砂上のクロノス

砂上のクロノス

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第一章 歪む秒針

口の中が、錆びた鉄の味で満たされた。

嘔吐(えず)く。

胃の中身ではなく、俺の「時間」そのものが逆流しているような不快感。

俺は路地裏の湿った壁に手をつき、荒い息を吐いた。

視界がちらつく。

アナログ放送の砂嵐のように、世界がざらついている。

ふと、鼻をつく匂いがあった。

カビと、古い機械油の混じった匂い。

記憶にない地下鉄のホームの臭いだ。俺は今、地上の路地裏にいるはずなのに。

「……クソ、混線してやがる」

懐から『クロノ・コンパス』を取り出す。

針のない懐中時計。

ひび割れたガラスの奥で、光の粒子が狂ったように明滅している。

「カイ?」

雨音に混じって、聞き覚えのある声がした。

心臓が跳ねる。

エレナだ。

濡れたアスファルトの上、傘もささずに彼女が立っている。

ブロンドの髪がネオンサインを吸って濡れそぼり、その瞳が俺を射抜く。

「こんなところで、何をしてるの?」

彼女が歩み寄ってくる。

その瞬間、俺の脳がエラーを吐き出した。

ぐにゃりと視界が歪む。

目の前の美しいエレナの顔が、一瞬だけ、皺だらけの知らない老婆の顔とダブって見えた。

「うっ……!」

生理的な嫌悪と恐怖で、背筋が粟立つ。

脳の処理落ち。

知らない誰かの「老後の記憶」が、現在の視覚情報に割り込んだのだ。

「カイ、顔色が真っ青よ」

エレナが心配そうに手を伸ばす。

その指先が触れた瞬間、老婆の幻影は消え、懐かしい彼女の体温だけが伝わってきた。

「触るな」

俺は反射的にその手を振り払ってしまった。

彼女が傷ついたように目を見開く。

やってしまった。

また、遠ざけた。

「ごめん……ただの目眩だ」

「嘘つき」

エレナは悲しげに笑い、俺の頬に触れようとはせず、ただじっと見つめてきた。

「ねえカイ。私の頭、おかしいのかな」

「何がだ?」

「さっき、あそこの看板を見たの」

彼女が指差したのは、古びた映画館の看板だ。

今は『青い』ネオンが明滅している。

「私、あれはずっと『赤』だったって覚えてるの。昨日までは確かに赤だった。でも、店員に聞いたら『創業からずっと青だ』って笑われたわ」

リライトの影響だ。

誰かが過去を改変し、現在が書き換わった。

だが、エレナのように感受性の強い人間には、消されたはずの「前の世界」の記憶が、違和感として残留する。

「看板は最初から青だ、エレナ。お前が疲れているだけだ」

俺は平然と嘘をついた。

真実を告げれば、彼女はこの狂った世界の裂け目を覗き込むことになる。

「……そう。そうね」

彼女は納得していない顔で、それでも俺に合わせて頷いた。

不意に、強烈な記憶が蘇る。

雨の日。コインランドリー。

乾燥機が回るゴーッという低音の中で、二人で分け合った冷めたピザの味。

トマトソースが指について、彼女が舌を出して笑った、あの日の体温。

この記憶は、本物か?

それとも、リライトされた偽物か?

コンパスが熱を帯びる。

思考を遮るように、脳裏に破滅的な映像がフラッシュバックした。

崩れ落ちる高層ビル。

悲鳴。

そして、血の海に沈むエレナのリボン。

近い。

決定的な終わりが、すぐそこまで来ている。

第二章 確定しない絶望

「見てみろ。傑作だぜ」

ガンスが顎でしゃくった先で、異常が起きた。

場末のバーのカウンター。

俺たちの目の前に置かれたコーヒーカップが、カタカタと震え出したかと思うと――

突然、中身の黒い液体だけが『天井に向かって』こぼれ落ちた。

重力の局所反転。

天井に出来た黒い染みを見上げながら、ガンスは表情一つ変えずに葉巻をくゆらせた。

「南米のコーヒー農園じゃ、昨日収穫した豆がまた木に戻ったらしい。おかげで市場は大パニックだ。物理法則がストライキを起こしてやがる」

「……笑えない冗談だ」

俺は震える手で、空になったカップを握りしめた。

「お前の『未来視』はどうなんだ、カイ。このふざけた世界を終わらせる犯人は見つかったか?」

ガンスが身を乗り出す。

紫煙の向こうで、彼の義眼が怪しく光った。

「見ようとするたびに、未来が変わる」

俺はコンパスをテーブルに置いた。

光の粒子は、もはや意味を成さないほど乱雑に暴れ回っている。

「東京が沈む未来が見えたと思って対策しようとすると、今度は疫病が蔓延する未来にシフトする。まるで、俺が観測することで、世界が『最悪』の選択肢を必死に選んでいるみたいだ」

「シュレディンガーの猫ってやつか? 箱を開けなきゃ、猫は生きてるかもしれない」

「いいや。俺の場合は、箱を開けるたびに猫が別の化け物に変異してるんだ」

ガンスは溜息をつき、天井の染みを指差した。

「時間の耐久値は限界だ。綻びを縫い合わせる針も糸も、もう尽きちまった」

その時だった。

俺が自分の右手を見下ろした瞬間、心臓が凍りついた。

指先がない。

いや、切断されているのではない。

指の輪郭がデジタルノイズのように荒く明滅し、その向こうにあるテーブルの木目が『透けて』見えたのだ。

「おい、カイ。お前の手……」

ガンスが目を見張る。

俺はとっさに、店の鏡を見た。

映っていない。

俺の姿があるべき場所に、真っ黒な『穴』だけが映り込んでいた。

輪郭を持たない、情報の欠落。

「は、はは……」

乾いた笑いが漏れる。

理解してしまった。

犯人なんていなかった。

世界を狂わせていたのは、過去の改変者たちじゃない。

「俺か」

俺という存在そのものが、時間軸に混入したバグだったのだ。

観測するだけで未来を歪め、物理法則を崩壊させる特異点。

「おい、しっかりしろ! 身体が透けてるぞ!」

ガンスが俺の肩を掴もうとするが、その手は空を切った。

視界が白く染まっていく。

耳鳴りが、警報のように鳴り響く。

遠くでエレナが呼んでいる気がした。

あのコインランドリーの、湿った空気と柔軟剤の匂い。

彼女がいつも口ずさんでいた、音程の外れた奇妙な鼻歌。

守らなきゃいけない。

たとえ、俺という存在を代償にしても。

第三章 ゼロ・リライト

俺は、世界の裏側に立っていた。

そこは『時間』の吹き溜まりだった。

無数の光のラインが血管のように脈打ち、歴史という巨大なタペストリーを織り上げている。

だが、その中心には醜悪な腫瘍があった。

黒く、粘りつくようなノイズの塊。

俺だ。

俺の存在が、この美しい織物を食い破り、歪ませている。

『削除しますか?』

誰の声でもない。

システムそのものの問いかけが、脳内に直接響く。

俺を削除すれば、歪みは正される。

だがそれは、俺がこの世に生きた証、全ての痕跡が消滅することを意味していた。

小説家を目指して書いた原稿も。

ガンスと飲んだ安酒の味も。

そして、エレナとの日々も。

「……上等だ」

俺は震える足で、ノイズの中心へと歩き出した。

怖い。

自分が自分でなくなる恐怖に、魂がすくむ。

だが、あの未来――エレナが瓦礫の下で血を流す未来を回避できるなら、安い取引だ。

目を閉じる。

最後に、一番大切な記憶を反芻する。

『カイ、このピザ、冷めても美味しいね』

エレナの笑顔。

雨音。

彼女の指先の温もり。

それだけを、心の錨(いかり)にする。

「さよなら、エレナ」

俺は自分の胸に、クロノ・コンパスを突き立てた。

激痛。

というよりは、喪失。

指先から、足先から、私という輪郭が砂のように崩れ落ちていく。

歴史の修正が始まる。

カイ・アトラスという人間は生まれなかった。

路地裏で倒れていた男はいなかった。

エレナが出会った恋人は、最初から存在しなかった。

光が溢れる。

ノイズが浄化され、世界が正しいリズムを取り戻していく。

俺の意識は、白い光の中に溶け、やがて一粒の雨となった。

最終章 空白の温もり

日曜日の午後。

カフェのテラス席には、春のような穏やかな陽射しが降り注いでいた。

エレナは文庫本を閉じ、アイスティーのグラスについた水滴を指でなぞった。

通りの向こうでは、子供たちが風船を追いかけて走っている。

平和な、ありふれた休日。

「お待たせしました。季節のフルーツタルトです」

店員が皿を置く。

エレナは微笑んで礼を言った。

ふと、彼女は向かいの席を見た。

そこには誰もいない。

空の椅子が、木漏れ日を浴びているだけだ。

「……あれ?」

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

なぜだろう。

今日は一人で来たはずなのに。

向かいに『誰か』がいて、一緒に笑い合っていたような気がしてならない。

それは、とても大切な誰か。

冷めたピザを一緒に食べてくれた誰か。

雨の日に、傘もささずに迎えに来てくれた誰か。

名前を思い出そうとすると、頭の奥が甘く痺れる。

顔も、声も、思い出せない。

そもそも、そんな人は最初からいなかったのかもしれない。

けれど。

「変なの……」

エレナは頬に触れた。

指先が濡れていた。

理由もわからず、涙が溢れて止まらない。

テーブルの上、キラキラと光る埃が舞った。

それは一瞬、壊れた懐中時計の形に見えた気がして、すぐに風に溶けて消えた。

喪失感ではない。

これは、温かい空白だ。

誰かが命懸けで守ってくれた、この穏やかな世界。

その証が、彼女の涙となって溢れていた。

エレナは涙を拭い、高く澄み渡る空を見上げた。

その青さは、どこか懐かしく、優しかった。

「ありがとう」

誰に向けたかもわからない感謝の言葉が、自然と口をついて出た。

風が、彼女のブロンドの髪を優しく撫でて通り過ぎていく。

世界は、今日も美しく回り続けている。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理:**
主人公カイは、愛するエレナと世界の平和を守るため、自身の存在が時間軸のバグと知りながら、究極の自己犠牲を選びます。恐怖に震えながらも、エレナの笑顔を心の錨に、迷いなく自己を消滅させる深い愛が描かれます。エレナはカイの記憶を失っても、心に残る「温かい空白」と説明できない涙を通して、守られた幸福を無意識に感じ取っている姿が感動を誘います。

**伏線の解説:**
第一章でのカイの「錆びた鉄の味」や「時間逆流感」は、彼自身が時間のバグであることの初期症状です。エレナが経験した「看板の色の違和感」は、カイが消えた後、リライトされた世界における失われた記憶の唯一の痕跡。クロノ・コンパスはカイ自身の時間と存在を象徴し、最終的に自己消滅の引き金となります。

**テーマ:**
本作は「自己犠牲と究極の愛」をテーマに掲げます。カイは愛する者と世界の秩序のため、自身の存在そのものを歴史から抹消するという、最も重い選択をします。また、「記憶と存在の曖昧さ」も重要な要素です。過去が改変され、人物が消え去っても、その痕跡が人の心に残り続けることで、存在の定義や時間の倫理を深く問いかける哲学的な物語です。
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