忘却史家と始まりの旋律

忘却史家と始まりの旋律

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第一章 沈黙の街と忘れられた民

カイがその街の門をくぐったとき、最初に感じたのは音の不在だった。風が瓦礫の間を吹き抜ける音も、虫の羽音すらも存在しない、真空のような静寂。彼の職業は「忘却史家」。時の編纂局の命を受け、歴史の連続性を歪める「エラー」、すなわち特定の出来事や存在を、人々の記憶からも記録からも抹消する者だ。彼の仕事は、外科医が腫瘍を摘出するように、精密で、冷徹で、そして完全な忘却をもたらすことだった。

今回の依頼は、これまでで最大規模のものだった。「響きの一族、その全ての痕跡を抹消せよ」。編纂局の長老から渡された羊皮紙には、それだけが記されていた。一族が最後に暮らしたとされるこの廃墟の街は、地図からさえその名が消えかけている。

カイは革の手袋をはめ直し、背負った長方形の木箱から、黒曜石でできた音叉を取り出した。これが彼の商売道具だ。対象の「記憶の周波数」に同調させ、打ち鳴らすことで、その存在を構成していた情報の粒子を霧散させる。彼は街の中央広場と思われる場所まで歩を進めた。ひび割れた石畳、崩れかけた噴水の跡。カイは目を閉じ、意識を集中させた。

忘却史家の研ぎ澄まされた感覚が、大気中に漂う微かな残滓を探り当てる。それは視覚や聴覚で捉えられるものではない。肌を撫でる空気の揺らぎ、胸の奥に微かに響く共鳴。確かに、ここに「誰か」がいた。大勢の人々が笑い、歌い、生きていた温かい記憶の残響が、まるで陽炎のように立ち上っていた。

カイは音叉を構え、一族の周波数に意識を合わせた。それは、風鈴が幾重にも重なり合うような、澄み切った音の波動だった。なんと美しい周波数だろうか。彼は一瞬ためらったが、すぐに職務を思い出し、音叉を軽く打ち鳴らした。キィン、と高く澄んだ音が響き渡ると、足元の石畳から淡い光の粒子が立ち上り、空気に溶けるように消えていった。一歩、また一歩と、カイが街を歩き、音叉を鳴らすたびに、陽炎のような記憶の残響は薄れていく。壁に残された子供の落書きが、噴水に残る恋人たちの誓いが、その意味を失い、ただの染みや傷へと変わっていく。

これが彼の仕事。歴史という巨大な織物の、綻びを修復する作業。カイはこれまで、その正しさを疑ったことはなかった。編纂局が消すと決めたものには、必ずそうすべき理由がある。彼はそう信じ、自らの感情を殺して、ただの執行者であり続けた。

しかし、街の最も奥まった場所にある、ひときわ大きな館の扉を開けたとき、カイは初めて、自らの仕事に微かな澱のような疑念を感じた。内部には巨大な壁画が描かれていた。風化しかけてはいたが、そこに描かれていたのは、耳に手を当て、空を見上げる人々の姿。そして彼らの口から放たれたであろう光の波が、天から降り注ぐ黒い棘のような何かを打ち消している様子だった。それはまるで、歌で災厄を退けているかのように見えた。

カイは壁画に近づき、そっと手を触れた。その瞬間、彼の脳裏に、直接的な映像ではない、しかし鮮烈な「感覚」が流れ込んできた。それは、絶望的な破壊の音と、それに抗う無数の歌声の記憶だった。

第二章 響きの一族の遺言

壁画に触れたカイは、それ以上、忘却の儀式を進めることができなくなった。彼の心に深く突き刺さった、あの歌声の記憶。それは悲壮でありながら、同時に揺るぎない覚悟に満ちていた。彼は街の探索を続けた。もはや忘却のためではなく、知るために。自分が消し去ろうとしている者たちの正体を知るために。

街の図書館だったと思われる建物の地下で、カイは一冊だけ、奇跡的に残された書物を見つけた。それは編纂局の公式言語ではなく、古代の象形文字に近い、流れるような曲線で描かれた文字で記されていた。カイは忘却史家としての訓練課程で、数多の失われた言語を学んでいる。彼は埃を払い、震える指でページをめくった。

そこには、「響きの一族」の驚くべき真実が綴られていた。彼らは、音を通じて未来を「聴く」民だった。戦争、飢饉、天災。歴史に起こりうるあらゆる災厄は、事前に特有の不協和音として世界に響く。一族はその不協和音を聴き取り、それと正反対の周波数を持つ「調和の歌」を歌うことで、災厄を中和し、未然に防いできたのだという。

彼らは歴史の守護者だった。しかし、その行為は、編纂局が最も重んじる「歴史の自然な流れ」を人為的に歪める禁忌そのものだった。編纂局にとって、たとえ悲劇であっても、起こるべくして起こる出来事は尊重されねばならない。一つの災厄を回避することが、未来にどのような未知の副作用をもたらすか、誰にも予測できないからだ。編纂局は、「響きの一族」を歴史の秩序を乱す最大の脅威と見なしたのだ。

カイは書物を閉じた。額に冷たい汗が滲む。自分がこれまで行ってきたことは、果たして正しかったのだろうか。綻びを修復するどころか、世界を守っていた守護者を、自らの手で消し去っていたのではないか。彼の信じてきた正義が、音を立てて崩れ始める。

書物の最後のページには、一枚の地図が挟まれていた。街の北方にそびえる山の、さらに奥深くにある洞窟を示す地図だった。「最後の歌は、そこに」。そう書き残されていた。

カイは決意した。最後の務めを果たす前に、彼らが遺した「最後の歌」を聴かなければならない。それは忘却史家としての越権行為であり、編纂局への裏切りに等しい。だが、もはや彼は、何も知らずにただの道具でいることに耐えられなかった。彼は装備を整え直し、静まり返った街を後にして、険しい山道へと足を踏み入れた。風が頬を撫でる。その風の中に、微かに悲しげな旋律が混じっているような気がした。

第三章 最期の音叉

山道は険しく、カイの心を映すかのように霧が深かった。地図が示す洞窟の入り口は、巨大な岩の裂け目に隠れるようにして存在していた。中へ入ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。道は一本道で、壁には淡い光を放つ苔が自生しており、足元をぼんやりと照らしていた。

洞窟の最深部に辿り着いたとき、カイは息を呑んだ。そこは巨大な空洞になっており、中央には天を突くかのような、巨大な水晶の柱が屹立していた。柱は内部から虹色の光を放ち、無数の亀裂が走っている。そして、カイの耳に、これまで感じたことのないほど強烈な「音」が流れ込んできた。それは音ではない音。心臓を直接掴まれるような圧迫感と、魂が引き裂かれるような不快な振動。水晶の柱は、「響きの一族」が予知した、未来に起こるであろう「最大の災厄」の不協和音を、その身に封じ込めているのだ。

カイが水晶に近づくと、その表面に刻まれた一文が目に飛び込んできた。それは、彼が地下で見つけた書物と同じ、流麗な古代文字で記されていた。

『我らを消す者よ。汝が最後の仕事は、この音を砕くこと。されど知れ。この音の源は、汝が仕える時の編纂局そのものなり』

全身の血が凍りつくような衝撃がカイを襲った。どういうことだ? 彼は再び文字に目を走らせ、そこに込められた意味を必死に読み解いた。

「響きの一族」が聴いた最大の災厄。それは、時の編纂局が、自らの信じる「秩序」のために、些細な異分子をも許さなくなり、やがては思想、文化、感情といった、非効率で管理不能な人間性のすべてを「エラー」と見なし、歴史から抹消し始める未来だった。その結果、人類は感情を失った抜け殻となり、文明は緩やかに、しかし確実に崩壊へと向かう。

そして、その破滅への引き金を引くのが、編纂局の最も忠実な僕である「忘却史家」――カイ自身による、この水晶の破壊だった。この水晶を破壊し、最後の「異分子」である「響きの一族」の痕跡を完全に消し去ったという成功体験が、編纂局をより過激な純化路線へと走らせるのだという。

「響きの一族」は、自分たちが消される運命を知りながら、あえてこの災厄の記録をカイに託したのだ。彼らはカイを憎んでいたわけではない。むしろ、彼に未来を委ねたのだ。自分たちの存在を消し去る者に、世界の運命を。

カイは膝から崩れ落ちた。自分が信じてきた正義、仕えてきた組織、そして自らの手で行ってきたことのすべてが、最大の悪意と破壊に繋がっていた。彼は歴史の修復者などではなかった。ただの、破滅への道を開く愚かな門番に過ぎなかったのだ。黒曜石の音叉が、彼の手から滑り落ち、硬い岩盤に当たって乾いた音を立てた。その音は、カイの砕け散った価値観の悲鳴のように響いた。

第四章 歴史に遺された旋律

絶望の底で、カイはどれほどの時を過ごしただろうか。水晶は、不気味な災厄の音を内包したまま、静かに光を放ち続けている。

依頼通り、これを破壊するのか。そうすれば、編纂局は暴走し、世界は緩やかな終焉を迎える。

依頼に背き、これを放置するのか。いや、編纂局はいずれ別の忘却史家を送り込むだろう。同じことの繰り返しだ。

では、この災厄の音を解放するのか。それは世界を未曾有の混乱に陥れるかもしれないが、編纂局の計画を頓挫させる唯一の道かもしれない。

カイはゆっくりと立ち上がった。彼は滑り落ちた音叉ではなく、木箱の奥底にしまっていた、もう一つの道具を手に取った。それは、師匠から受け継いだ、白水晶で作られた古い音叉だった。「これは対象を消すためではない。その本質を『翻訳』するためのものだ」。師匠はそう言っていた。一度も使ったことのない、禁じられた道具。

カイは決断した。破壊でもなく、解放でもない、第三の道を。

彼は白水晶の音叉を構え、巨大な水晶柱に向き合った。そして、自らの忘却史家としての全能力を、消去のためではなく、変換のために注ぎ込んだ。彼は、あの壁画で見た「響きの一族」の姿を思い浮かべた。歌で災厄を打ち消した、あの姿を。

カイは音叉を打ち鳴らした。それは黒曜石の音とは違う、深く、温かい響きだった。その音が水晶柱に共鳴すると、柱から迸っていた不快な振動が、次第にその性質を変え始めた。引き裂くような不協和音は和らぎ、絶望の叫びは悲しみの嗚咽に、そしてやがて、それは言葉では表現できない、切なくも美しい旋律へと変わっていった。災厄の警告としての意味は失われた。だが、その根源にあった「痛み」や「悲しみ」は、純粋な感情の響きとして昇華されたのだ。

水晶柱は旋律を奏でながら、ゆっくりと光の粒子となって崩壊していく。そして、その旋律は洞窟を満たし、岩の隙間を抜け、世界へと解き放たれていった。

その日、世界中の人々が、どこからともなく聴こえてくる不思議な旋律に耳を澄ませた。農夫は畑仕事の手を止め、王は玉座で目を閉じ、恋人たちは理由もわからず互いを強く抱きしめた。誰もがその音の意味を知ることはなかったが、その旋律は人々の心の最も柔らかな部分に触れ、「何か計り知れなく大切なものを失った」という、漠然とした、しかし消えない感傷を植え付けた。

カイは、編纂局から追われる身となった。しかし、彼の心は不思議なほど穏やかだった。彼はもはや、歴史を消す者ではない。彼は、名もなき感情を「遺す」者へと生まれ変わったのだ。歴史とは、年号や事実の羅列ではない。それは、無数の人々の心に刻まれ、受け継がれていく、名もなき喜びや悲しみの旋律そのものなのだと、彼は悟った。

カイは洞窟を出て、夜明けの光の中に足を踏み出す。彼は、これから始まる果てしない逃亡の旅路で、歴史の片隅に忘れ去られた人々の感情を拾い集め、新たな旋律を紡いでいくのだろう。歴史の記録者でも、破壊者でもない。ただ一人の、「歴史の旋律を紡ぐ者」として。その横顔には、悲しみと、そして確かな希望の光が宿っていた。

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