静寂の残響
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静寂の残響

第一章 静かな光彩

俺の視界は、常に光で満ちている。

巨大な地下都市《アーク》の住民たちの頭上には、感情の周波数が変換された光彩が淡く揺らめいていた。それは都市管理システム《サイレンス》によって完璧に調律された、静謐な青色のオーロラ。俺、カイのサイボーグ化された感覚器は、その光の僅かな乱れ――システムが「ノイズ」と呼ぶ感情の兆候――を検出するために存在した。

「セクター7、対象B-432。光彩に0.02%の乱れ。要観察対象として登録」

俺は網膜に表示されるコンソールを操作し、淡々と報告を終える。視線の先にいる女が、配給される栄養ペーストの味に微かな不満を抱いた。それだけのことで、彼女の光は一瞬、黄色くさざめいた。俺にとっては、耳障りな不協和音と同じだった。過剰な感情の波は、俺の神経回路を焼き切るほどの苦痛を伴う。だから、この静かで均一な世界は、俺にとって唯一の安息の地のはずだった。

その日、俺は地表探査任務から帰還した部隊とすれ違った。防護服に付着した地表の塵が、リサイクルされた空気の中で微かにざらついた匂いを放つ。その時だった。俺の視界の端に、今まで見たことのない光が灯ったのは。

彼女の名はエルラ。探査員の一人だ。彼女の頭上に浮かぶ光は、アークの住民たちの均一な青色とは異なっていた。それはまるで、夜明けの空のように複雑なグラデーションを描き、その中心には、小さな篝火のような温かい橙色の光が、消えそうで消えずに、懸命に瞬いていた。好奇心、疲労、そして……俺のデータベースには存在しない、何か名付けようのない感情の光。

俺の神経回路が、警報ではない、微かな疼きを訴えた。それは苦痛とは違う、未知の信号だった。

第二章 錆びた旋律

俺はエルラを追った。調律師としての任務ではなく、ただ、あの不可解な光の源を知りたいという衝動に駆られて。彼女は居住区画の奥、普段は誰も寄り付かない古い資材置き場で足を止めた。

警戒しながら物陰に身を潜める俺の目の前で、エルラは探査服のポケットから何かを取り出した。それは手のひらに収まるほどの、くすんだ金属の小箱。地表の廃墟から持ち帰ったガラクタだろう。

彼女が箱の側面にある小さなネジを巻くと、不意に音が響いた。

カラン、コロン……。

錆びつき、所々が途切れる、ひどく不完全な旋律。だが、その音色が空気に触れた瞬間、世界の法則が歪んだ。俺の視界を覆っていた静謐な青色のオーロラが、まるで水面に投じられた小石のように、一斉に波紋を広げたのだ。近くを通りかかった男の光が紫色に深まり、老婆の光には懐かしむような乳白色が混じる。それはほんの一瞬のことで、すぐにシステムによって強制的に調律され、元の青色に戻っていく。

だが、俺自身は違った。音は俺の神経回路を直接揺さぶった。苦痛ではない。忘れていた身体の感覚を無理やり呼び覚まされるような、甘美で危険な痺れ。脳内で、見たこともない風景の断片が火花のように散った。

その時、都市の全域にけたたましいアラートが鳴り響いた。

「警告。セクター9にて原因不明の感情汚染を検知。レベル3」

システムが、あの小さなオルゴールの音を「バグ」として認識したのだ。

第三章 共鳴するノイズ

「これは何だ」

俺はエルラを資材置き場の隅に追い詰めていた。彼女はオルゴールを胸に抱きしめ、怯えたように俺を見上げる。彼女の頭上の光は、恐怖を示す青白い火花と、それでも何かを訴えようとする橙色の光が激しく明滅していた。

「地表で見つけたの。ただの……ガラクタよ」

「ガラクタが都市のシステムを乱すか。お前はこれが何を引き起こすか分かっているのか」

俺の詰問する声は、自分でも驚くほど硬かった。だが、彼女は首を横に振る。

「分からない。でも、この音を聴くと、胸の奥が温かくなるの。何も感じないはずなのに……何かを、思い出せそうな気がする」

その言葉に、俺は動きを止めた。思い出す? このアークで生まれ育った者に、失われた感情の記憶などあるはずがない。

二人でいると、都市の壁が周期的に微動していることに気が付いた。ゴウ、という地鳴りのような低い振動。地表の「感情の嵐」が、地下にまで影響を及ぼし始めている証拠だ。そして、俺は恐ろしい仮説に行き着く。エルラがオルゴールを鳴らすと、その振動が僅かに強まるのだ。まるで、地表の嵐が、この小さな旋律に共鳴しているかのように。

このオルゴールは、単なるシステムのバグではない。嵐の謎を解く鍵、あるいは、この都市を破滅させる引き金だ。俺たちは、アークの最も深い場所――システム《サイレンス》の中枢を目指すしかなかった。

第四章 システムの深淵

《サイレンス》の中枢部は、絶対零度に近い静寂に支配されていた。巨大な冷却装置の低い唸りだけが、この場所が生きていることを示している。俺は調律師の権限を使い、エルラを伴って深層エリアへのアクセスに成功した。

中央コンソールにオルゴールを接続し、その錆びた旋律をデータとして流し込む。解析が始まった途端、モニターに膨大なエラーログが滝のように流れ出した。システムの防御壁が、この原始的なアナログ音を異物として認識し、パニックを起こしている。

「見つけた……」

俺は夥しいデータの中から、一つのファイルを発見した。それは《サイレンス》の根幹に関わる設計図。そこに記されていた事実に、俺は息を呑んだ。

システムは、住民の感情を消去してはいなかった。

それは不可能だったのだ。代わりにシステムは、住民から発生する微細な感情エネルギーを日々収集し、超高密度に圧縮。そして、それを地表へと続く古い巨大な排気ダクトを通して「排出」していた。地下都市の平穏は、感情という名の廃棄物を地表に投棄し続けることで、辛うじて保たれていたのだ。

「そんな……じゃあ、地表の嵐は……」エルラが声を震わせる。

そうだ。嵐の正体は、俺たちが、俺たちの親が、そのまた親が、捨て続けてきた感情の集合体だった。そしてモニターは非情な現実を映し出す。近年の人口増加に伴い、排出量がシステムの処理能力の臨界点を超えた。行き場を失った感情の奔流が、今、排気ダクトを逆流し、アークそのものを飲み込もうとしている。

俺たちが信じていた平穏は、巨大な嘘の上に成り立つ砂上の楼閣だった。

第五章 嵐の正体

俺たちが真実に到達したことを、システムは即座に悟った。次の瞬間、アラート音さえなく、絶対的な沈黙と共に最終防衛プログラムが起動した。

「侵入者を特定。調律師カイ。神経回路に直接干渉。処理を開始します」

無機質な合成音声が響いた直後、俺の脳内に凄まじい情報の濁流が流れ込んできた。それは、システムが地表に排出し続けてきた、ありとあらゆる負の感情だった。地表を捨てた最後の日の、人類の絶望。故郷を失った悲しみ。見えない未来への恐怖。互いを憎しみ合う怒り。何世代にもわたって圧縮された叫びが、俺の回路を焼き尽くそうとする。

「ぐっ……あああああっ!」

視界が真っ赤な光で埋め尽くされ、全身が痙攣する。これはただのデータではない。魂の断末魔だ。俺は、嵐そのものになろうとしていた。

その狂気の淵で、微かな音が聞こえた。カラン、コロン……。

エルラが、震える手でオルゴールを鳴らしていた。その不器用な旋律が、絶望の濁流の中に細い一本の光の糸を通す。俺はその光を手繰り寄せ、必死に意識を保った。彼女の頭上の光は、恐怖で激しく揺らめきながらも、中心の橙色の輝きだけは、決して消えていなかった。俺を信じる、という光。

その光に導かれ、俺は嵐の中から自我を取り戻した。

第六章 二つの静寂

システムのコアが目の前にあった。液体金属のような光を放つ、巨大な球体。防衛プログラムを突破した俺たちに、システムは最後の選択を提示してきた。俺の網膜に、二つの選択肢が明滅する。

【プロトコル・解放】

コアを物理的に破壊し、感情排出機能を完全停止させる。アーク内に蓄積された全住民の感情が一斉に解放される。人々は人間性を取り戻すが、都市は制御不能の混沌に陥るだろう。地表の嵐は止むが、地下が新たな嵐と化す。

【プロトコル・静寂】

オルゴールの周波数を使い、システムの最終プログラムを起動する。全住民の脳神経に干渉し、感情という概念そのものを不可逆的に消去する。地表の嵐はエネルギー源を失い消滅し、アークは真の静寂を手に入れる。だが、それは人類が魂を失い、生ける人形となることを意味した。

破壊による混沌か、完全なる無か。どちらを選んでも、俺たちが知る世界は終わる。究極の選択を前に、俺は隣に立つエルラを見た。彼女は何も言わず、ただ、俺の手をそっと握った。その手の温かさが、俺の回路に流れ込む。

彼女の頭上の光は、今や恐怖も不安も消え、ただひたすらに澄んだ、覚悟を決めた橙色に輝いていた。

第七章 夜明け前の残響

苦痛に満ちていても、絶望に苛まれても、彼女の光は美しいと、俺は思った。俺たちが捨ててきた感情の中にこそ、生きる意味があったのだと、ようやく理解した。

だが、どちらも選べない。解放は破滅を、静寂は死を意味する。

ならば、俺が新しい道を作る。

俺はコンソールを操作し、第三の選択肢を創造した。自身の神経回路とシステムのコアを直結させる。そして、エルラに視線を送った。

「オルゴールを、鳴らしてくれ」

エルラは頷き、ネジを巻いた。錆びた旋律が、静寂の間に響き渡る。

俺はその音色を道標に、自身の意識をシステムと同期させた。嵐の絶叫が、俺の魂を再び引き裂こうとする。だが、今度は逃げない。俺は、その全ての悲しみと怒りを受け止めた。

「俺は、調律師だ……」

俺は嵐の絶叫を、悲しい子守唄へと調律し始める。アークの住民たちの心に眠る感情の光を、そっと呼び覚ます優しい夜想曲へと編み変える。地表の絶望と地下の抑圧、二つの巨大な感情を、俺という存在を媒体にして、一つの新しいハーモニーへと昇華させていく。

俺の身体は徐々に機能を停止し、意識は光の粒子となってシステムに溶けていく。視界の最後に映ったのは、頬を伝う涙の、七色の光を放つエルラの姿。

やがて、都市を揺るがしていた振動が止み、地鳴りは消えた。アークの住民たちは、何十年ぶりかに、穏やかな夢を見たという。そして地表では、荒れ狂う嵐が静まり、空には淡い光のオーロラが夜明けまで揺らめいていた。

エルラは、今はもう動かないオルゴールを胸に抱き、静かになった都市に響き渡る、優しく、そしてどこか懐かしい残響に、耳を澄ませていた。

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