メモリー・ダイバー

メモリー・ダイバー

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第一章 プリズムの瑕疵(かし)

煤けた空気を切り裂くように、ネオンの光が降り注ぐ。サイバー・シティの路地裏は、常に湿ったオゾンと合成食品の甘ったるい匂いが混じり合っていた。俺、リョウは、そんな澱んだ空気の中を、フードを目深にかぶりながら歩いていた。目指すは、非合法な記憶データを扱う闇市場、通称「クロノ・マーケット」。現実が灰色であるほど、他人の輝かしい記憶は、麻薬のように甘美なのだ。

「今日の掘り出し物はどうだ?」

情報屋の老人は、義眼を気味悪く光らせながら、掌サイズの透明なプリズムを差し出した。メモリー・クリスタル。人の記憶を封じ込めた、現代の魔法石だ。正規ルート品は高価で、幸福度の高い記憶ほど法外な値がつく。だから俺のような底辺の人間は、出所不明の安物に手を出すしかなかった。

「『海辺のバースデーパーティー、17歳』。評価はBマイナスだが、まあまあ楽しめるはずだ」

俺は数枚のクレジットチップを渡し、冷たいクリスタルを受け取った。自室の安アパートに戻ると、早速ヘッドギアを装着し、クリスタルをスロットに差し込む。意識が光の粒子となって分解され、見知らぬ誰かの過去へとダイブしていく。

視界が開けると、そこは太陽が降り注ぐ白い砂浜だった。潮風が頬を撫で、友人たちの陽気な笑い声が耳をくすぐる。ケーキの甘い香りと、バーベキューの香ばしい煙。俺は「17歳の誰か」になりきり、満面の笑みを浮かべた。これだ。これこそが俺の求める幸福。金で買える、完璧な思い出だ。

だが、その完璧な瞬間に、異変は起きた。友人たちに胴上げされ、青い空を見上げたその時、視界が激しく点滅した。ノイズが走る。次の瞬間、俺が見ていたのは、青空ではなかった。

――白く、冷たい天井。消毒液の匂い。規則的な電子音。白衣を着た大人たちが、ガラス張りの向こうで無表情に何かを記録している。そして、視界の端に映る、自分の小さな手。その手は、必死にガラスの壁を叩いていた。

「……っ!」

強烈な違和感に、俺は強制的にダイブから引き戻された。ヘッドギアを外すと、額には冷や汗がびっしょりと浮かんでいる。心臓が嫌な音を立てていた。なんだ、今のは? バグか? 安物のクリスタルにはよくあることだ。だが、あの光景はあまりにも鮮明で、まるで自分の記憶の一部であるかのような、奇妙な既視感があった。ガラスを叩いていた、あの幼い手。あれは、本当に見知らぬ誰かの記憶なのだろうか。

いつもなら忘れてしまうはずのノイズが、その夜は鉛のように俺の心に沈殿し、決して消えることはなかった。俺が買い続けてきた幸福のプリズムに、初めて見えた、深い瑕疵だった。

第二章 ブランク・メモリーの囁き

翌日、俺は再びクロノ・マーケットの情報屋を訪ねた。昨夜の奇妙な体験を話すと、老人は義眼を細め、興味深そうに口元を歪めた。

「そいつは面白い。お前さんが掴んだのは、ただのバグじゃないかもしれん。『ブランク・メモリー』の欠片だろう」

ブランク・メモリー。その言葉には聞き覚えがあった。所有者の意思とは無関係に、何らかの理由で強制的に消去・断片化された記憶データ。通常は意味不明なノイズの塊で、市場価値はない。だが、ごく稀に、システムの検閲をすり抜けた「真実」が記録されていることがあるという都市伝説があった。

「あのクリスタルは、大規模な記憶処理施設から流れてきた廃棄ロットの一つだ。同じロットのものを辿れば、あるいは……」

老人の言葉は、俺の中の燻っていた疑念に火をつけた。俺には、幼少期の記憶がほとんどない。特に、両親の顔や、一緒に暮らしていたはずの家の光景が、すっぽりと抜け落ちている。セラピストは、幼少期のトラウマによる防衛機制だろうと言った。だが、もし、それが意図的に「消された」ものだとしたら?

俺はなけなしの金をはたき、情報屋から同じロットのブランク・メモリーを買い集め始めた。どれもがひどく損傷しており、まともに再生できるものはほとんどない。しかし、俺は諦めなかった。何かに導かれるように、ノイズの海の中から、意味のある断片を拾い集め、繋ぎ合わせていった。

『……白い部屋……注射は嫌だ……』

『……同じ服を着た子がたくさんいる……』

『……ミナが泣いている……僕の手を握って……』

断片を繋ぎ合わせるたびに、あの無機質な研究室の光景が、少しずつ輪郭を取り戻していく。そこは、孤児院のような、あるいは収容所のような場所だった。そして、俺は思い出した。ミナ。隣にいた、栗色の髪をした少女。いつも俺の手を握ってくれた、忘れていたはずの幼馴染の名前を。

彼女はどこへ行ったんだ? 俺たちは、あの場所で何をされていたんだ?

俺はダイブを繰り返した。それはもはや現実逃避のための甘美な体験ではなかった。自分の存在の根幹を揺るがす、痛みを伴う自己への潜行だった。集めた記憶データは、俺の脳内で一つのパノラマを形成しつつあった。それは、俺が金で買っていた幸福な記憶とは似ても似つかない、冷たく、恐ろしい光景だった。

そしてついに、決定的なクリスタルを手に入れる。それは、ひときわ強い光を放つ、純度の高い記憶の欠片。情報屋によれば、ロットの中心にあった「コア・メモリー」の一部らしい。俺は祈るような気持ちで、ヘッドギアを装着した。これが、全ての答えになるかもしれない。

第三章 エデンの真実

意識が沈む。しかし、今度のダイブは今までと全く違っていた。俺は、誰かの視点を借りているのではない。俺自身の、失われたはずの記憶の深淵へと、真っ直ぐに落ちていく感覚だった。

目の前に、泣いている幼い自分がいた。ガラス越しに、こちらを見ている。違う。これは、誰かの視点だ。栗色の髪の少女――ミナの視点だ。

『大丈夫、リョウ』

ミナの小さな手が、ガラス越しの俺の手に重ねられる。彼女の震える声が、記憶の中で直接響いた。

『これはね、世界中の人に「夢」を分けるための、大切なお仕事なんだって。だから、泣かないで』

その瞬間、世界が反転した。ミナの視点を通して、研究室の全貌が明らかになる。そこは『エデン・プロジェクト』と呼ばれる国家主導の極秘施設だった。俺やミナのように、感受性が強く、豊かな感情を持つ孤児たちが集められ、体系的に管理されていた。

俺たちは、感情の「ドナー」だったのだ。

白衣の大人たちは、特殊な装置を使って、俺たちの脳から純粋な幸福、喜び、愛情といった感情を抽出し、データ化していた。そして、そのデータを元に、人工的な記憶――完璧で、誰もが楽しめる高品質なメモリー・クリスタルを量産していた。俺が今まで買い漁っていた、あのきらびやかな記憶の数々は、すべてが作り物だった。他人の記憶などではなかった。

そして、最も残酷な真実が、雷のように俺を撃ち抜いた。

それらの人工記憶の「原料」は、かつてこの場所にいた、俺たち子供の感情だった。俺がクロノ・マーケットで買っていた『海辺のバースデーパーティー』も、『初めての恋人とのキス』も、『家族との温かい食卓』も、その全てが、幼い俺が提供させられた感情データを元に、巧妙に組み上げられた虚構の産物だったのだ。

俺は、自分自身の魂のかけらを、金で買い戻し、それに溺れていたに過ぎなかった。

この巨大なシステムの中で、俺は消費者であると同時に、最も根源的な生産資源だった。搾取される側と、それを消費して現実逃避する側。その両方を、俺はたった一人で演じさせられていたのだ。

「ああ……あああああああっ!」

俺の絶叫は、声にならなかった。価値観が、世界が、足元から崩れ落ちていく。虚構の幸福に浸っていた自分への激しい嫌悪。俺たちから全てを奪い、それを商品として売りさばく、この世界への燃え盛るような怒り。今まで感じたことのない、生々しく、強烈な感情の奔流が、空っぽだった俺の心を叩き壊し、満たしていく。俺はもう、ただのメモリー・ダイバーではいられなかった。

第四章 夜明けのダイバー

俺はヘッドギアを乱暴に引き剥がし、床に叩きつけた。部屋に散らばるメモリー・クリスタルが、虚しく光を反射している。かつては宝石に見えたそれらが、今は俺たちから滴り落ちた血の結晶のように見えた。

もう逃げない。偽りの記憶に溺れるのは終わりだ。

俺は数日かけて、集めた全てのブランク・メモリーのデータを再構築した。それは、地獄のような作業だった。子供たちの悲鳴と、人工的に作られた幸福な笑い声が、俺の頭の中で何度も交錯する。だが、俺は手を止めなかった。

完成したのは、数分間の映像データだった。それは、美しい海辺の光景から始まる。誰もが憧れる、完璧な青春の一コマ。しかし、次の瞬間、映像はノイズと共に切り替わり、白い研究室で泣き叫ぶ子供たちの姿が映し出される。幸福と絶望が交互にフラッシュバックし、最後に、ミナの悲しい目がこちらを真っ直ぐに見つめる。

『私たちの夢を、返して』

その映像に、俺は『エデン・プロジェクト』に関する全ての証拠データを埋め込み、圧縮した。これを世界に拡散すれば、もう後戻りはできない。管理社会は総力を挙げて俺を消しに来るだろう。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、生まれて初めて、自分が確かに「生きている」という実感があった。

俺は、完成したデータを、匿名化された回線を通じて、世界中のネットワークへと解き放った。送信完了の表示が出た瞬間、窓の外が白み始めていることに気づいた。夜が、終わろうとしていた。

机の上に、一つだけクリスタルが残っていた。ミナが俺の手を握ってくれた、あの記憶の断片だ。俺はそれを手に取った。ダイブすれば、もう一度彼女に会える。だが、俺は静かに首を振った。

彼女の記憶は、もう俺の中にある。偽りの体験に頼る必要はない。

俺はそのクリスタルを窓から投げ捨てた。プリズムは朝日を浴びて七色に輝き、路地の闇へと吸い込まれていった。昇り始めた太陽の光が、俺の顔を、そして空っぽになった俺の部屋を、優しく照らし出していた。

世界はすぐには変わらないかもしれない。人々は真実から目を背け、再び偽りの幸福を求めるかもしれない。だが、確かに、俺は変わった。空っぽだった心には、怒りや悲しみと共に、未来へ向かう微かな、しかし確かな意志が芽生えていた。それは金では買えない、俺だけの本物の感情だった。俺はもう、過去の記憶に潜るダイバーじゃない。現実という荒波へ、未来へと漕ぎ出す、夜明けのダイバーなのだ。

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