サイレンスの調律

サイレンスの調律

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第一章 沈黙のコンチェルト

夜の静寂を切り裂くように、私のスマートフォンが鋭く振動した。ディスプレイに表示された「非通知設定」の四文字に、眉をひそめる。こんな時間に警察関係者からの連絡となれば、ろくな報せでないことは経験上わかっていた。

「音響分析官の時枝響子です」

『……時枝さんか。警視庁捜査一課の田所だ。夜分にすまない』

受話器の向こうから聞こえるのは、聞き慣れたしゃがれた声。しかし、その声にはいつになく焦燥の色が滲んでいた。背後では複数の人間の声や無線が飛び交い、現場の混乱が手に取るように伝わってくる。

『特異案件だ。君の耳を借りたい。至急、港区のタワーマンション、アークスタワー四十五階まで来てくれ』

特異案件、という言葉に私の意識が覚醒する。私が警察に協力するのは、通常の科学捜査では解明できない「音」が関わる事件だけだ。

『被害者は?』

一瞬の沈黙。田所刑事は言葉を選んでいるようだった。

『……ヴァイオリニストの、有栖川玲だ』

その名を聞いた瞬間、私の心臓を氷の指が掴んだかのような衝撃が走った。有栖川玲。かつて、私の世界のすべてだった男。そして、私が音楽の世界から逃げ出す原因となった男。

タクシーの窓に映る自分の顔は、血の気が引いて蒼白だった。玲が被害者?あの完璧主義者で、自己管理の化身のような男が、事件に巻き込まれるなど信じがたい。

現場は、彼の自宅兼スタジオだった。防音壁に囲まれた広大なリビングの中央に、グランドピアノと、玲の分身ともいえるストラディバリウスがケースに収められている。しかし、異様なのはその光景そのものではなかった。

部屋の中央、譜面台の前に置かれた椅子に、玲は座っていた。

まるで精巧な蝋人形のように。

白いシャツに黒いスラックス。その姿は、演奏会前のリハーサル風景と何ら変わりない。だが、彼の蒼白い顔に表情はなく、その瞳は虚空を捉えて微動だにしない。

「……死んでいるのか?」

私の問いに、田所刑事が重々しく首を振った。

「それが、問題なんだ。生きてはいる。心拍も呼吸も、極めて微弱だが確認できる。だが、どんな刺激にも一切反応しない。呼びかけても、身体に触れても、光を当てても、瞳孔ひとつ動かない。脳波は、ほぼフラットだ。医学的には、限りなく脳死に近いが、身体は腐敗もせず、この状態を維持している」

それは、死ではない。かといって、生でもない。玲は、生命活動の定義そのものを嘲笑うかのように、ただ「存在」していた。部屋には荒らされた形跡も、争った跡もない。完全な密室で、彼はただ「沈黙」という名の状態に陥っていた。

私の視線は、床に落ちていたポータブルレコーダーに吸い寄せられた。玲は自らの演奏を常に録音し、完璧な音を追求していた。あの日、彼が最後に聴いていた音、あるいは聴かされてしまった音。そこに、この不可解な「沈黙」を解く鍵があるはずだ。私は手袋をはめると、その冷たい機械をそっと拾い上げた。玲の魂が盗まれたのだとしたら、犯人はきっと、音という名の痕跡を残しているに違いない。

第二章 無音の残響

警察の分析ラボで、私はヘッドフォンを装着し、意識を聴覚に集中させた。外界の光や情報を遮断し、耳から入る情報だけが私の世界のすべてとなる。再生ボタンを押すと、玲が遺したレコーダーから、音が流れ出した。

最初は、彼のヴァイオリンの音色だった。ピッチ、ヴィブラート、運弓の力加減。すべてが完璧に制御された、玲ならではの冷たくも美しい音。それはバッハのシャコンヌ。彼の十八番だった。私はその一音一音に、かつて共に音楽を追い求めた日々の記憶を呼び覚まされ、胸が締め付けられるのを感じた。

演奏がクライマックスに達し、最後の音が天に昇るように消えていく。そして、その直後だった。

―――キーン。

高周波の耳鳴りのような音が、一瞬だけ記録されている。だが、それはただのノイズではなかった。その直後、本来あるべき部屋の残響音、空調の作動音、遠くを走る車の走行音といった、あらゆる環境音が、まるで分厚い壁に遮断されたかのように、ぷつりと途絶えていたのだ。

完全な無音。それは自然界には存在し得ない、絶対的な静寂。まるでデジタルデータから音の波形を根こそぎ削除したかのような、不気味なほどの「無」。

「田所さん。これは……異常です」

私はヘッドフォンを外し、後ろで腕を組んで待っていた田所刑事に告げた。

「犯人は、音を消した。それも、特定の空間の音響すべてを相殺するような、特殊な何かを使って」

私の脳裏に浮かんだのは、「アンチ・サウンド」という理論だった。ある音波に対して、その振幅が同じで位相が正反対の音波をぶつけることで、音を打ち消す技術。ノイズキャンセリングヘッドフォンの原理を、空間全体に応用したようなものだ。しかし、これほど広範囲かつ完璧な無音を生成するには、膨大な計算と巨大なエネルギーが必要なはずだ。

「そんなことが可能なのか?」

「理論上は。しかし、それを実行できる人間や組織は、世界でもごく僅かでしょう。軍事技術レベルの話です」

捜査は暗礁に乗り上げた。玲の周辺に、そんなハイテク技術に繋がるような人物は見当たらない。ライバルの音楽家、熱狂的なファン、あるいは金銭トラブル。どれも、この超常的な事件とは結びつかなかった。

そんな中、新たな情報がもたらされる。過去二年間に、同じような不可解な状態で発見された人物が、国内に二人いることが判明したのだ。

一人は、鮮烈な色彩で知られた画家の長谷部まどか。彼女は真っ白なキャンバスの前で、絵筆を握ったまま「沈黙」していた。もう一人は、言葉の奔流で読者を魅了した詩人の三崎愁。彼は、一文字も書かれていない原稿用紙に向かったまま、時を止めていた。

画家、詩人、そして音楽家。三人の芸術家が、自らの表現手段の象徴の前で、その魂を抜かれている。犯人の狙いは、金や怨恨ではない。芸術家の「魂」そのものだ。

私は三つの事件の現場資料を並べ、ある共通点に気づいた。彼らは全員、そのキャリアの頂点で、完璧な作品を創り上げた、と評されていた直後に事件に遭っている。まるで、その完璧な創造物と共に、自らもまた作品の一部として封じ込められたかのように。

私は再び、玲のスタジオで録音された「無音」のデータと向き合った。この静寂は、単なる音の欠如ではない。それは何かを主張している、極めて雄弁な「沈黙」なのだ。私は分析ソフトを駆使し、その無音の領域をスペクトル解析にかけた。すると、そこに信じられないものが浮かび上がった。

無音の中に、さらに微細な、人間の耳では到底捉えられない周波数の振動パターンが隠されていたのだ。それは、まるで暗号のように複雑な構造を持っていた。

このパターンが意味するものはいったい何だ?私はその波形を、既知のあらゆる音響データと照合し始めた。それは、気の遠くなるような作業だった。

第三章 奏でられなかった楽譜

答えは、思いがけない場所から見つかった。玲の自宅から押収された資料の中に、一冊の古いノートがあった。それは彼が学生時代から使っていた作曲用のノートで、端にはいくつもの楽想が書き殴られている。そのほとんどは、私にも見覚えのあるメロディだった。

ページをめくっていくと、後半に、楽譜とは似ても似つかぬ、複雑な数式や物理学の理論がびっしりと書き込まれていた。脳科学、音響物理学、量子力学。そして、その中心に書かれていた言葉に、私は息を呑んだ。

『魂の固有周波数と逆位相共鳴に関する考察』

それは、あの「アンチ・サウンド」の理論そのものだった。玲は、音楽家でありながら、人間の意識や魂を、物理的な周波数として捉え、それを制御する方法を研究していたのだ。

ノートの最後の方に、一枚の設計図が挟まっていた。それは、特殊な音波を発生させる小型装置の図面。そして、その横には、玲の震えるような筆跡でこう記されていた。

『完璧な芸術とは、ノイズに満ちた人間の感情や解釈を排した先にある、純粋な静寂(ニルヴァーナ)である。演奏者という最大の不確定要素を取り除き、作品そのものを永遠の存在へと昇華させる。演奏者は、最後の音と共に、作品と一体化するのだ。それが、究極の調律』

全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

犯人は、玲自身だった。

いや、彼からすれば、これは犯罪などではない。自らの芸術哲学を完成させるための、崇高な儀式だったのだ。彼は、人間の魂の活動を停止させる「音」を自ら開発し、それを自らに浴びせた。画家も詩人も、彼の思想に共鳴し、自らの意志で「沈黙」を受け入れた協力者だったのだ。

これは殺人事件でも、傷害事件でもない。三人の芸術家による、狂気的で、しかし純粋すぎるほどの願いが引き起こした、集団的な「芸術的昇華」だった。

私は愕然として、その場に座り込んだ。かつて、私は玲の完璧主義に苦しめられた。「君の音には感情という名の揺らぎが多すぎる。不純物だ」。そう言われたことが、私がヴァイオリンを置く決定的な一言となった。彼が追い求めていた完璧な「音」が、まさか人間性の完全な否定である「無音」だったとは。

彼の孤独が、狂気が、そして芸術へのあまりに純粋な愛が、痛いほどに胸に突き刺さる。彼は誰よりも音楽を愛し、そして誰よりも音楽に絶望していたのだ。

田所刑事にどう報告すればいい?「犯人は被害者自身でした。動機は、自らを芸術作品にするためです」とでも言うのか?誰も信じないだろう。法では裁けない、あまりにも哀しい真実。

私は玲のノートを閉じた。そこには、彼が「沈黙」する直前に書いたと思われる、走り書きのメモがあった。

『響子。君だけは、このサイレンスを理解してくれるかもしれない。君の音は、あまりに人間的で、美しすぎた』

涙が、頬を伝った。彼は私を否定したのではなかった。彼の目指す完璧な世界とは、あまりに違う場所に私の音楽があったから、彼は私を遠ざけたのだ。彼のやり方で、私を守ろうとしたのかもしれない。

第四章 ふたりのためのソナタ

私は、誰にも告げずに再び玲のスタジオを訪れた。警察の規制線はまだ張られているが、今はもう、捜査の対象ではない。ガラスケースの中で静かに眠る彼のストラディバリウスを、そっと手に取った。ひんやりとした木の感触が、懐かしい記憶を呼び覚ます。

部屋の中央、時を止めた玲の前に立つ。彼の虚ろな瞳は、私を映してはいない。だが、私にはわかっていた。彼の魂は、この「沈黙」の奥深くで、まだ耳を澄ましているはずだ。

私はヴァイオリンを肩に当て、弓を構えた。

何を弾くべきか。バッハか、ベートーヴェンか。完璧な技巧で奏でられる音楽は、彼の分厚い沈黙の壁に弾き返されるだけだろう。

ならば、私が奏でるべきは、玲が最も嫌った「不純物」に満ちた音。不完全で、感情的で、人間臭いメロディだ。

私はゆっくりと弓を動かし始めた。それは、かつて私と玲が、二人で作ろうとして完成しなかった曲。些細なことで喧嘩をして、楽譜を破り捨ててしまった、未完成のソナタ。

私の記憶の中だけで生きている、不格好なメロディ。

音は、震えていた。喜びと、悲しみと、怒りと、そして愛情。あらゆる感情がごちゃ混ぜになった、不安定な音色。それは玲が追い求めた完璧な音とは、まさに対極にあるものだった。彼の創り出した「アンチ・サウンド」に対する、私の心から生まれた「ソウル・サウンド」。

一音、また一音と、音楽を紡いでいく。

論理も、技巧も、すべてを捨て去る。ただ、彼に届けたいという想いだけを音に乗せる。響子、君の音は人間的すぎると言った彼の言葉を、今、私は肯定する。そうよ、玲。これが私の音。不完全で、矛盾だらけで、でも、生きている人間の音なのよ。

その時だった。

蝋人形のようだった玲の指が、ぴくりと微かに動いた。

そして、固く閉じられていた彼の瞼の隙間から、一筋の涙が静かに流れ落ち、蒼白い頬を伝った。

彼の「沈黙」の檻に、小さなひびが入った瞬間だった。

私は演奏を止め、ヴァイオリンを下ろした。彼が完全に元に戻ることはないのかもしれない。長いリハビリが必要になるだろうし、二度とヴァイオリンを弾けないかもしれない。

でも、それでいい。

完璧な芸術作品として永遠に「沈黙」するよりも、不完全な人間として涙を流せることの方が、ずっと尊い。

私は、玲が自ら捨て去ろうとした「人間」を、彼の中に取り戻したのだ。

事件は、表向きには「原因不明の特異事例」として処理された。私は警察に、玲のノートのことは話さなかった。それは、彼と私の、二人だけの秘密。

数日後、私は自分の部屋の奥から、埃をかぶったヴァイオリンケースを引っ張り出した。蓋を開けると、懐かしい木の香りが立ち上る。

私は、再び音楽と向き合う決意をした。完璧な音ではない、誰かの心に寄り添うための、温かい音を奏でるために。

空は白み始め、新しい一日が始まろうとしていた。世界は相変わらず様々な音に満ちている。その不協和音すら、今の私には愛おしい交響曲のように聞こえていた。

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