第一章 錆びついた街の残響
降りしきる酸性雨が、ネオンの滲んだ光をアスファルトに叩きつけていた。僕は、路地裏の庇の下で息を潜める。数秒先の未来で、パトロール用のドローンが頭上を通過する金属音を「既に」聞いていたからだ。この時間的ズレが、僕、カイの日常だった。時間の流れに生じた微細なノイズ。それが僕の見る世界。
僕の指先には、奇妙な才能が宿っている。過去に起こった出来事の『時間残像(タイム・シェード)』に触れると、その瞬間の感情や意図が、鋭い頭痛と共に流れ込んでくるのだ。今日は、古びた取引所の裏で、捨てられた懐中時計の残像に触れていた。持ち主だった老人が、最後の家族の写真を眺めながら、自らの「時間」を売る決意をした瞬間の、ひどく冷たい絶望が指先から染み込んできた。
この世界では、時間は通貨だ。裕福な者は他人の寿命を買い取って永生を謳歌し、貧しい者は己の時間を切り売りして今日を生きる。代償は、記憶の一部。時間を売るほどに、大切な思い出は削り取られていく。
「――あなたね、残像を読めるっていうのは」
声は、僕がその存在を認識するより数秒早く、鼓膜に届いていた。振り返ると、雨に濡れた黒髪の少女が立っていた。上質なコートは、このスラム街には不釣り合いだった。彼女の手には、鈍い白銀の光を放つ小さな砂時計が握られている。
『刻印の砂時計(クロノス・グラス)』。
伝説級のアーティファクト。時間の取引に使われる道具だが、彼女が持つそれは、明らかに特別なものだった。砂時計の中の白銀の砂が、僕の存在に呼応するように、微かに揺らめいた。
「父の、失われた記憶を探してほしいの」
少女――エルラと名乗った彼女の瞳は、静かな悲しみに満ちていた。
第二章 失われた旋律
エルラの屋敷は、スラム街とは隔絶された高層区画にあった。窓の外には、雲を突き抜ける壮麗な摩天楼が広がり、時間を買い占めた者たちの権勢を見せつけている。だが、豪奢なリビングの奥、薄暗い一室に横たわる彼女の父親の姿は、この世界の残酷な真実を静かに物語っていた。
彼は生きていた。ただ、それだけだった。瞳には光がなく、呼吸は浅い。時間を売り過ぎた人間の末路。記憶という名の錨を失い、現実の岸辺に繋ぎ止められることなく、ただ意識の海を漂っている。
「父は、昔、素晴らしいピアニストでした。でも……」
エルラの声が震える。彼女は、父親が最後に時間を取引したという中央取引所へと僕を案内した。大理石の床、金色の装飾。壁一面に埋め込まれた巨大なクロノス・グラスが、何千、何万という人々の時間を吸い上げ、そして分配していた。その光景は、神聖であると同時に、冒涜的でもあった。
僕はエルラの父親が使ったという取引ブースの、冷たい黒曜石のカウンターにそっと指を滑らせる。集中すると、無数の人々の欲望や絶望の残像がノイズとなって意識をかき乱す。頭痛がひどい。だが、その中に、ひときeyse際立って強く、悲しい残響を見つけた。
「……あった」
それは、微かなピアノの旋律を伴う、静かな決意の残像だった。
第三章 砂時計の逆流
「これを使って」
エルラが、僕の手に『刻印の砂時計』を握らせた。ひんやりとしたガラスの感触。僕がカウンターのタイム・シェードに砂時計をかざすと、信じられないことが起こった。
白銀の砂が、重力に逆らってゆっくりと逆流を始めたのだ。
そして、僕の目の前に、半透明の光を放つ人影が浮かび上がった。エルラの父親の、若き日の姿だった。時間残像が、一時的に実体化したのだ。
僕はためらわず、その光の腕に触れた。瞬間、奔流のような記憶が僕の脳を焼いた。
――家族の笑い声。陽光の満ちるリビングで、幼いエルラのためにピアノを弾く父親。彼の指が奏でる優しい旋律。それは幸福そのものの形をしていた。だが、場面は暗転する。彼は知ってしまったのだ。この世界の、そして人類そのものを待ち受ける、避けられない運命を。家族を守るため、彼は時間を売った。最も大切な家族との記憶を代償に、情報を、力を得ようとした。彼の深い愛情と、それ以上に巨大な恐怖。
そして、その記憶の断片の最後に、僕は見た。星々が音もなく砕け散り、宇宙が黒いインクのように滲んでいく、恐ろしいビジョンを。
「ぐっ……!」
あまりの情報の奔流に、僕は膝から崩れ落ちた。
第四章 アトラスの影
僕たちが取引所を出た瞬間、世界は無音になった。周囲の喧騒が嘘のように消え、僕の感じる時間的ズレが極限まで引き伸ばされる。数秒先の未来、僕の背後に立つ男の冷たい声が聞こえた。
「その能力は、世界の調和を乱すバグだ」
振り返ると、そこにいたのは、純白の制服に身を包んだ一人の男だった。時間管理局長官、アトラス。彼の目は、凍てついた湖面のように静かで、底が見えなかった。
「君が見たものは、失われた記憶などではない。それは、システムが処理しきれなかった規格外のデータ……いわば、世界の設計図に刻まれたエラーだよ」
アトラスは、僕とエルラがしたことの全てを知っていた。彼は、エルラが持つ『刻印の砂時計』に目を留める。
「それは本来、我々が管理すべきものだ。世界の安定のために、渡してもらおう」
彼の言葉には有無を言わせぬ圧力があった。だが、父親の記憶の断片に触れた僕にはわかっていた。この男が守ろうとしている「安定」は、何か巨大な嘘の上に成り立っている。
「嫌だと言ったら?」
僕が身構えると、アトラスは小さくため息をついた。彼の周囲の空気が歪む。彼は僕らとは違う、時間を支配する側の人間だった。
第五章 時間崩壊の予兆
アトラスの指が微かに動いた瞬間、僕はエルラの手を引いて駆け出していた。数秒先の未来で、僕たちが立っていた場所のアスファルトが、まるで粘土のように抉り取られる光景を「見て」いたからだ。
追跡が始まる。アトラスの部下たちが、音もなく僕らの背後に現れては、僕の時間的ズレによって先読みされ、空を切る。だが、それは消耗戦に過ぎなかった。
混乱の中、僕の能力が暴走を始めた。時間的ズレが数秒から数分、数時間へと無秩序に拡大していく。僕の視界に、未来の断片がノイズのように割り込んできた。
――摩天楼が砂のように崩れ落ちる。
――人々が、苦悶の表情すら浮かべる間もなく、光の粒子となって霧散していく。
――空が裂け、裂け目から暗黒が全てを飲み込んでいく。
それは、僕がエルラの父親の記憶の中で見た、宇宙の終焉のビジョンそのものだった。『時間崩壊』。アトラスが隠蔽していた世界の真実。その圧倒的な絶望が、僕の心を叩き潰そうとしていた。
第六章 選択のゼロ秒
僕は、父親の記憶が示した座標――都市の地下深くに隠された、巨大な施設へとたどり着いていた。システムの心臓部、『クロノス・コア』。そこは、無数のクロノス・グラスが接続され、銀河のように明滅する巨大な球体だった。人々から集められた時間が、記憶が、ここへ集約されているのだ。
追いついたアトラスは、もはや攻撃してこなかった。彼は静かに、コアを指し示す。
「あれが、人類の箱舟だ」
彼の口から語られた真実は、僕の想像を絶していた。
宇宙規模で進行する、不可逆の『時間崩壊』。この世界は、いずれ全てが消滅する運命にある。時間取引システムは、その崩壊から人類の「意識」と「記憶」の断片だけでも救い出し、新たな宇宙の夜明けまで保存するための、最後の手段だった。人々から奪われた最も重要な記憶は、そのための航海エネルギーであり、存在を証明する座標なのだと。
「システムを破壊すれば、全人類は時間崩壊に巻き込まれ、完全に無に帰す。個人の自由と引き換えに、種としての可能性を永遠に閉ざすことになる」
アトラスの目が、僕を射抜く。
「維持すれば、人々は記憶を搾取され続ける。だが、人類という種は、記憶の断片として生き永らえる。さあ、選べ。君のその力で、コアを破壊することも、安定させることもできるはずだ」
究極の選択だった。個人の尊厳か、種の存続か。僕の決断に、人類の未来が委ねられていた。
第七章 夜明け、あるいは黄昏の始まり
僕は、隣に立つエルラの手を握った。震える彼女の指先から、父親の最後の意志が伝わってくるようだった。彼は、人類の存続などという壮大なものではなく、ただ、愛する娘が幸せに、自由に生きてくれることを願ったのだ。たとえそれが、滅びへと向かう短い時間であったとしても。
記憶を失い、ただ生き永らえるだけの生に、意味はあるのか。
僕の答えは、決まっていた。
「僕たちは……忘れるために生きてるんじゃない」
僕は『刻印の砂時計』をクロノス・コアにかざした。アトラスが目を見開く。僕は全ての力を注ぎ込み、コアに流れ込む時間の奔流を逆流させた。
ゴウ、と地鳴りのような咆哮を上げて、システムが崩壊を始める。コアから放たれた無数の光の筋が、都市へと、世界中へと伸びていく。それは、人々から奪われた記憶だった。
街中で、人々が空を見上げていた。ある者は失った恋人の顔を思い出して涙し、ある者は忘れていた家族の温もりを取り戻して笑い、ある者は過去の罪に苛まれて泣き崩れた。世界は、歓喜と混乱の渦に包まれた。
アトラスは、その光景を静かに見つめていた。その横顔に、安堵の色が浮かんだように見えたのは、僕の気のせいだっただろうか。
僕とエルラは、建物の屋上から空を見上げた。東の空が白み始めている。だが、その空には、これまで見たこともない、淡く、しかし不気味なほどに美しいオーロラが揺らめいていた。
それは、新しい世界の夜明けを告げる光か。それとも、緩やかに訪れる終焉への序曲か。
答えは、まだ誰にもわからない。僕たちはただ、取り戻された記憶の温もりを確かめるように、強く手を握りしめた。