だけだった。

俺の悲鳴は、代わりに部屋の暗闇が上げた。甲高く、絶望に満ちた叫び声が、音を失った俺の鼓膜を震わせる。それは紛れもなく、俺が上げるはずだった悲鳴だった。

一つ、また一つと、俺の存在を証明する音が奪われていく。そして遂に、完全な無音の世界が訪れた。俺は、音のない人形になった。

数日後、静まり返った仕事部屋に、あの重い防音扉が開く音が響いた。入ってきたのは、初老の男だった。倉田と名乗った依頼主だろうか。男は、椅子に座ったまま虚空を見つめる俺を一瞥すると、満足げに頷いた。

彼は慣れた手つきで機材を操作し、ハードディスクにコピーされた完成データを確認する。再生されたのは、ノイズが完璧に除去された、クリアな家族の団らんの声だった。

男はヘッドフォンをつけ、目を閉じてその音に聴き入る。そして、彼の口元に恍惚とした笑みが浮かんだ。

クリアになった音声の奥。かつてノイズがあった場所に、新しい音が生まれていた。それは、人間の生命活動を完璧に模倣した、微かな残響。心臓の鼓動、呼吸、血流の音。それは、俺から奪われた「音」だった。男は、その新しい「ノイズ」を蒐集するために、また次の獲物を探すのだろう。音を喰らう、静かなる捕食者として。

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