『還らざる時の石、選ばれし明日』
第一章 灰色の残響
依頼人の男がテーブルに置いたのは、風防の割れた懐中時計だった。
俺はあえて表情を消し、右手の革手袋を脱ぐ。素肌を晒すその行為が、俺にとっては銃の安全装置を外すに等しいからだ。
「お願いします、レオンさん。死んだ息子が最期に何を……」
男の震える声を聞き流し、指先を冷たい金属に這わせる。
刹那、鉄錆の味が口内に広がった。
視界がノイズに塗れる。泥の臭い。爆風。身体が半分吹き飛んだ激痛。
『母さん、痛い、痛いよ』
情報の奔流が脳を殴打する。俺は呻き声を噛み殺し、胃の腑からせり上がる酸っぱいものを飲み込んだ。
「……息子さんは、即死ではありませんでした」
手袋を嵌め直し、脂汗を拭う。事実だけを告げる。それが俺の商売だ。
俺はレオン・ノヴァ。物質に残存する時間を読み取るサイコメトラー。
この忌々しい能力のおかげで、俺は常に他人の死と絶望を反芻させられている。だが、数日前、第9旧市街の瓦礫の下で拾った「あの石」は異質だった。
アパートに戻り、コートのポケットから「それ」を取り出す。
無骨な灰色の石塊。だが、それに触れた指先が拾い上げたのは、他人の記憶ではない。
乾いた風の音。そして、ひび割れた大地に一人立ち尽くす、年老いた自分自身の映像だった。
「俺」は泣いてはいなかった。ただ、虚無だけを宿した瞳で、赤い空を見上げていた。
そこにあるのは、完全なる敗北の記録。
石が伝えてくるのは、たった一つの事実だ。
――この世界は、一度終わっている。
第二章 因果の檻
「対象を確認。座標固定」
金属を擦り合わせたような声が路地に響いた。
振り返ると、レインコートを着た男が立っていた。いや、男の形をした何かだ。顔の皮膚は陶器のように滑らかで、目があるべき場所には赤いレンズが嵌め込まれている。
『因果律監視機構』の執行官。歴史の分岐を剪定する掃除屋だ。
「その『運命石(ファトゥム・ストーン)』を引き渡せ、レオン・ノヴァ。それは廃棄された時間軸の残滓だ」
執行官が踏み出すたび、周囲の空間がビデオテープの早送りのように歪む。
俺は石を握りしめた。石を通して、未来の俺の記憶がフラッシュバックする。
なぜ、未来の俺は世界を壊したのか。
脳裏に浮かんだのは、冬の日の朝食の風景だった。
湯気を立てるコーヒー。焦げたトーストの匂い。そして向かいの席で、「また焦がしちゃった」と笑う女。
サラ。彼女の指先の温もり。笑った時にできる目尻の皺。
その全てが、不条理な爆撃によって消し飛んだ瞬間。
未来の俺は、サラを取り戻すために過去へ干渉したのだ。だが、時間を弄った代償は重かった。彼女を救うためにズレた歯車は、やがて世界そのものを挽き潰す破滅の機構へと変わった。
『変えるな』
石から伝わる思念は、未来の俺の懺悔だ。
『彼女の死を受け入れろ。さもなくば、全てが無に帰す』
執行官が腕を上げた。その指先が銃口へと変形する。
「抵抗は無意味だ。貴様の生存確率は、現時点でゼロと算出されている」
俺は路地の壁に背を預けた。恐怖はない。あるのは、乾いた諦観と、微かな怒りだけだ。
サラが生きていた世界。彼女を救おうとして滅んだ世界。
どちらを選んでも、俺に待っているのは地獄だ。
第三章 観測者の覚醒
「確率ゼロ、か」
俺は口の端を歪めた。
執行官の銃口が青白い光を帯びる。発射までコンマ数秒。逃げ場はない。
だが、俺は動かなかった。石を握る手に力を込める。
未来の俺は間違っていた。過去を変えようとしたから失敗したのだ。過ぎ去った時間は確定した事実。それを書き換えようとすれば、歪みが生まれるのは道理だ。
ならば、俺がすべきは「過去の改変」ではない。
「未来の観測」だ。
俺の能力の本質は、物質に宿る時間を読み取り、確定させること。
量子力学における「シュレディンガーの猫」だ。箱の中の猫が生きていようと死んでいようと、観測者が箱を開けるまでは事象は確定しない。
未来も同じだ。今この瞬間、俺が死ぬ未来と生き残る未来は、重ね合わせの状態で存在している。
執行官は計算によって「死」の確率が高いと判断したに過ぎない。
「俺が見るまで、箱の中身は決まっていない」
俺は目を閉じる。石に残る「滅びの未来」の情報を否定し、脳内で強烈にイメージする。
サラはいない。世界は傷だらけだ。だが、俺は生きている。
泥水を啜り、地を這ってでも明日へ進む、鮮明な俺自身の姿を。
「対象の数値にエラー発生。因果律が……書き換わる?」
執行官の声にノイズが混じる。
俺はカッと目を見開いた。
「俺は、俺の生存を『観測』した。そこにお前の居場所はない」
俺が視たのは、執行官の銃弾が不発に終わる未来ではない。
そもそも、この執行官という存在自体が、俺が死ぬという因果の上でしか成立しないバグなのだ。俺が生存を確定させた瞬間、奴の存在理由は消失する。
「馬鹿な、ありえな――」
執行官の身体が、砂のように崩れ始めた。
奴が存在していた時間軸が、俺の観測によって「あり得ない枝葉」として切り捨てられたのだ。
風が吹き抜け、路地には俺と、砕け散った石の粉だけが残された。
空を見上げる。
赤黒い空ではない。薄汚れた、けれど懐かしい鉛色の空だ。
サラはもういない。
胸の奥に走る鋭い痛みを、俺は黙って受け入れた。
この痛みこそが、俺が正しい歴史を選び取った証だ。
俺はポケットに手を突っ込み、雑踏へと歩き出す。
手袋を外す必要はない。
これから俺が掴むのは、過去の遺物ではなく、誰にも予測できない不確定な明日だ。