残香のアリア

残香のアリア

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第一章 失われた庭

桐島朔(きりしま さく)の世界から、香りが消えて五年になる。かつて天才調香師と謳われた彼の鼻は、今やただの呼吸器官でしかなかった。彼は古いインクと劣化した紙の匂いが満ちるはずの古書修復室で、無臭の静寂に身を沈めていた。ピンセットで脆くなったページの端を慎重につまみ、和紙で補強する。その指先の集中だけが、彼を現実につなぎとめる錨だった。

その静寂を破ったのは、無遠慮なドアベルの音だった。現れたのは、くたびれたトレンチコートがトレードマークの刑事、橘だった。朔の数少ない、過去を知る人間だ。

「また厄介な事件か」

朔は顔も上げずに言った。声は錆びた鉄のように乾いていた。

「お前の鼻が要るんだ、朔」

橘の言葉に、朔の指がぴくりと震えた。その震えを隠すように、彼はゆっくりと顔を上げる。

「知ってるだろう。俺の庭はもう枯れた。そこには何も咲かない」

「それでもだ」

橘は一枚のファイルをテーブルに滑らせた。連続殺人事件。三人の被害者。そして、それぞれの現場には奇妙な共通点があった。物的証拠は皆無。だが、密室となった現場には、言いようのないほど複雑で、かつて誰も嗅いだことのない「香り」が満ちていたという。

「香水じゃない。もっと…儀式的な、意思のある香りだ。鑑識の連中がガスクロマトグラフィーで分析したが、成分が複雑すぎて正体がつかめん。数百種類の天然香料が、ありえないバランスで組み合わさっている」

橘は一枚の分析レポートを朔の前に置いた。そこには膨大な数の化学式と香料の名前が羅列されている。ベルガモット、サンダルウッドといった馴染み深い名前の中に、今はもう採取不可能なはずの『マウンテン・リリー』や、特定の条件下でしか生まれないはずの『アンバーグリス・ネブラ』といった幻の香料の名が混じっていた。

「鼻は利かない。役に立てん」

朔は冷たく突き放した。だが、その目はレポートに釘付けになっていた。彼の脳が、失われた嗅覚を補うように、リスト上の名前から香りの分子構造を、その響きを、調和を、そして不協和音を組み立て始める。これは単なる香料の寄せ集めではない。ひとつの思想、ひとつの物語を奏でる、香りの交響曲だ。そして、その旋律に、朔は聞き覚えがあった。いや、嗅ぎ覚えがあった。

リストの片隅に、小さな文字で記された調合の一部。『イリスの根茎、夜明け前のジャスミン、そして涙の塩の結晶』。

朔の心臓が凍りついた。それは、彼がかつて愛した女性、火事で失った恋人の美緒のためだけに作った、秘密の香りのノートに記した一節だった。世界で二人しか知らないはずの、愛の詩。

なぜ、それが殺人現場に香っている?

「……この事件、俺がやる」

五年ぶりに、朔の枯れた庭に、血の匂いを纏った一輪の黒い薔薇が芽吹いた。

第二章 頭蓋内のアトリエ

朔の捜査は、常軌を逸していた。彼は現場には赴かない。ただ、警察から送られてくる香りの成分分析レポートだけを欲した。古書修復室の静寂の中、彼は目を閉じ、膨大なリストと格闘する。それは、楽譜だけを頼りに未知の交響曲を頭の中で鳴らすような、狂気的な作業だった。

第一の被害者は、美術評論家。現場に残された香りは、トップノートに鋭い金属の冷たさを感じさせ、ミドルには古紙とインク、そしてラストには微かに腐敗した花の甘さが残る設計だった。朔はそれを『偽りの権威』と名付けた。評論家が生前、多くの若い才能を偽りの言葉で断罪してきたことへの、皮肉に満ちた鎮魂歌(レクイエム)だった。

第二の被害者は、不動産開発業者。彼のオフィスに満ちていたのは、濡れた土とコンクリートの無機質な匂い、そして引き抜かれた若木の根の悲鳴のような青臭い香り。最後に、焼けた木の焦燥感が漂う。朔は犯人を『アルケミスト』と呼ぶことにした。ただの物質を、強烈な物語と感情を持つ黄金の香りへと変える、恐るべき錬金術師。アルケミストは、被害者の人生そのものを蒸留し、その罪を香りで告発しているのだ。

「犯人は、香りの天才だ」朔は電話口の橘に告げた。「それも、俺の知らない種類の。俺の作る香りが光を求める詩だとしたら、奴の香りは闇を抱きしめる祈りだ」

朔は、アルケミストの才能に嫉妬していた。そして同時に、恐怖していた。香りは記憶を呼び覚ます。成分リストを追うたびに、朔の脳裏には、嗅覚と共に封印したはずの過去が蘇る。美緒と笑い合ったアトリエ。彼女が愛した白い薔薇の香り。そして、すべてを焼き尽くした炎の熱と、煙の味。あの事故で美緒を救えなかった無力感と罪悪感が、彼の鼻を塞いでいるのだ。

「何か、個人的な繋がりはないのか? 被害者たちと、お前や……美緒さんとの間に」

橘の問いに、朔は首を横に振ることしかできなかった。被害者たちに面識はない。だが、アルケミストは明らかに朔と美緒の秘密を知っている。まるで、失われた過去から送られてくる挑戦状のようだった。

そして、第三の事件が起こる。被害者は、消防士だった。五年前に朔と美緒が巻き込まれた火災で、現場の指揮を執っていた男だ。

橘から送られてきたレポートを見て、朔は息を呑んだ。

そこに記されていたのは、これまでの香りとは全く異質だった。煙の苦々しさ、恐怖に歪んだ汗の塩辛さ、そして……絶望の淵で微かに香る、白い薔薇の甘さ。

その香りの構成は、あの日の記憶そのものだった。朔が嗅覚を失う直前に感じた、最後の香り。アルケミストは、朔の最も深いトラウマを、完璧に再現してみせたのだ。

「奴は俺を挑発している」朔は呟いた。「俺の記憶の庭に、土足で踏み込んできている」

もはやこれは、ただの捜査協力ではない。朔自身の魂を賭けた、見えざる敵との対話だった。

第三章 追憶のレクイエム

第四の事件は、起こらなかった。代わりに、朔の元に一通の封筒が届いた。差出人の名はない。中には、一枚のレポート用紙だけが入っていた。それは警察の分析レポートではなく、手書きの、美しいカリグラフィーで書かれた香りの処方箋だった。

タイトルには、こう記されていた。

『追憶のレクイエム』

朔は、その文字を見た瞬間、呼吸を忘れた。それは、彼が美緒のために作り、彼女にだけ捧げた、未完成の香りの名前だった。生前の美緒は言っていた。「この香りが完成したら、私たちの愛も完成するのね」と。だが、その完成を見ることなく、彼女はこの世を去った。

処方箋は、朔の記憶にある未完成のノートを完璧になぞり、そして、その先に続いていた。朔が思い描くことすらできなかった、完璧な結びの香り。失われたはずの愛の詩が、今、目の前で完結している。

その処方箋を知っているのは、世界でただ二人。自分と、死んだはずの美緒だけだ。

思考が渦を巻く。美緒は生きているのか? いや、そんなはずはない。だとしたら、誰が? あの日、燃え盛るアトリエには、自分と美緒以外に誰かいたというのか?

朔の脳裏に、ひとつの可能性が稲妻のように突き刺さった。それはあまりに突飛で、信じがたい仮説だった。だが、それ以外に、この香りの謎を説明できる答えはなかった。

彼は震える手で橘に電話をかけた。

「橘さん、犯人がわかった。だが、信じてもらえないだろう。俺は一人で行く」

「待て、朔! どこへ行くんだ!」

電話を切ると、朔はコートを羽織った。向かう場所は決まっている。美緒と二人で使っていた、今は廃墟となっている郊外の温室アトリエ。もし、仮説が正しければ、アルケミストはそこにいる。

車を走らせながら、朔は五年前の記憶の断片を必死につなぎ合わせていた。炎、煙、美緒の悲鳴。そして、もうひとつ。あの時、アトリエの隅で、姉の影に隠れるようにして、いつも静かに本を読んでいた少女の姿があった。美緒の、双子の妹。誰もが、香りの才能を持つ美緒ばかりに目を向け、その存在を忘れがちだった、もう一人の少女。

廃墟と化した温室のガラスは所々割れ、蔦が絡みついている。だが、その隙間から、紫色の、妖しい光が漏れていた。朔は意を決して、錆びた扉に手をかけた。

第四章 赦しの香り

温室の中は、異様な光景だった。無数のアロマランプが紫煙を立ち上らせ、中央には、ひとりの女性が静かに座っていた。美緒と瓜二つの顔。だが、その瞳に宿る光は、太陽のような美緒とは違う、月のような静かな狂気を湛えていた。美緒の妹、澪(みお)だった。

「やっと来てくれたのね、朔さん」

彼女の声は、澄んだ鈴の音のようだった。

「あなたが、アルケミストか」

「姉さんが、そう名付けたのでしょう?」

澪は静かに立ち上がった。彼女の周りには、数えきれないほどの小瓶が並び、まるで祭壇のようだった。

「あの日、火の中で、私は姉さんを見殺しにした」

澪の告白は、あまりに淡々としていた。

「煙に巻かれて、私は朔さんを助けるので精一杯だった。本当は、姉さんの手を掴めたはずなのに。怖くて、できなかった。ずっと、天才の姉の影だった私には、姉を救う資格なんてないと思ってしまった」

彼女は、姉の死の罪悪感に苛まれ、自らを罰するように、香りの世界に没頭した。姉が残したノートを読み解き、その才能を自分のものにしようとした。いや、姉そのものになろうとしたのだ。被害者たちは、姉の才能を正当に評価しなかった評論家、強引な開発でアトリエの環境を脅かした業者、そして、判断を誤り救助を遅らせた消防士。全ては、澪の歪んだ愛が、姉のために捧げた復讐の儀式だった。

「この『追憶のレクイエム』を完成させれば、姉さんは私の中で永遠に生きられる。そして、あなたにこの香りを嗅がせれば、あなたも真実を思い出す。私を、裁いてくれるはずだから」

澪が最後のランプに火を灯すと、温室全体が『追憶のレクイエム』の香りに満たされた。それは、言葉にできないほど、美しく、そして悲しい香りだった。

その香りの粒子が、朔の鼻腔に流れ込んだ瞬間、奇跡が起こった。

まるで硬く閉ざされていた扉が、ゆっくりと開くように。五年ぶりに、朔の世界に「香り」が戻ってきたのだ。

最初に感じたのは、澪の流す涙の塩辛い香り。次に、彼女の後悔の念が凝縮したようなイリスの深い香り。そして、その奥に、確かに存在する、美緒の太陽のような笑顔を思わせる、ジャスミンの甘い香り。

それは、喪失、罪、そして愛が、奇跡的なバランスで調和した、究極の香りだった。それは「赦し」の香りでもあった。美緒が、妹の罪を、そして朔の苦しみを、天上で赦しているかのような。

嗅覚を取り戻した朔は、ただ、涙を流していた。

澪を告発することも、慰めることもできなかった。ただ、彼女が作り上げた香りが、あまりにも完璧で、あまりにも悲しい答えを彼に示していたからだ。やがて、サイレンの音が近づき、澪は静かにその身を橘に委ねた。

事件は終わった。朔の嗅覚は、完全に戻った。彼は再び、調香師として歩み始める。だが、彼が作る香りは、以前の華やかで絶対的なものではなかった。それは、喪失の痛みを知り、人の心の翳りを理解し、それでもなお残る微かな希望を表現するような、深く、優しい香りだった。

彼はもう、かつての天才ではないのかもしれない。しかし、初めて「人の心に寄り添う香り」を作れるようになったのだ。

アトリエの窓辺で、朔は新しい香水の試作を始めていた。澪のために作る、『赦しの香り』。それが彼の新しい人生の、始まりの香りだった。

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