忘却の天秤と最後の言葉
第一章 鉛色の依頼
俺、リヒトの営む古物店には、奇妙な客がよく訪れる。彼らが求めるのは品物ではなく、言葉の真贋だ。俺には、他人が発する言葉の「重み」を、物理的な質量として感じ取る力があった。嘘は鉛のように肩にのしかかり、隠し事は冷たい鉄の塊となって胸を塞ぐ。逆に、真実や純粋な感情は、春のそよ風のように軽やかだった。
その日、店のドアベルを鳴らしたのは、ひとりの若い女性だった。エリアと名乗った彼女の言葉は、驚くほど軽かった。まるで陽だまりで微睡む猫の毛先のように、柔らかく、温かい。
「弟が……弟が、少しずつ自分を忘れていくんです」
しかし、その軽い言葉の隙間から、ずしりとした悲しみの質量が滲み出ていた。話を聞けば、街で蔓延する奇病――理由もなく記憶の一部が抜け落ちていく病に、彼女の弟が罹ったのだという。時を同じくして、街には「忘れ物」が異常なほど増え始めていた。人々が忘れた記憶や感情が実体化した、美しくも危険な幻影たち。忘れられた子守唄を奏でるオルゴール、持ち主のいない日記、溶けることのないガラスの雪の結晶。
「どうか、原因を突き止めてください。このままでは、弟は私のことさえ忘れてしまう」
エリアの依頼は、見えない鉛となって俺の心に沈んだ。街に満ちる忘却の気配は、ただ事ではない。俺は埃を被ったカウンターの奥から、小さな真鍮の天秤を取り出した。古の文明が遺したという「言葉の重みを量る天秤」。俺の能力を視覚化してくれる、唯一無二の相棒だ。
第二章 忘れ物の森
エリアの案内で向かったのは、旧市街の一角、通称「忘れ物の森」と呼ばれる場所だった。そこは、打ち捨てられた建物や錆びた街灯の間に、無数の忘れ物が雨後の筍のように出現する地区だった。
一歩足を踏み入れると、空気が変わる。忘れられた恋の歌が、どこからともなく囁くように流れ、存在しないはずの国の国旗が、風もないのにひっそりとはためいている。地面には、誰かが忘れた初恋の甘酸っぱさが結晶化した、淡いピンク色の飴玉が転がっていた。エリアはそれらを避けながら、必死に何かを探している。
「弟が、忘れてしまった蝶を探しているんです。小さい頃、二人で追いかけた、瑠璃色の羽を持つ蝶の思い出を……」
彼女の瞳には、弟の記憶が消えてしまうことへの恐怖が色濃く浮かんでいた。その恐怖が、俺の肌をひりつかせる。忘れ物は、時として美しい。だが、それに触れた者は、自らの記憶の一部を代償として奪われる。忘却は忘却を呼ぶ、悪性の連鎖だ。
俺は天秤をそっと掲げた。街に渦巻く人々の不安や諦めの言葉が、見えない塵となって皿に降り積もり、天秤は鈍い音を立ててギリギリと揺れ動いていた。
第三章 天秤の共鳴
調査を進めるうち、奇妙な事実に気づいた。忘れ物の出現場所はランダムなはずなのに、どれもがこの森の中心にある巨大な鐘楼跡を、まるで惑星のように周回している。その鐘楼には、街の創世記に一度だけ鳴らされ、その後「始まりの音」を忘れ去られたという、巨大な「沈黙の鐘」の忘れ物があった。
人々はそれを恐れ、誰も近づこうとしない。鐘の周りだけ、奇妙な静寂が漂っていた。俺たちが鐘楼の前に立った瞬間、手にしていた天秤が、これまで経験したことのないほど激しく共鳴を始めた。
ガチリ、と硬質な音が響き、天秤の皿が激しく上下する。
「リヒトさん……?」
不安げなエリアの声が遠くに聞こえる。俺の意識は、天秤と鐘が織りなす不可視の力線に囚われていた。この鐘が、すべての中心だ。忘却の連鎖を生み出す、震源地。俺は覚悟を決め、鐘に向かって一歩、足を踏み出した。その表面に天秤をかざす。何が起きるかは分からない。だが、ここで退くわけにはいかなかった。
第四章 沈黙の質量
天秤が、鐘に触れる寸前。世界から音が消えた。
次の瞬間、天秤の皿の上で、淡い光が揺らめき始めた。それは水面のように広がり、幻影を映し出す。だが、映し出されたのは鐘の過去ではない。見知らぬ風景、知らない人々――いや、違う。これは、俺が「忘れていた」記憶だった。
俺は、この世界の記憶が失われないように監視する、一種の「観測者」だった。そして、この天秤は、俺自身の忘却された記憶の欠片から作られた、俺自身の一部だったのだ。俺の能力は、言葉の真実を見抜く力などではなかった。それは、世界の記憶を少しずつ吸い上げ、己の中に溜め込む、呪いにも似た力だった。
俺が言葉の重みを感じ、真実を暴くたびに、世界の記憶は微量ずつ俺に吸収されていた。そして、俺の許容量を超えた記憶が、「忘れ物」として世界に排出されていたのだ。
街に忘れ物が溢れ、人々が記憶を失い始めたのは、俺の能力が暴走を始めたからだった。俺の存在そのものが、世界を忘却へと誘うトリガーだったのだ。俺が真実を求めれば求めるほど、世界は記憶を失っていく。沈黙の鐘は、その巨大な質量で、暴走する俺の力をかろうじて抑え込んでいた最後の砦だった。だが、それも限界に近い。
足元が崩れ落ちるような感覚。俺が、この悲劇の元凶だった。
第五章 最後の言葉
絶望が、冷たい鉄塊となって俺の全身を押し潰す。俺がエリアの依頼を受けたことさえ、忘却を加速させる引き金になっていたのだ。
「……どうして」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。その時、エリアが俺の腕をそっと掴んだ。彼女の指先は震えていたが、その瞳はまっすぐに俺を射抜いていた。
「あなたがいたから」
彼女の言葉は、羽のように軽かった。
「あなたが話を聞いてくれたから、私は弟の思い出を、必死に繋ぎ止めていられた。あなたが弟を救おうとしてくれた、その真実だけは、私の中から消えたりしない」
その言葉は、どんな真実よりも軽く、どんな慰めよりも温かかった。鉛の絶望に沈んでいた俺の心を、ふわりと浮かび上がらせる。
そうか。まだ、できることがある。
俺は天秤を固く握りしめた。この連鎖を断ち切る方法は、ただ一つ。忘却の源である俺自身が、この世界から「忘れられる」ことだ。俺という存在の記憶、その重すぎる質量を、世界から完全に切り離す。それは、俺が救ったという事実さえも、誰の記憶にも残らないことを意味する。
「エリア。君の弟は、きっと元に戻る」
俺は最後の嘘をついた。その言葉は、悲しいほどに重かった。
第六章 羽になった名前
俺は天秤を、自らの胸に押し当てた。これは、俺の記憶から生まれた道具。ならば、俺自身の記憶を量り、世界から消し去ることもできるはずだ。
「我が名はリヒト。世界を忘却から守るため、我が存在の全てを――」
詠唱と共に、天秤がまばゆい光を放つ。俺の身体が、足元から少しずつ透き明んでいく。エリアの顔が、驚きと悲しみに歪むのが見えた。彼女の唇が何かを形作るが、もう俺にはその言葉の重みを感じることはできない。
ありがとう、エリア。君の言葉は、最後まで軽やかで、救いだった。
意識が遠のく中で、俺は最後に、空から舞い落ちる一枚の真っ白な羽を見た。
…
エリアは、なぜ自分が鐘楼の前に立っているのか、分からなかった。ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような、それでいて温かい何かが残っている不思議な感覚があった。
街からは、あれほど溢れていた「忘れ物」が嘘のように消え、人々は失われた記憶を少しずつ取り戻し始めていた。弟も、笑顔で彼女の名前を呼んでくれた。世界は救われたのだ。誰も、その理由を知らないままに。
エリアはふと空を見上げた。澄み切った青空から、一枚の、名前も書かれていない真っ白な羽が、ひらひらと舞い落ちてくる。彼女は無意識にそれを手のひらで受け止めた。
それは、誰かが遺した、世界で最も軽くて、最も重い「忘れ物」だった。