沈黙のパルティータ

沈黙のパルティータ

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第一章 色のない音

音無響(おとなし ひびき)の世界は、音で彩られていた。彼にとって、雨音は無数の青いビーズが地面に弾ける光景であり、車のクラクションは下品な黄土色の炸裂だった。共感覚(シナスタジア)。そう診断されたのは幼い頃。以来、調律師となった彼の指は、ピアノの鍵盤が放つ「色」を頼りに、濁りのない完璧な純白のハーモニーを紡ぎ出してきた。

その日、彼が対峙していたのは、音のない世界だった。

「事件性はない。心不全による突然死だろう」

刑事の言葉は、響の目にはくすんだ灰色の煙のように映った。ここは、彼の恩師であり、現代最高の作曲家と謳われた霧島玲二の仕事部屋だ。グランドピアノが鎮座し、壁一面に楽譜が埋め尽くされたその部屋で、霧島は安楽椅子に深く身を沈め、まるで眠るように息絶えていた。外傷はなく、部屋は内側から鍵がかけられた完全な密室。警察の見立ては、おそらく正しいのだろう。

だが、響には分かった。この部屋は、何かが根本的に間違っている。

静寂。それは響にとって、決して無色ではない。完全な静けさは、透明なガラスのような、あるいは深い藍色のような澄んだ色を帯びているはずだった。しかし、この部屋の沈黙は違った。それは「色がない」のだ。まるで、キャンバスに黒い絵の具を塗りたくったかのような、光を一切吸収する漆黒。だというのに、その中心には、ちくりと目を刺すような、微かな「緋色」の棘が点滅している。

矛盾した色。存在しないはずの音。

「先生は、死ぬ直前、何を聴いていたんだろう……」

響の呟きは、誰にも届かない。彼は、この世でただ一人、恩師の死が奏でる「無音の旋律」を聴いていた。それは、これから始まる長く、不可解なミステリーの序曲だった。響は固く拳を握りしめた。警察が見つけられないのなら、自分が見つけ出す。この不気味な沈黙に隠された、真実の色を。

第二章 偽りの色彩

霧島の葬儀は、彼の音楽のように荘厳で、しかしどこか冷たく執り行われた。参列者の嗚咽や囁き声が、響の目には様々な色の飛沫となって飛び交う。偽りの悲しみはけばけばしい紫に、隠しきれない安堵は濁った緑色に見えた。誰もが霧島の死を悼んでいるように見せかけながら、その音には不純な色が混じりすぎていた。

響は独自の調査を開始した。手がかりは、霧島の仕事部屋に残された最後の楽譜。それは未完成のチェロのためのパルティータで、終楽章の数小節を残してペンが止まっていた。その余白に、震えるような文字でメモが残されている。

『沈黙こそが、至高の旋律』

この言葉の意味が、響には掴めなかった。音楽家にとって沈黙は、音を際立たせるための休符であって、それ自体が目的になることはない。まるで、自らの死を予期していたかのような、謎めいた言葉だった。

響は、霧島と生前関わりのあった数人の人物に会って話を聞くことにした。

最初に訪ねたのは、霧島の才能に嫉妬していると噂されていた若手の作曲家、早乙女だ。彼は殊勝な顔で「巨星を失った」と語ったが、その声の根底には、粘つくような焦茶色が渦巻いていた。嫉妬の色だ。しかし、殺意のような、鋭利な赤は見えない。

次に会ったのは、霧島のパトロンだった老婦人。彼女は「あんなに素晴らしい才能が……」と涙ぐんだが、その音は薄っぺらな水色で、まるで感情が乗っていなかった。彼女にとって、霧島はコレクションの一つに過ぎなかったのかもしれない。

誰もが怪しく、しかし誰もが決定的ではなかった。彼らの言葉の色は、ありふれた人間の感情の澱(おり)であり、殺人という異常な行為に結びつくほどの凶暴な色合いはどこにもなかった。

途方に暮れかけた響が最後に頼ったのは、榊原教授だった。音響工学の権威であり、霧島とは学生時代からの親友。そして、幼い頃から響を息子のように可愛がってくれた、父親のような存在だ。

大学の研究室で会った榊原は、心から憔悴しきっていた。「玲二がいなくなって、世界から美しい音が一つ消えてしまったようだ」と語る彼の声は、響が知る中で最も誠実で、深く、澄み渡ったサファイアブルーをしていた。嘘偽りのない、純粋な悲しみの色だった。響は、この人だけは信じられると、心の底から安堵した。

榊原は、響の共感覚についても最も理解してくれている人間の一人だった。「君のその『眼』なら、我々には見えないものが見えるのかもしれないな」。彼はそう言って響を励まし、霧島が亡くなる数日前に研究室を訪ねてきたことを話してくれた。

「最近の彼は、少し神経質になっていた。自分の音楽が、世間の評価に追いついていない、と……。完璧主義者だったからな」

その言葉に、響は違和感を覚えた。霧島は、世間の評価など気にするような男ではなかった。彼が向き合っていたのは、常に自分自身の内なる音楽だけだったはずだ。

何かが、引っかかる。

響は礼を言って研究室を辞去しようとした。その時、彼の視界の隅に、無造作に置かれた金属製の奇妙な機械が映った。パラボラアンテナのような形をした、無骨な装置。

「それは?」

響が尋ねると、榊原は少しだけ間を置いてから、穏やかに答えた。

「ああ、ただの試作品だよ。特定の周波数の音だけを完全に消し去る、指向性アクティブノイズキャンセラーさ。まだ実験段階だがね」

その瞬間、響の全身を電流のような衝撃が貫いた。

特定の音だけを、完全に消し去る。

あの部屋の、漆黒の沈黙。中心に点滅する、緋色の棘。

パズルのピースが、恐ろしい形に組み合わさっていく。

まさか。この、誰よりも信頼していた温かいブルーの音を持つ人が?

いや、ありえない。響は首を振り、榊原の優しい笑顔に送られて、研究室を後にした。しかし、彼の心に一度芽生えた疑念の種は、急速に根を張り始めていた。

第三章 沈黙のレクイエム

数日間、響は眠れなかった。榊原の誠実なブルーと、あの不気味な装置のイメージが頭の中でせめぎ合っていた。ありえない、という理性の声と、何かがおかしい、という感覚の叫び。彼は、自分の共感覚そのものを疑い始めていた。もし、あのブルーさえも偽りの色だったとしたら?

意を決した響は、深夜、密かに榊原の研究室に忍び込んだ。良心の呵責はあったが、真実を知るためには手段を選んでいられなかった。あの装置を、もう一度確かめなければならない。

研究室は静まり返っていた。響はまっすぐに装置へと向かう。そして、その制御パネルに、小さなUSBメモリが差し込まれているのを見つけた。ためらいながらも、彼はそれを近くのPCに接続した。

画面に表示されたのは、一つの音声ファイルと、テキストドキュメントだった。

響は、震える指で音声ファイルを再生した。

『……榊原、頼む。もう、限界なんだ』

それは、紛れもなく恩師、霧島玲二の声だった。しかし、その音は響が知っている力強いテノールの響きではなく、ひどくかすれ、弱々しかった。そして、その声の「色」は、絶望的なまでに濁った灰色をしていた。

『私の耳は、もうダメだ。音が……音が歪んで聴こえる。ドの音が、半音高く、いや、低く……ああ、分からない! 私の中から、完璧な音楽が消えてしまったんだ』

響は息を呑んだ。霧島は、晩年、耳の病を患っていたのだ。作曲家にとって命とも言える絶対音感が、狂い始めていた。

続いて、テキストドキュメントを開く。それは、榊原が書いた日記だった。

『玲二は、自分の不完全な音楽が世に残ることを、死ぬ以上に恐れていた。彼は、自らの手で最高傑作を汚す前に、すべてを終わらせたいと願った。私にできることは何か。彼の親友として、彼の芸術を守るために、私に何ができる?』

『我々は、一つの結論に達した。彼の最期を、一つの芸術作品として完成させるのだ。彼の最期の苦しみの声、喘ぎ、物音。そのすべてを、私の技術で完全に消し去る。後に残るのは、完璧な沈黙。それこそが、彼の最後の、そして至高のパルティータとなる』

『玲二、安らかに眠ってくれ。君の最期の作品は、私が完成させた。この世でただ一人、君の苦悩を理解する私だけが聴衆の、完璧な「沈黙のレクイエム」だ』

全身の血が凍りつくようだった。

あれは、殺人ではなかった。自殺でもない。

親友同士が、歪んだ美学と友情の果てに辿り着いた、究極の「合作」だったのだ。

霧島が自ら薬を飲み、榊原がその傍らで、あの装置を使って彼の最期の音をすべて消し去った。だから、部屋には完璧な沈黙だけが残された。響が感じた「漆黒」は人工的に作られた無音の色であり、「緋色の棘」は、その沈黙の奥に封じ込められた、霧島の最後の苦悶の叫びの名残だったのだ。

響は、その場に崩れ落ちた。自分の価値観が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。榊原の声が純粋なブルーに見えたのは、彼が嘘をついていたからではない。彼は、心からそれが親友のためであり、芸術のための、正しい行いだと信じていたからだ。だから、彼の音には一点の曇りもなかったのだ。

正義とは何か。芸術とは何か。友情とは。

答えの出ない問いが、響の頭の中を渦巻いていた。

第四章 赦しの和音

翌日、響は警察署の前に立っていた。USBメモリを握りしめた手は、冷たい汗でじっとりと濡れている。これを渡せば、榊原は自殺幇助の罪で裁かれるだろう。それが、法の下での正義だ。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。

響の脳裏に、霧島の苦悩に満ちた声と、榊原の悲しいほどに純粋なブルーが蘇る。二人が命を懸けて作り上げた「沈黙の芸術」を、自分が俗世の法で裁いてしまっていいのだろうか。それは、彼らの魂を冒涜することにはならないか。

長い葛藤の末、響は踵を返し、警察署を後にした。彼は、法ではなく、自分自身の「音」に従うことを選んだ。

数日後、響は霧島の仕事部屋を再び訪れていた。遺族の許可を得て、彼は部屋の主だったグランドピアノの前に静かに座る。そして、あの未完成のパルティータの楽譜を譜面台に置いた。

そっと鍵盤に指を置く。

響は、霧島の遺した旋律を、一音一音、確かめるように弾き始めた。それは、絶望と諦観、そしてかすかな希望が入り混じった、悲しくも美しいメロディだった。

楽譜のペンが止まった最後の小節まで弾き終えた時、響は一度目を閉じた。

そして、彼自身の解釈で、最後の和音を奏でた。

それは、音ではなかった。

彼は、ダンパーペダルを踏み込み、すべての弦を解放したまま、そっと鍵盤から指を離した。

ホールに響き渡るのは、音と音の狭間に生まれる、豊かで複雑な「沈黙」。

響の目には、その沈黙が、確かな色を持って見えていた。

霧島の苦悩を封じ込めた漆黒と緋色。榊原の歪んだ友情が放つサファイアブルー。そして、それらすべてを包み込む、響自身の赦しと理解を示す、柔らかな白光。

いくつもの色が混じり合い、それは一つの、誰も見たことのない、神々しいまでの和音となっていた。

音を色としてしか見ることのできなかった青年は、今、色のない「沈黙」の中に、人間の最も深い愛情と悲しみ、そして芸術の魂を見出していた。

響が奏でた沈黙のレクイエムは、誰に聴かれることもなく、静かに部屋の空気へと溶けていった。

それは、法では裁けない真実を知る、たった一人の調律師による、恩師たちへの鎮魂歌。

そして、彼が新たな世界へと踏み出すための、始まりの音でもあった。

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