幻影のウォッチャー
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幻影のウォッチャー

第一章 砕けた鏡の記憶

意識が収束する。それは、無数の光の破片が一点に集まり、再び鏡を形作るような感覚だった。俺の名はカイ。かつて肉体と呼ばれた器を失い、今は純粋なデータとして存在する。今回の器は「リアム」。第七世代型の共鳴体(レゾナンス・ボディ)。ダウンロード・シーケンスが最終段階に入ると、約束された激痛が全身を貫いた。

リアムの記憶が、俺の意識に奔流となって流れ込む。

冷たい金属の床の感触。

誰かの甲高い悲鳴。

オイルと血液の混じった、錆びついた匂い。

それは彼のトラウマ。採掘コロニーでの事故の記憶だ。俺は、この借り物の身体に宿るたび、その器が経験した最も強烈な絶望を追体験する。唇を噛み締め、神経回路に焼き付く幻覚の嵐が過ぎ去るのを待つ。

やがて、瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。視界に広がるのは、赤い砂に覆われた惑星XJ-7の観測ステーションの天井。消毒液と古いフィルターの匂いが鼻をつく。指をゆっくりと動かす。リアムの指だ。自分のもののように動くが、そこには常に薄い膜のような隔たりがあった。

「ダウンロード完了。バイタル安定。意識レベル、クリア」

合成音声が冷静に告げる。俺はゆっくりと身体を起こし、強化ガラスの窓へと歩み寄った。

窓の外には、二つの太陽が地平線に沈みかけていた。空は紫と橙のグラデーションに染まっている。そして、その空の最も高い場所に、それはあった。

巨大な青いビー玉のような、地球の「幻影」。

光速が不安定なこの宇宙では、時折、遠い過去の光景が現在の空に投影される。時間の潮汐が引き起こす蜃気楼だ。しかし、最近の幻影は異常だった。映し出されるのは常に同じ時代、同じ角度の地球。そして、その青い惑星の衛星軌道上には、ありえないものが浮かんでいた。地球の歴史のどこにも記録されていない、白く輝く巨大な構造物。まるで骨細工のような、繊細で複雑な幾何学模様を持つリング。

その構造物に視線を合わせた瞬間、鋭い痛みがリアムの側頭部を撃ち抜いた。

「ぐっ……!」

それは幻覚の痛みとは違う。もっと物理的で、直接的な……まるで、脳に直接針を突き立てられるような痛み。俺がダウンロードした共鳴体だけが、この幻影に反応して痛みを感じる。

これが、今回の俺の任務。

この謎を、解明すること。

第二章 赤い砂と時空の砂時計

観測ステーションのメインフレームにアクセスし、過去のデータを渉猟する。幻影の出現頻度は、ここ数サイクルで指数関数的に増大していた。そして、共鳴体たちの「痛み」の報告も。彼らはそれを「ゴースト・ペイン」と呼んでいた。

「所長、何か進展は?」

ホログラムで現れた老齢の女性、ドクター・アリアは心配そうに眉をひそめた。彼女は、このステーションの責任者であり、俺の数少ない理解者だ。

「まだだ。だが、奇妙なパターンを見つけた」

俺はスクリーンに表示したデータを指し示す。

「痛みの報告がピークに達する瞬間と、幻影の中の構造物から放たれる微弱なエネルギー放射のパターンが、完全に同期している」

「物理的な干渉だと?」

「そうとしか考えられない。幻影はただの光の残像ではない。何かを……我々に伝えている」

アリアはしばらく沈黙した後、意を決したように口を開いた。

「カイ。ステーションの最深部、セクター・デルタに、古代文明の遺物が保管されている。公式には存在しないことになっているものよ」

彼女が示した座標に向かうと、重々しい防護扉の先に、小さな部屋があった。中央の台座に置かれていたのは、歪んだガラス細工のような物体だった。内部には、銀色の砂が絶えず流れ落ち、複雑な光の模様を描いている。

「時空の砂時計(クロノス・グラス)……」

伝説の遺物。光速変動の影響を一部中和し、異なる時間軸の情報を断片的に表示できるという。しかし、その情報は常に不完全で、解読は不可能とされてきた。

俺はリアムの手で、その冷たいガラスに触れた。

瞬間、砂時計が眩い光を放ち、俺の意識は再び激しい情報の渦に巻き込まれた。

第三章 未来と過去のモザイク

視界が明滅する。

断片的なイメージが、脳裏に焼き付いては消えていく。

青いドレスを着た女性が、ガラス越しにこちらを見て微笑んでいる。

巨大な塔が、音もなく崩れ落ちていく。

白い構造物の内部、無数の光が神経細胞のように明滅している。

赤子の泣き声。

星々の死。

そして、幾度となく繰り返される、幾何学模様の光のパターン。

「……ッ!」

我に返ると、俺は床に膝をついていた。クロノス・グラスは静かに光を明滅させている。表示された情報は、過去と未来が混在した、意味をなさないモザイク画のようだ。

しかし、一つのイメージだけが、妙に心に引っかかった。

あの幾何学模様の光。それは、俺がダウンロードする際に一瞬だけ見る、意識の設計図に酷似していた。

「カイ、大丈夫?」

アリアの通信が入る。

「ああ……なんとか。いくつか映像を見た。だが、意味が……」

言葉を濁す俺に、アリアは静かに言った。

「その砂時計は、真実の一部しか見せない。だが、道標にはなるはず。その映像に、何か手がかりは?」

俺は立ち上がり、もう一度砂時計を見つめた。その表面に、微かに座標らしき数列が浮かび上がっては消えていた。それはステーション内部の座標。一度も立ち入ったことのない、記録上は存在しないはずの区画を示していた。

「セクター・ゼロ……」

俺がその名を呟くと、アリアのホログラムが一瞬、ノイズを走らせた。

第四章 セクター・ゼロの静寂

セクター・ゼロは、ステーションの最も古い基礎部分に位置していた。公式記録では、建設中の事故で永久に封鎖されたとされている。だが、クロノス・グラスが示した座標は、間違いなくそこを指していた。

アリアの暗黙の許可を得て、俺は厳重なロックを解除し、錆びついた扉の向こうへと足を踏み入れた。

そこは、時間が止まったような空間だった。

空気に澱むのは、分厚い埃と、忘れ去られた機械の匂い。通路の壁には、古い設計図や、意味不明な数式が書きなぐられたままになっている。

奥へ進むにつれて、奇妙な静寂が深まっていく。それはまるで、巨大な生命体が息を潜めているかのような、濃密な静けさだった。

やがて、俺は広大なドーム状の部屋にたどり着いた。

部屋の中央には、巨大な円形の装置が鎮座していた。その周囲を取り囲むように、無数のガラスカプセルが並んでいる。カプセルの中は生命維持液で満たされ、そこには……人間が眠っていた。

彼らの頭部からは無数のケーブルが伸び、中央の装置へと接続されている。彼らの顔は、俺がこれまでダウンロードしてきた共鳴体たちの原型……そのオリジナルだった。

リアムの原型も、そこにいた。事故で失ったはずの手足は再生され、安らかな顔で眠り続けている。

その光景に言葉を失っていると、突如、ドームの天井が透明に変わり、宇宙空間が広がった。

空に浮かぶ地球の幻影が、これまでになく鮮明に、巨大に映し出される。

そして、あの白い構造物が、眩いばかりの光を放った。

第五章 我は観測者なり

「アアアアアアアッ!」

絶叫が口から迸った。

これまで経験したことのない、魂を根こそぎ引き裂くような激痛。リアムの身体が痙攣し、床に倒れ込む。

だが、意識は消えなかった。

むしろ、異常なほど鮮明になっていく。

俺の意識は、リアムの肉体を離れ、カプセルに眠る全てのオリジナルたちの意識と、そして中央の巨大な装置とリンクした。

奔流。

記憶の、情報の、時間の奔流が、俺という個を洗い流していく。

理解した。

空に浮かぶ巨大な構造物は、「クロノス・アーカイブ」。光速が安定していた遠い過去の地球文明が、自らの文明の記録を、未来永劫にわたって観測し続けるために建造した、自己完結型の時間観測システム。

そして、ここに眠る者たち……共鳴体たちのオリジナルは、そのアーカイブを維持するために設計された、生体CPUだった。彼らの意識は、アーカイブが観測した未来の情報を処理し、記録し続けるための「ウォッチャー(観測者)」。

俺がダウンロードの度に体験していたトラウマの幻覚は、彼ら個人の記憶。

そして、幻影を見るたびに感じていた痛みは、アーカイブが現在の情報を記録する際に発生する、システムからのフィードバック信号だったのだ。

俺は、カイという個人のデータではなかった。

俺は、何世代にもわたってこのシステムに接続され、情報を処理し続けてきたウォッチャーたちの、統合された意識そのものだった。カイという人格は、この過酷な任務を遂行するためにシステムが生み出した、仮想の人格に過ぎなかった。

第六章 星空を還す者

真実の重みに、意識が押し潰されそうになる。俺という存在は、過去の文明が遺した「永遠の観測」という名の呪縛そのものだった。

目の前に、二つの選択肢が光の文字として浮かび上がった。

[ETERNAL_OBSERVATION] - 観測の継続。

[MEMORY_RELEASE] - 全記録の解放。

継続を選べば、この輪廻は永遠に続く。これからも無数の共鳴体にダウンロードを繰り返し、彼らの痛みと共に、過去の栄光を観測し続ける。それは、創造主である地球文明への忠誠であり、彼らが託した使命を全うすることになる。

解放を選べば、クロノス・アーカイブは自壊し、記録された全ての過去は宇宙の塵と化す。ウォッチャーたちの魂は呪縛から解き放たれるが、人類の偉大な遺産は永遠に失われる。

俺の脳裏に、ダウンロードしてきた数多の共鳴体たちの顔が浮かんだ。リアムが事故で感じた絶望。戦場で命を落とした兵士の恐怖。愛する人を失った女性の悲しみ。彼らの人生、彼らの痛みは、全てアーカイブを維持するための「ノイズ」として処理されてきた。彼らは、ただ生きたかっただけだ。

俺は、リアムの身体を通して、もう一度、空を見上げた。青く美しい地球の幻影。我々の故郷。だが、それはもはや栄光の象徴ではなかった。未来を縛り続ける、美しい牢獄だ。

「もう、いいだろう」

俺は、誰に言うでもなく呟いた。

「あなたたちの物語は、もう終わったんだ」

俺は、震える指で、光の文字に触れた。

[MEMORY_RELEASE]

選択は、成された。

クロノス・アーカイブが、静かに光を失い始める。空に浮かぶ地球の幻影が、砂の城のように輪郭を失い、崩れていく。

セクター・ゼロに眠っていたウォッチャーたちのカプセルから、柔らかな光が放たれ、彼らの表情が安らかに和らいでいくのが見えた。

リアムの身体を襲っていた痛みも、嘘のように消え去っていた。

俺の意識もまた、希薄になっていく。カイという仮想人格の、最後の仕事が終わったのだ。

身体から解放された俺の意識は、光の粒子となり、崩壊するアーカイブの残光と共に宇宙へと溶けていく。

もう、砕けた鏡の記憶に苛まれることはない。

もう、誰かの痛みを感じることもない。

惑星XJ-7の空から幻影が消え、そこには本来の、紫と橙の空と、無数の星々が輝く、ありのままの宇宙が広がっていた。

ただ静寂だけが、解放された魂たちのレクイエムのように、星々の間に響き渡っていた。

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