聞き返すな

聞き返すな

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防音スタジオの分厚いドアを閉めると、世界から音が消える。俺、真島祐介にとって、この完全な静寂は仕事場であり、聖域だった。だが今、この無音の空間は、得体の知れない恐怖を増幅させる檻のように感じられた。

恋人の美咲が意識を失って、もう一週間になる。医者は首を捻るばかりだった。彼女は自宅の階段から転落した。だが、外傷は軽微。昏睡状態に陥るほどの原因が見当たらないのだという。彼女の傍らには、イヤホンが外れたスマートフォンが転がっていた。再生されていたのは、ノイズの塊のような音声データ。タイトルは『聴こえない声』。それが唯一の手がかりだった。

音響エンジニアである俺は、この音声データに全ての望みを託していた。美咲をこんな目に遭わせた元凶。その正体を暴けば、彼女を救う方法が見つかるかもしれない。俺はコンソールに向かい、高性能のヘッドホンを装着した。再生ボタンを押すと、耳を満たすのは「サー」というホワイトノイズの嵐。その中に、何か別の音が混じっている気がした。まるで、嵐の向こうで誰かが囁いているような、微かな気配。

解析作業は困難を極めた。ノイズリダクションのフィルターを何重にもかけ、特定の周波数帯をブーストする。すると、ノイズの奥から、確かに「声」のようなものが浮かび上がってきた。だが、それはあまりに幽かで、水底から響いてくるかのように不明瞭だった。何を言っているのか、まったく聞き取れない。

作業に没頭するうち、奇妙なことが起き始めた。誰もいないはずのコントロールルームの隅で、ケーブルが床を擦るような音が聞こえる。深夜、コーヒーを淹れに席を立った瞬間、背後のスピーカーから、一瞬だけ、ため息のような音が漏れた。気のせいだ、と自分に言い聞かせる。疲れているんだ。だが、胸をざわつかせる不安は、じっとりとした湿気のように肌にまとわりついて離れなかった。

「真島、あのデータ、やっぱりおかしいよ」
共同で解析を手伝ってくれていた同僚の健太が、青白い顔で電話をかけてきたのは、作業を始めて五日目のことだった。
「昨日の夜、作業の続きをしてたら、急に寒気がして……。誰かに『お前、何度も聞き返しただろ』って、耳元で言われた気がしたんだ。それで倒れちまって」
その言葉に、背筋が凍った。聞き返すな?
まさか。この音は、ただ聞くだけでなく、「聞き取ろう」と意識を集中させる行為そのものに、何か罠があるというのか。美咲も、この声を聞き取ろうとして、何度も再生し、耳を澄ませたに違いない。そして、俺も、健太も……。

恐怖が全身を駆け巡った。もうやめるべきだ。だが、ここでやめたら、美咲は? 彼女は永遠にあの白いベッドの上で目覚めないかもしれない。俺は腹を括った。危険を承知で、最後の一線を越えることを決意した。自作の特殊なフィルターをプログラムし、これまで特定を避けてきた、最も深く埋もれた周波数帯域だけを、極端に増幅させる。これが、最後の賭けだった。

ヘッドホンから流れ込んできた音に、俺は息を呑んだ。
あれほど頑なに響いていたノイズが、嘘のように消え去っている。代わりに、鼓膜を直接震わせたのは、クリアな「声」だった。それは子供のようでもあり、老人のようでもあった。男の声にも女の声にも聞こえる、性別も年齢も感情も、全てが削ぎ落とされた、不気味なほど平坦な声。
そして、その声は、はっきりとこう言った。

「――ねえ、今なんて言ったの?」

血の気が引いた。全身の毛が逆立ち、心臓が氷の塊になったかのように動きを止める。
これは、誰かが発した言葉の録音などではない。違う。これは、「問いかけ」そのものだ。この音声データは、聞く者に対する罠。俺たちに「聞き返させる」ための、巧妙な餌だったのだ。
美咲は、この問いを聞いた。そして、きっと無意識に、あるいは好奇心から、聞こえた言葉を反芻してしまったのだ。「ねえ、今なんて言ったの?」と。その行為こそが、禁忌の扉を開く鍵だった。

その理解が脳髄を貫いた、まさにその瞬間。
俺の右耳のすぐ、すぐ後ろで。ヘッドホンをしていないはずの生身の耳に、冷たい呼気とともに、あの平坦な声が囁いた。

「ああ、そう言ったんだね」

動けなかった。振り返ることも、声を上げることもできない。そこに「いる」。音もなく、気配もなく、ただ絶対的な存在感だけを放つ「何か」が、俺の背後に立っている。それは、俺の答えを、ずっと待っていたのだ。

恐怖に引き攣る視線を、ゆっくりと手元のモニターに向けた。そこには、病院のベッドに眠る美咲を映したウェブカメラの映像が、小さく表示されている。
その映像の中で。
昏睡状態だったはずの美咲が、ぴくりとも動かなかった美咲が、ゆっくりと、その目を見開いた。
その瞳に光はなかった。虚ろな目が、ただ天井の一点を見つめている。
そして、彼女の唇が、音もなく、しかしはっきりと動いた。
声は聞こえない。だが、俺には読めた。

「ねえ、今なんて言ったの?」

新しい「問い」が、そこにあった。
俺は、次の獲物を誘い込むための、新しい餌にされたのだ。背後に佇む「何か」の気配が、まるで満足したかのように、わずかに濃くなった気がした。連鎖は、終わらない。
急速に遠のいていく意識の中、俺はただ、絶望的な静寂に呑み込まれていった。

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