黒曜の残影、深淵の歌
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黒曜の残影、深淵の歌

第一章 腐敗する記憶、謳う亡者

雨がアスファルトを叩く音が、私の耳鳴りと不協和音を奏でていた。

黄色い規制線の向こう側、濡れた路面にその男は立っていた。三年前に集団死を遂げたカルト教団『深淵の囁き』の信者。埋葬されたはずの死体が、腐敗も死後硬直もなく、ただ虚ろな瞳で鉛色の空を仰いでいる。

「時永さん、お願いします。……彼、まるで生きているみたいで」

若手刑事の震える声が遠のく。私は深く息を吐き、革手袋を引っこ抜いた。

雨に濡れた男の肩に、素手を這わせる。

刹那、脳髄を直接杭で打たれたような激痛が走った。

「ぐッ、あ……!」

鼻の奥で何かが弾け、熱い鉄の味が口内に広がる。鼻血だ。ボタボタと滴る鮮血が、男の白いシャツを汚していく。

あり得ない。

本来、死後三年も経過した遺体の記憶など、ノイズ交じりの灰色の霧に過ぎないはずだ。だというのに、私の脳裏に焼き付いたのは、網膜を焦がすほど鮮明な極彩色の映像だった。

『……蒔け、蒔け。黒き石は苗床……』

男の視界ではない。これは男の形をした受信機が捉えている、”今、そこにある”信号だ。男の青白い唇が、パクパクと金魚のように開閉する。

「……痛くない、痛くないよ。みんな、溶けて、混ざって、トロトロに……」

男の足元に散らばる黒い砂礫――黒曜石の粉末が、雨水の中で奇妙な幾何学模様を描いて蠢いた。

私は堪らず手を離し、泥水の中に膝をついた。激しい嘔吐感。胃の中身をぶちまけながら、私は戦慄していた。

これは過去の残響ではない。おぞましい儀式はまだ終わっておらず、この死体はただの末端のスピーカーに過ぎないのだ。

第二章 共鳴する黒曜石

事務所のデスクには、現場から回収された掌サイズの黒曜石の欠片が置かれている。『深淵の瞳』と呼ばれるそれは、ただの石ではなかった。

照明の光を全て吸い込むような、底のない黒。私は意を決して指先を伸ばす。

触れた瞬間、皮膚が「吸いつかれた」。

冷たいはずの鉱物が、灼熱した鉄のように熱く、同時に絶対零度のように冷たい。指の指紋が溶かされ、石の表面と一体化していくような生理的な嫌悪感が背筋を駆け上がる。

視界が反転し、事務所の風景が弾け飛ぶ。

「……にい、さん」

心臓が早鐘を打った。

吐き気を催すような亡者たちのうめき声の底から、凛とした、そして甘えるような響きが鼓膜を震わせたのだ。

忘れるはずがない。十年前に神隠しに遭った双子の妹、ユナの声。

脳裏にフラッシュバックが炸裂する。

蝉時雨。神社の縁側。私の小指をぎゅっと握る、汗ばんだ小さな手の感触。「これ内緒ね」と笑った時の、日向の匂いと、甘い砂糖菓子の香り。二人だけの秘密の合図。

――なぜ、お前の気配がここにある?

私はこれまで何千もの死者の記憶を覗き、ユナの痕跡を探し続けてきた。だが、どれだけ探しても見つからなかった理由が、今、残酷な形で突きつけられる。

彼女は死んでいなかった。いや、死よりも深く、惨い場所にいたのだ。

『こっちにおいでよ。ふわふわして、あったかいの』

石を通して流れ込むのは、無邪気ゆえに凶悪な、純度百パーセントの未練。

教団の集団自殺は、彼女という「炉」に火を点けるための薪だったのだ。膨大な魂を燃料に、私の妹は今、この世ならざる何かへ変貌しようとしている。

第三章 終焉の祭壇

山中の廃村、かつて教団が拠とした礼拝堂の地下空洞は、羊水のような生温かい空気に満ちていた。

最奥に鎮座するのは、天井まで届く巨大な黒曜石の柱。その表面は鏡のように磨き上げられ、ぼんやりと青白い燐光を放っている。

その鏡面の中に、”彼女”はいた。

肉体の輪郭はすでに崩れ、黒い石と融合している。けれど、その瞳だけは、幼い日のまま私を見つめていた。

「遅かったね、お兄ちゃん」

頭蓋骨の内側から直接響く声。鼓膜を通さないその声は、甘い毒のように理性を溶かしていく。

「探したぞ、ユナ。……こんな、こんな姿になって」

「かわいそうなお兄ちゃん。まだそんな痛い体に入っているの?」

ユナが笑う。黒曜石の表面が水飴のように波打ち、私に向かって触手のように伸びてくる。そこに悪意はない。あるのは、幼児が蟻をすり潰す時のような、残酷な純真さだけだ。

「あのね、わかったの。体があるから痛いんだよ。心があるから寂しいんだよ。だからね、みんな私と混ざればいいの」

彼女は、人類を進化させようなどという高尚な理想を語りはしなかった。ただ、「痛いのが嫌だ」「寂しいのが嫌だ」という原初的な感情だけで、世界を塗り潰そうとしている。

「さあ、脱いじゃおう? そんな重たい肉の服。私の中で、ずーっと一緒に遊ぼう?」

最終章 兄妹の決断

彼女の誘いは、抗いがたい引力を持っていた。

妹と一つになれば、私は孤独から解放される。亡者の記憶に苛まれることも、喪失感に震える夜も二度と来ない。それは、至上の安らぎだ。

私の右腕の血管が、黒く変色し始めていた。石の侵食が始まっている。妹の「愛」が、私を喰らい尽くそうとしているのだ。

「ミナト、大好き。愛してる……」

「ああ、僕も愛しているよ、ユナ。誰よりも」

私は懐から、あの『深淵の瞳』の欠片を取り出した。この欠片は、彼女とリンクする受信機であり、同時に唯一の、逆流を引き起こすための毒針でもある。

「だからこそ――お前を、眠らせてやる」

私は能力(チカラ)を限界まで暴走させた。脳が沸騰するような感覚と共に、自身の意識を鋭利な刃へと研ぎ澄ます。

妹を救う方法は一つしかない。彼女の未練ごと、その存在を「解体」すること。

「え……? お兄ちゃん、なに?」

「地獄へ行こう、ユナ。僕がずっと手を握っていてやるから」

私は黒く輝く切っ先を、迷うことなく自身の心臓へと突き立てた。

ゴリ、と肋骨が砕ける感触。

肉が裂け、心筋が断裂する生々しい痛みが、私の意識を一瞬で白濁させる。

欠片を通じて、私の死と、暴走した記憶の濁流がユナの核へと逆流した。

『いや! 熱い! やだ、やだぁあ!』

妹の無邪気な声が、断末魔の絶叫へと変わる。

黒曜石の柱に亀裂が走り、まばゆい光と共に崩壊していく。私の視界もまた、急速に暗転していった。

薄れゆく意識の最果てで、最後に見たのは、夏の日差しの中で手を振る、五体満足な彼女の幻影だったろうか。

(ごめんね、ユナ。かくれんぼは、もうおしまいだ)

深淵の歌が止む。

残されたのは、静寂と、二つの魂の残骸だけだった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
兄・時永の原動力は、行方不明の妹ユナへの執着と、彼女を救うという兄としての責任感。亡者の記憶を辿る苦痛に耐え、妹への究極の愛と自己犠牲によって、共に「解体」される道を選ぶ。ユナは「痛みや寂しさ」から解放されたいという純粋かつ根源的な欲求から、世界を「溶かし混ざる」ことを望む。その無邪気な願いが、恐ろしい変貌と破壊衝動へと昇華されている。

**伏線の解説**
『深淵の囁き』の集団死は、妹ユナを黒曜石の「炉」として覚醒させるための「薪」であり、序盤の亡者はその「スピーカー」に過ぎない。第一章の足元の黒曜石の粉末、第二章の『深淵の瞳』の欠片は、ユナの変貌と、兄妹を繋ぎ、最終的に破滅へと導く媒体であることを示唆。時永が自らの能力で自身の心臓を突き刺すことで「逆流」させる結末は、石の持つ両面性を巧みに利用した構成。

**テーマ**
本作は「究極の兄妹愛と自己犠牲」を核に、存在の定義を問いかける。愛する者との共存が、個の消滅と集合意識への変質という代償を伴う。「痛みからの解放」という純粋な願いが、無邪気ゆえの残酷な破壊衝動へと至る倫理的なジレンマを描き出す。そして、真の救済とは何か、という哲学的な問いを読者に投げかける。
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