第一章 遡光の欠片
漣(レン)の指先が、鈍色の岩肌に触れた。ひんやりとした感触が、革の手袋越しにも伝わってくる。沈黙の谷。地質学的にはありえないほど、あらゆる時代の地層が歪にねじれ、むき出しになった場所。ここは、我々「歴史採掘師」にとって、聖地であり、同時に墓場でもあった。
父がこの谷で消息を絶ってから、十年が経つ。父は最高の採掘師だった。彼が追い求めていたのは、伝説の「創世の時砂」。世界の始まりの瞬間を内包すると言われる、究極の歴史の結晶だ。俺は、父の跡を継ぎ、その夢を引き継いだと信じていた。
「時砂(じさ)」――それは、過去の出来事が時間の圧力によって結晶化した奇跡の鉱物。掌に乗せ、意識を集中すれば、時砂が生まれた瞬間の光景が、音や匂いと共に脳内へ流れ込んでくる。古代王朝の戴冠式、名もなき職人が工房で汗を流す一日、恋人たちのささやかな逢瀬。人々は時砂に歴史の真実と娯楽を求め、その価値は純度、すなわち古さによって天文学的な額に跳ね上がった。俺の仕事は、その価値ある過去を、地層の奥深くから掘り起こすことだ。
ピッケルが硬い層に当たって、甲高い音を立てた。慎重に、岩盤を削っていく。狙うのは中生代の、恐竜が闊歩していた時代の地層だ。ここの時砂は、力強い生命の息吹が感じられるため、好事家の間で人気が高い。
数時間後、俺の額を汗が伝う頃、ついにそれは姿を現した。黒曜石のような滑らかな断面に埋め込まれた、琥珀色の時砂。大きさは親指の頭ほど。完璧だ。これ一つで、数ヶ月は暮らしていけるだろう。
だが、その時砂のすぐ下に、俺は奇妙なものを見つけた。
それは、時砂と呼ぶにはあまりに異質だった。オパールのように淡く、しかし内側から脈打つように明滅する、青白い光の粒。それは地層に埋まっているというより、まるで空間の裂け目から滲み出しているかのようだった。こんな時砂は、どんな文献でも見たことがない。
好奇心は、採掘師にとって命取りの病だ。父もそうだったのかもしれない。俺は忠告を忘れ、そっと手袋を外し、素肌の指先でその青白い光に触れた。
瞬間、世界が反転した。
轟音。ガラスの割れるような悲鳴。視界を埋め尽くしたのは、天を衝くほどのガラスと鋼鉄の塔が、まるで枯れ木のようにへし折れていく光景だった。空を飛ぶ鉄の塊、見たこともない服装の人々の絶叫、そして焦げ付くような匂い。それは、俺が知るどんな時代の歴史とも似ていなかった。むしろ、それは――未来?
意識が引き戻された時、俺は膝から崩れ落ち、激しく喘いでいた。心臓が肋骨を突き破らんばかりに鼓動している。あれはなんだ? 未来の時砂など、存在するはずがない。歴史とは、過ぎ去った過去の堆積物のはずだ。
俺の掌には、先ほどの青白い光の粒が、まるで涙の化石のように静かに横たわっていた。それは、ただ美しいだけの鉱物ではなかった。俺の常識を、この世界の根幹を揺るがす、不吉な輝きを放っていた。父の失踪と、この奇妙な時砂は、どこかで繋がっているのではないか。背筋を、冷たい予感が走り抜けた。
第二章 忘れられた囁き
俺は谷を下り、麓の町にある師匠の工房の扉を叩いた。師匠の名はトキ。皺だらけの顔に、数百年分の地層図を刻み込んだような老婆だ。父の唯一の友人で、俺に採掘の全てを教えてくれた人物でもある。
「……馬鹿者」
俺が持ち帰った青白い時砂をルーペで覗き込み、トキは吐き捨てるように言った。その声には、普段の厳しさとは違う、確かな怯えが滲んでいた。
「それは『忘却の時砂』じゃ。触れてはならん。関わってはならん。すぐに谷へ返しに行きなさい」
「忘却の時砂? 聞いたことがない」
「当たり前じゃ。これは市場に出回る代物じゃない。歴史を『記録』するのではなく、人々の記憶から特定の事象を『消し去る』呪いの石じゃよ。お前の親父も……あいつもこれに取り憑かれて、帰ってこなかった」
父の名が出たことで、俺の心に火がついた。
「親父はこの時砂の何を知っていたんだ? なぜ、あんたはそれを隠していた?」
トキは深くため息をつき、顔を背けた。「お前を守るためじゃ。真実は、知らん方が幸せなこともある」。彼女はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
納得できない俺は、時砂が取引される裏市場へと足を運んだ。正規の市場が光だとしたら、ここは影。盗掘品、禁制品、曰く付きの時砂が、欲望の匂いと共に渦巻いている場所だ。情報屋のラットに例の時砂を見せると、彼の卑しい目が大きく見開かれた。
「旦那、そいつはヤベェぜ。『忘却の時砂』だ。巷じゃ都市伝説扱いだが、実在したとはな」
ラットは声を潜め、語り始めた。数世代に一度、大規模な災害や戦争が起こる直前に、この時砂が世界のどこかに出現するという噂。そして、この時砂を大量に採掘すると、人々はやがて来るはずだった悲劇を前触れもなく忘れ、何の備えもしないまま、それに飲み込まれていくのだと。
「まるで、未来の記憶を喰らってるみてぇだろ?」ラットは気味悪そうに笑った。「あんたの親父さん、十年前にこいつの出所を探してたぜ。『悲劇の連鎖を断ち切る』とか何とか、ブツブツ言いながらな」
悲劇の連鎖を断ち切る。父の言葉が、頭の中で反響した。父は「創世の時砂」という夢を追っていたのではなかったのか? 彼は、一体何と戦っていたんだ?
工房に戻ると、トキの姿はなかった。机の上に、古びた一冊の手記と、一枚の書き置きが残されているだけだった。
『レンへ。お前が真実を知る覚悟があるというのなら、これを読みなさい。そして、父のようにはなるな』
それは、父の筆跡だった。震える手で、俺は革の表紙を開いた。埃っぽい紙の匂いが、遠い日の父の記憶を呼び覚ます。そこに綴られていたのは、俺が信じてきた世界の全てを、根底から覆すための、絶望的な真実だった。
第三章 時砂の真実
父の手記は、穏やかな文章で始まっていた。若き日の採掘の喜び、トキとの出会い、そして俺が生まれた日の感動。ページをめくる指が、優しかった父の声を思い出させる。だが、物語が中盤に差し掛かると、その筆致は次第に切迫感を帯びていった。
『我々が掘り起こしている「時砂」とは、一体何なのだろうか』
その一文から、父の探求は始まった。彼はある時、極めて個人的で、誰にも語ったことのない幼少期の記憶と全く同じ光景を持つ時砂を発見したという。偶然ではありえない。彼は仮説を立てた。時砂は、過去の出来事の化石などではないのではないか、と。
手記には、父が費やしたであろう長年の研究の成果が、狂気じみた情熱と共に記されていた。彼は物理学者や脳科学者を訪ね、古文書を漁り、禁断の実験を繰り返した。そして、一つの結論にたどり着く。
『時砂は、過去の記録ではない。それは、**今を生きる人々の「記憶」そのものが、未知の法則によって地中で結晶化したものだ**』
俺は息を呑んだ。頭を殴られたような衝撃だった。時砂産業の繁栄。歴史研究の飛躍的な進歩。その全てが、人々から知らぬ間に記憶を抜き取り、商品として消費する、巨大な略奪システムの上に成り立っていたというのか。
我々が古代王朝の壮麗な儀式の時砂を掘り起こすたび、誰かの脳裏から、先祖代々受け継がれてきたはずの誇らしい伝承が消え去っていく。名もなき職人の一日の時砂が市場に並ぶたび、どこかの町から、伝統工芸の技を記憶する最後の人間がいなくなる。我々は歴史を掘り起こしていたのではない。未来へ繋がるはずだった記憶を、根こそぎ奪っていたのだ。
そして、手記は核心に触れていた。『忘却の時砂』についてだ。
『あれは、未来の記憶だ。より正確に言えば、「起こりうる悲劇に対する、人類の集合的な予感や不安」が結晶化したものだ。動物が天災を予知するように、我々の魂の奥底にも、未来の危機を察知する機能が備わっている。忘却の時砂は、その警鐘なのだ』
父は突き止めた。この時砂を採掘することは、人々の心から警報装置を取り去ることに等しい。人々は来るべき悲劇を忘れ、無防備なまま滅びの道を歩むことになる。そして、十年前に父が感知した危機こそが、俺が垣間見た、あの高層ビルが崩壊する未来のビジョンだったのだ。
『私は行かねばならない。沈黙の谷の最深部、全ての時砂が生まれる源泉へ。忘却の時砂がこれ以上生まれないよう、その源泉を封印するために。レン、許してくれ。お前に残してやれるのは、輝かしい歴史の結晶ではない。ただ、お前が生きる未来を守りたいという、父親としての願いだけだ』
手記はそこで終わっていた。
俺は呆然と椅子に座り込んでいた。誇りだった仕事は、人々の魂を削る冒涜的な行為だった。探し求めていた父の夢は、伝説の時砂ではなく、息子が生きる未来を守るという、あまりに切実な願いだった。
ポケットの中で、あの青白い時砂が、冷たく、そして重く感じられた。それは呪いの石などではなかった。未来からの、悲痛なSOSだったのだ。俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ち、そして、新しい何かが静かに芽生え始めていた。
第四章 記憶の継人
翌日、俺は再び沈黙の谷にいた。だが、背負うザイルの重さも、手に持ったピッケルの冷たさも、昨日とは全く違う意味を持っていた。もう、過去を掘り起こすために来たのではない。父が守ろうとした未来を、今度こそ俺が守るために来たのだ。
トキが見送ってくれた。彼女は何も言わず、ただ、俺が幼い頃に使っていた、傷だらけの水筒を手渡してくれただけだった。その温もりが、覚悟を鈍らせそうになる心を支えてくれた。
父の手記にあった地図を頼りに、谷の最深部を目指す。そこは、採掘師たちが「龍の喉笛」と呼んで決して近づかない、垂直に切り立った大地の裂け目だった。俺はザイルを岩に打ち込み、深淵へと身を投じた。
何百メートルも下降しただろうか。空気は湿り気を帯び、壁面には苔と共に、様々な時代の時砂が無数に、星々のようにきらめいていた。まるで、人類の記憶の銀河だ。かつての俺なら狂喜乱舞しただろう光景も、今はただ、奪われた魂たちの墓標のように見えて、胸が痛んだ。
裂け目の底に、巨大な洞窟が口を開けていた。その中心に、それはあった。
巨大な水晶の母体のような、脈動する光の塊。全ての時砂の源泉。そこから、まるで呼吸するように、色とりどりの時砂が生まれ、周囲の岩盤に吸い込まれていく。そして、その光の奔流の中に、ひときわ強く明滅する青白い光――『忘却の時砂』が、今まさに生まれようとしていた。
俺は爆薬を設置するために、源泉に近づいた。その時、足元で何かが光るのに気づいた。
それは、一つの小さな時砂だった。くすんだ、何の価値もなさそうな石ころだ。だが、俺は吸い寄せられるようにそれを拾い上げ、掌に乗せた。
流れ込んできたのは、壮大な歴史の光景ではなかった。
――そこには、見慣れた工房があった。幼い俺が、父の膝の上で、採掘の物語を聞かせてもらっている。父の無骨で大きな手が、俺の頭を優しく撫でている。
『レン、歴史はな、ただの石ころじゃないんだ。誰かが生きて、笑って、泣いた証なんだ。その重みを、決して忘れるなよ』
父の声が、直接心に響いた。それは、父が失踪する直前、この場所で、俺を想いながら生み出した、最後の記憶の結晶だったのだ。
涙が、頬を伝って時砂の上に落ちた。俺は、父の覚悟の本当の意味を、ようやく理解した。
爆薬をセットし、導火線に火を点ける。もう迷いはなかった。歴史採掘師としての俺は、ここで死ぬ。だが、それでいい。
轟音と共に、洞窟が激しく揺れた。時砂の源泉は巨大な岩盤の下敷きになり、その脈動する光は、永遠の沈黙に閉ざされた。俺は、舞い上がる粉塵の中で、父の時砂を強く握りしめた。
世界は、すぐには変わらないだろう。人々は地中に眠る時砂を求め続け、その価値もすぐには失われないはずだ。だが、もう新たな時砂が生まれることはない。人々は、自分たちの記憶を奪われることなく、未来へ繋いでいくことができる。そして、いつか来る悲劇の予兆も、人々の心から消えることはないだろう。
数年後。俺は、町の広場の片隅で、子供たちに囲まれていた。
「ねえ、レン! 今日はどんなお話?」
俺はピッケルを置き、語り部になっていた。時砂に頼るのではない。俺自身の言葉で、父から聞いた物語、トキから教わった古い伝承、そして、俺自身が谷で感じた、名もなき人々の記憶の重みを、子供たちに語り聞かせるのだ。
「いいかい。昔々、歴史というのはな、冷たい石の中にあったんじゃない。こうして、誰かの声に乗って、君たちの心に直接届く、温かいものだったんだ――」
俺のポケットの中で、父の最後の記憶が宿った時砂が、かすかな温もりを放っていた。歴史は地層に埋もれる記録ではない。それは、人の心に宿り、声を通して受け継がれていく、永遠の響きなのだ。俺は、その響きを未来へ届ける、新しい採掘師になった。空は、どこまでも青く澄み渡っていた。