***第一章 不協和音の訪れ***
その音は、まるで古井戸の底から響いてくるかのように、俺の頭蓋の内側で微かに鳴り始めた。最初はただの耳鳴りだと思った。連日の過労か、あるいは安物のワインのせいだろうと。だが、その音は消えなかった。キーンという金属的な不快音ではない。もっと有機的で、湿り気を帯びた音。すすり泣きにも似た、微かな旋律を伴う、寄る辺ない響きだった。
俺、相沢響介の仕事はピアノの調律師だ。かつては喝采を浴びるピアニストになる未来を信じて疑わなかったが、あるコンクールでの致命的な失敗を境に、俺は鍵盤から逃げた。今では他人のための音を整えるだけの、影のような存在だ。人との深い関わりを避け、アパートと仕事場を往復するだけの、色のない日々。そんな俺にとって、静寂は唯一の友人だったはずだった。
耳鳴りが始まったのは、あの洋館の仕事を引き受けてからだ。街外れの丘の上に、忘れられたように佇む古い西洋建築。依頼主は顔を見せず、代理人だという男から鍵を渡されただけだった。埃と黴の匂いが混じり合った重い空気が、肺を満たす。広大なホールの中央に鎮座していたのは、見事な装飾が施された黒檀のグランドピアノだった。
鍵盤に触れた瞬間、ぞわりと背筋を冷たいものが駆け上がった。そして、あの耳鳴りが始まったのだ。調律ハンマーを握る指先が、微かに震える。狂った弦を一本一本締め、音を合わせていく。それは祈りにも似た作業だった。この不協和音に満ちた世界から、たった一つでも正しい音を見つけ出したいという、虚しい願い。
作業を終え、洋館を後にしても、耳鳴りは止まなかった。それどころか、夜が更けるにつれて音は輪郭を増していく。ベッドに横たわると、それは囁き声のように俺の鼓膜を撫でた。眠れない。アルコールの力を借りても、意識の淵でその音が手招きをする。まるで、俺が忘れてしまった何かを、必死に思い出させようとするかのように。日常が、静かに、しかし確実に侵食されていく感覚。俺は、得体の知れない恐怖の律動に、囚われ始めていた。
***第二章 旋律の記憶***
一週間が過ぎても、亡霊のような音は俺の中から消えなかった。もはやそれは単なる耳鳴りではない。いくつかの音の断片が繋がり、壊れかけのオルゴールのような、悲しげなメロディを奏で始めたのだ。そして、その旋律には聞き覚えがあった。いや、違う。正確には、俺の指が覚えていた。それは、ピアニストの道を諦める直前、俺が作曲しようとして、ついに完成させることのできなかった曲の冒頭部分によく似ていた。
なぜ今になって、この旋律が? 偶然か。それとも――。
俺は、何かに引き寄せられるように、再びあの洋館へと車を走らせた。代理人に連絡もせず、合鍵を使って忍び込む。ひやりとした空気が、熱に浮かされた頬を撫でた。ホールの中央、ピアノは静かに佇んでいる。俺はゆっくりと蓋を開け、鍵盤に指を置いた。そして、頭の中で鳴り響くメロディを、なぞるように弾き始めた。
ポーン、ポロロン……。
ピアノの音と耳鳴りの旋律が、不気味に重なり合う。その瞬間、館の空気が揺らぎ、壁の肖像画の瞳が俺を睨んでいるような錯覚に陥った。恐怖に指が止まる。俺は逃げるように図書室へ駆け込み、この館の過去を漁り始めた。古いアルバムの中に、一枚の写真を見つけた。ピアノの前に座る、黒い髪の少女。その瞳は、どこか寂しげだった。写真の裏には、『美月、十歳の誕生日』とインクが滲んでいた。
街の郷土資料館で調べると、すぐに答えは見つかった。この館はかつて、地元の名士であった有栖川家のものだった。そして、美月という一人娘がいたこと。彼女は類稀なるピアノの才能を持ちながら、原因不明の病で十一歳の誕生日を待たずにこの世を去ったという。
やはり、少女の霊か。ピアニストになる夢を絶たれた無念が、この館に、そして同じ夢に破れた俺に、共鳴しているというのか。恐怖と同時に、俺は不思議なシンパシーを覚えていた。孤独な魂が奏でる、未完の旋律。それを完成させることが、彼女の供養になるのかもしれない。そして、それは俺自身の過去との、ささやかな和解にも繋がる気がした。俺は再び洋館へ戻り、ピアノに向かった。少女の霊と対峙するために。いや、彼女の悲しみを受け止めるために。
***第三章 忘れられた和音***
頭の中で鳴り響く旋律を、五線譜に書き起こしていく。それは、俺がかつて捨てた夢のかけらを集めるような作業だった。少女の霊――美月が、俺の指を通して彼女の曲を完成させようとしている。そう信じていた。だが、メロディを追うほどに、強烈な違和感が胸を締め付けた。この旋律は、悲しいだけではない。どこかに、焦がれるような、必死の呼びかけが隠されている。これは、死者の鎮魂歌ではない。もっと切実な、生者のための何かだ。
「違う……何かが、おかしい」
無意識に呟いた時、ピアノの横にある壁の一部が、僅かにずれていることに気がついた。それは隠し扉だった。軋む蝶番の音と共に開いた先の小部屋は、物置として使われていたようだった。埃を被ったガラクタの中に、一冊の古い日記帳が落ちていた。てっきり美月の日記だと思い、手に取って開く。しかし、そこに綴られていたのは、たどたどしい、見覚えのある子供の文字だった。
――きょう、あたらしいおうちにおひっこしした。おおきなピアノがある。
ページをめくる指が震えだす。それは、俺自身の筆跡だった。忘れていた。いや、俺の脳が、生きるために必死に封印していた記憶の蓋が、ゆっくりとこじ開けられていく。そうだ、両親の仕事の都合で、小学校に上がる前の数ヶ月間、俺たちはこの館を借りて住んでいたのだ。
そして、日記は続く。
――ミオは、いつもおにいちゃんがピアノをひくのをきいてくれる。ミオは、おにいちゃんのピアノがだいすきだって。
ミオ? 誰だ、それは。次のページをめくった瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。そこには、俺と、俺の腕に抱きつくように笑う、幼い少女のクレヨン画が描かれていた。絵の下には、こう書かれていた。
『おにいちゃんと、わたしのミオ』
違う。ミオは「わたし」じゃない。日記を書いている「わたし」は、響介だ。では、ミオとは誰だ? 頭の中でパズルのピースが組み合わさる音と、記憶の濁流がなだれ込む感覚が同時に襲ってきた。
ミオ。俺の、妹。
俺には、妹がいた。俺の後ろをいつもついて回る、笑顔の可愛い、一つ年下の妹が。俺がピアノを弾くと、いつも隣で体を揺らして聴いていた。俺の曲を、世界で一番だと言ってくれた。あの日、俺が練習に夢中になっている間に、彼女は庭の古い井戸に落ちた。俺がほんの少し、目を離した隙に。
そのあまりの罪悪感と喪失感に、俺の心は耐えきれなかった。精神の防御反応は、妹の存在そのものを記憶から消し去り、「ミオ」という名前を、都合の良い「空想の友達」の記憶にすり替えたのだ。ピアノへの挫折も、コンクールの失敗が原因ではなかった。ピアノを弾くたびに、無意識の底で妹を死なせた罪悪感が蘇り、指を強張らせていたのだ。
頭の中で鳴り響いていたあの音は、美月という少女の霊の声などではなかった。それは、俺自身の記憶の奥底から響いてくる、妹の最後の声。俺の罪悪感が生み出した、二十数年越しの「残響」だったのだ。俺は、その場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
***第四章 鎮魂のソナタ***
記憶の奔流が過ぎ去った後には、荒野のような絶望だけが残った。俺はずっと、一番大切なものを忘れ、その墓標の上で無感動な日々を送っていたのだ。耳鳴りは、もはや不気味な旋律ではなかった。それは、井戸の底から俺を呼ぶ、ミオの悲痛な声に聞こえた。俺を責める声に。
逃げ出したい衝動に駆られた。この館から、この記憶から、この人生から。だが、その時、ふとピアノの鍵盤が目に入った。黒と白の静かな列。ミオが大好きだと言ってくれた、俺の指が触れる場所。
逃げてはいけない。俺は、二十数年間、彼女から逃げ続けてきた。もう、終わりにするんだ。
震える足で立ち上がり、俺は再びピアノの前に座った。日記を譜面台に置き、クレヨン画のミオの笑顔を見つめる。そして、鍵盤に指を置いた。
「ミオ、聴いていてくれ。今度こそ、お前のための曲だ」
頭の中に響く残響――ミオの声に、耳を澄ます。それはもう、俺を責める声ではなかった。ただ、寂しいのだと、会いたいのだと訴えかけていた。俺は、その声と対話するように、音を紡ぎ始めた。
一音一音に、後悔を込めた。一節一節に、謝罪を重ねた。そして、旋律の全てに、伝えきれなかった愛情を注ぎ込んだ。それは、暗く冷たい井戸の底に差し込む、一筋の光のような音楽だった。悲しみと、優しさと、そして決して消えることのない温かい記憶が溶け合った、鎮魂のソナ-タ。
夜が明け、朝日がホールに差し込む頃、曲は完成した。最後の和音が、長い余韻を残して空間に溶けていく。その瞬間、ずっと俺を苛んできたあの残響が、ふっ、と優しい吐息のように消えた。完全な静寂が、訪れた。しかしそれは、以前の孤独な静寂とは違う。ミオに赦されたような、温かく、満たされた静寂だった。
数ヶ月後、俺は小さなホールのステージに立っていた。客席は満員ではない。だが、それでよかった。俺は深く息を吸い、ピアノに向かう。あの日、洋館で完成させた曲を弾き始めた。
『ミオのためのソナタ』
もう、俺の隣にミオの姿はない。頭の中に、彼女の声が響くこともない。だが、俺が奏でる音の一つ一つに、彼女は生きている。俺の指を通して、彼女は笑い、歌い、そして確かにここに存在している。
恐怖の対象だった音は、俺を過去の呪縛から解き放ち、再生させるための、愛の残響だった。俺はこれからも、ミオの記憶と共に鍵盤に向かうだろう。失われたものへの痛みと、それでもなお続いていく生への愛おしさを、この音色に乗せて。それが、調律師ではなく、ピアニスト・相沢響介として、俺が見つけた新しい和音なのだから。
残響の調律師
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