サイレント・シンフォニア

サイレント・シンフォニア

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第一章 無音のグリッサンド

宇宙は、巨大な楽器だ。星々はそれぞれ固有の音程で震え、銀河は壮大な和音を奏でる。そして、そのすべてを貫き、調和させているのが「時間」という名の指揮者。僕、リオンの仕事は、その指揮に生じる僅かな乱れを正す「時間の調律師(クロノ・チューナー)」だ。

愛機である単独航行艇〈スタインウェイ〉のコクピットは、僕にとって聖域だった。計器パネルの柔らかな光が、静寂に満ちた宇宙空間を映し出す。手の中にあるのは、仕事道具の「クロノ・フォーク」。水晶を削り出したかのように透き通った二股の音叉で、宇宙の時間の流れに共鳴すると、星屑のような光の粒子を放ちながら、清らかな音色を奏でる。この音のズレ――グリッサンドのように滑り、揺らぐ不協和音を検知し、フォークから共鳴波を送って正しい律動に戻す。それが、僕が何年も続けてきた、孤独で、しかし誇り高い仕事だった。

「ビーコン、シグマ734。調律完了。誤差、プラス0.0001ピコセコンドを修正」

コンソールにログを打ち込み、僕は安堵の息をついた。完璧な調和。宇宙の秩序がまた一つ、僕の手によって守られた。幼い頃、原因不明の時空震で両親を失って以来、僕にとって「時間の正確さ」は信仰そのものだった。あの悲劇は、きっと誰かが調律を怠ったせいだ。だから僕は、決して間違いを犯さない。

次の目的地、ペルセウス腕の辺境宙域へとワープドライブを起動させた時だった。突如、船内に鳴り響いていたクロノ・フォークのかすかな共鳴音が、完全に途絶えた。まるで分厚い壁に遮られたかのように、ぴたりと。

「……なんだ?」

計器を確認する。異常はない。生命維持装置も、航行システムも正常だ。しかし、僕の耳には、そして僕の魂には、あり得ないほどの「静寂」が流れ込んできた。それは単なる音の不在ではない。時間そのものが奏でる宇宙の基底音が、完全に消え失せていた。

クロノ・フォークをコンソールにかざす。いつもなら、ターゲット宙域の時間の律動を拾い、予測音を再生するはずなのに、今は沈黙を保ったままだ。ディスプレイには、信じられない表示が点滅していた。

『時間流、未検出(Time-Flow: Not Detected)』

未検出? そんなはずはない。真空ですら、時間は流れている。量子レベルで絶えず揺らぎ、宇宙を満たしているはずだ。時間が存在しない空間など、物理法則の根幹を覆す、あってはならない矛盾。

僕は知らず、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。それは、完璧な楽譜に突如として現れた、理解不能な「全休符」。宇宙という壮大な交響曲に空いた、ぽっかりとした虚無の穴。僕の信仰が、初めて音を立てて揺らぎ始めた瞬間だった。

第二章 追憶のアリア

中央管理局への報告は、予想通りの反応で返ってきた。「観測エラー、あるいは機器の故障。直ちに帰還し、オーバーホールを受けよ」。彼らにとって、僕が報告した「時間の無音領域」は、存在しないゴーストに過ぎなかった。だが、僕には分かっていた。あれはエラーなどではない。僕のクロノ・フォークは、僕の魂の一部だ。その沈黙は、紛れもない現実からの呼び声だった。

僕は命令を無視した。独断で、〈スタインウェイ〉の機首をその無音領域――僕が密かに「サイレント・ゾーン」と名付けた場所へ向けた。恐怖よりも、知りたいという渇望が勝っていた。宇宙の調和を脅かすその異常の正体を、この手で突き止めなければならない。

ゾーンに近づくにつれて、船内の空気が奇妙に密度を増していくのを感じた。時間の流れが、まるで粘度の高い液体の中を進むように、重く、緩慢になっていく。そして、不思議なことが起こり始めた。忘れていたはずの記憶が、何の脈絡もなく、鮮明な映像として脳裏に蘇るのだ。

父の大きな手。母の焼いたアップルパイの甘い香り。コロニーの窓から三人で眺めた、土星の環。それは、僕が時空震のトラウマと共に封印してきた、幸福だった頃の記憶のアリアだった。なぜ今、こんなものが? 時間の律動が乱れると、人の記憶もまた変調をきたすのだろうか。

頬に温かいものが伝い、僕は自分が泣いていることに気づいた。両親を失ってから、涙など流したことはなかったのに。悲しみは、正確な時間の流れの中で風化させ、克服すべきものだと信じてきた。しかし、この淀んだ時間の中では、心の奥底に沈殿していた感情が、ゆっくりと舞い上がってくるようだった。

やがて、〈スタインウェイ〉はサイレント・ゾーンの境界に到達した。そこは、言葉通りの「無」だった。星々の光さえも、その領域の手前で不自然に歪み、吸い込まれているように見える。漆黒の球体が、宇宙に口を開けていた。

船外センサーは、あらゆる計測を放棄していた。重力、放射線、空間歪曲率、すべてがゼロか、観測不能。そして、時間も。

僕は船外活動用のスーツを身に着け、エアロックの前に立った。これから踏み込むのは、人類が、いや、宇宙のいかなる知的生命体も経験したことのない領域だ。そこには何があるのか。宇宙の終わりの姿か、あるいは始まり以前の無か。

だが、不思議と恐怖は薄れていた。コクピットに響いていた追憶のアリアは、僕の心を奇妙な郷愁で満たしていた。まるで、あの黒い穴の向こうに、失われたはずの何かが待っているかのように。僕は覚悟を決め、ハッチを開いた。

第三章 喪失のフーガ

サイレント・ゾーンへと一歩踏み出した瞬間、世界から音が消えた。スーツ内の呼吸音さえも、どこか遠くに聞こえる。時間の流れが完全に消失したせいか、思考の速度が極端に落ち、一つの考えをまとめるのに永遠とも思える時間がかかる。ここは、因果律の鎖が断ち切られた場所だ。

ゆっくりと、しかし確実に、僕はゾーンの中心へと引き寄せられていった。動力のないはずの僕の身体が、抗いがたい力に導かれていく。どれほどの時間が経過したのか、もはや知る術はない。一秒か、一億年か。

やがて、暗闇の向こうに、微かな光が見えた。それは、凍てついた悲しみそのものを結晶化させたかのような、巨大な青白い水晶体だった。大きさは小惑星ほどもあるだろうか。表面は滑らかで、内部からは、まるで心臓の鼓動のように、淡い光が明滅している。

僕は無意識のうちに手を伸ばし、その冷たい表面に触れた。

その瞬間――。

僕の意識は、肉体から引き剥がされた。時間も空間も意味をなさない奔流の中へ、僕は投げ込まれる。それは、僕ではない誰かの、途方もなく永い記憶のフーガだった。

『――アニムス』

声が聞こえた。いや、思考が直接流れ込んでくる。僕は、遥か太古、この宇宙に存在した知的生命体「アニムス」の最後の個体の意識と繋がっていた。彼らは精神エネルギーだけで構成され、時間を「奏でる」ことで宇宙を創造し、維持してきた種族だった。星々の誕生も、銀河の回転も、すべては彼らの奏でるシンフォニーの結果だったのだ。

僕が追体験しているのは、その最後のアニムスが、唯一の伴侶を失った瞬間の記憶だった。それは、僕が両親を失った悲しみなど、小さな水たまりに思えるほどの、宇宙そのものが引き裂かれるような絶望と喪失だった。

伴侶を失ったアニムスは、歌うことをやめた。時間を奏でることを放棄した。彼の悲しみはあまりに深く、宇宙の調和を維持するという使命さえも、もはや意味をなさなかった。彼は、自らの存在と記憶、そして愛する者と過ごした「時間」そのものを、この場所に封印することを選んだのだ。

このサイレント・ゾーンは、宇宙の異常などではなかった。それは、アニムスの巨大な悲しみが作り出した墓標であり、彼が愛した者との永遠の思い出を守るための聖域だった。僕が信じてきた「時間の正確さ」という秩序は、彼らの存在が前提にあった。そして今、その源の一方が、自らの意志で沈黙を選んだのだ。

記憶の奔流の最後に、僕は衝撃的なビジョンを見た。アニムスの深い悲しみが宇宙に刻まれた瞬間、その余波として生じた微細な時空の震え。それが、遠く離れた太陽系第三惑星の軌道上で、一隻の小型宇宙船を飲み込んでいく。僕の両親が乗っていた船だった。

僕の過去は、宇宙の法則の気まぐれなどではなかった。それは、誰かの途方もない愛と、それを失った悲しみの、ほんの小さなこだまに過ぎなかったのだ。僕が憎み、克服しようとしてきたものは、僕が想像も及ばないほど純粋で、切実な想いの果てにあった。

涙が、ヘルメットの中で凍りついていく。それは、憎しみが霧散し、巨大な哀切と、そして奇妙なほどの共感に変わっていく涙だった。

第四章 始まりのコーダ

意識が肉体に戻った時、僕はまだ巨大な結晶体に触れたままだった。アニムスの記憶と感情を追体験した僕は、もはや以前の僕ではなかった。完璧な調和、揺るぎない秩序。僕が追い求めてきたものは、なんと脆く、一面的なものだったのだろう。宇宙は、喜びや創造だけでできているのではない。喪失も、悲しみも、そしてこの永遠のような沈黙もまた、宇宙を構成する不可欠なパートなのだ。

この場所を「修正」することなど、僕にはできなかった。いや、してはならない。それは、ある魂が命を賭して守ろうとした愛の記憶を、土足で踏みにじる行為に他ならない。

僕はゆっくりと結晶体から手を離した。そして、その巨大な墓標に向かって、静かに頭を下げた。

〈スタインウェイ〉に帰還した僕は、中央管理局へ報告書を送信した。

『当該宙域、コードネーム"サイレント・ゾーン"は、未解明の重力特異点と断定。内部の物理法則は崩壊しており、航行は極めて危険。永久航行禁止区域への指定を具申する』

それは、僕が人生で初めてついた、意図的な嘘だった。秩序の番人である僕が、秩序を守るために嘘をつく。その矛盾に、僕は不思議な安らぎを覚えていた。アニムスの静かな眠りを、彼の永遠の愛と悲しみを守ること。それが、僕が見つけた新しい「調和」の形だった。完璧主義者で、世界の不完全さを憎んでいた僕が、不完全さの中にこそ存在する美しさと尊さを受け入れた瞬間だった。

僕は、「時間の調律師」から、名もなき「時間の守護者」になった。

日常の任務に戻った僕の世界は、以前とは少しだけ違って見えた。クロノ・フォークを握ると、宇宙を流れる時間の律動の中に、時折、微かな不協和音が混じる。かつての僕なら、即座にそれを修正しただろう。

だが今の僕の耳には、その不協和音が、もはや修正すべきノイズには聞こえなかった。それは、ペルセウス腕の彼方から届く、誰かの喪失を悼む静かな歌。宇宙の深淵に、今も響き続ける切ない愛のコーダのように感じられた。

僕は一人、〈スタインウェイ〉の窓から広がる星空を見上げる。そして、遠いサイレント・ゾーンに静かに思いを馳せる。僕の仕事はこれからも続くだろう。だが、もう孤独ではない。この宇宙を満たす壮大なシンフォニアには、僕にしか聞こえない、秘密の旋律が加わったのだから。

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