第一章 墨色の侵食
水野咲の時間は、三年前に死んだ。恋人、蓮が交差点に飛び出してきた車にはねられた、あの雨の日に。以来、咲の世界は彼が遺したアトリエの中に凝固していた。壁に立てかけられた描きかけのキャンバス、絵の具の染みついた床、窓辺に置かれたままの小さなサボテン。すべてが蓮の息遣いを保存しているようで、咲はそこから一歩も動けずにいた。
異変が始まったのは、秋も終わりに近づいた、冷たい雨が窓を叩く夜だった。
アトリエの隅、本棚と壁の間に、奇妙な「影」が生まれた。それは照明が作る自然な陰影ではなかった。インクを水に垂らしたように、それはじわりと輪郭を広げ、濃淡を変え、まるで呼吸しているかのように微かに蠢いていた。咲は息を飲んだ。心臓が氷の塊になったように冷たく、重くなる。見間違いだ、疲れているんだ。そう自分に言い聞かせ、目を逸らした。しかし、一度認識してしまった異物は、網膜に焼き付いて消えなかった。
その夜、咲は蓮の夢を見た。大学のキャンパス、銀杏並木が黄金色に輝く下で、初めて言葉を交わした日の夢だ。蓮の照れたような笑顔、少し高めの声、風に揺れる彼の髪。すべてが鮮明だった。しかし、夢から覚めた瞬間、何かがおかしいことに気づく。
――蓮は、どんな顔で笑っていた?
思い出そうとすればするほど、彼の表情に靄がかかる。声は聞こえるのに、顔が思い出せない。パニックに陥った咲がアトリエに飛び込むと、あの影が昨日よりも少しだけ、部屋の中央に滲み出しているのが見えた。そして、床には黒い染みのようなものが一つ、咲の眠っていたソファのすぐそばに落ちていた。まさか。震える手で、本棚に飾ってあった蓮とのツーショット写真立てを掴む。そこには、黄金色の銀杏並木の下で、はにかむように笑う蓮が写っている。だが、咲の目には、その笑顔がまるで知らない他人のもののように映った。記憶と記録の間に、決定的な亀裂が生じていた。
恐怖が、じっとりとした汗になって背中を伝う。あの影は、ただそこに在るだけではない。それは咲の中から、最も大切な何かを盗み出していく、邪悪な捕食者なのだと直感した。
第二章 失われる色彩
影は、夜ごと現れた。それは物理的な法則を無視して、咲が築いたバリケードを嘲笑うかのようにすり抜け、必ず彼女の傍まで忍び寄った。そして、明け方に咲が気づくと、床には新たな黒い雫が落ちており、同時に、蓮との大切な記憶がまた一つ、その色彩を失っていた。
箱根への小旅行で見た、燃えるような紅葉の色。二人で初めて作った不格好な陶器の、ざらついた土の感触。誕生日に彼が贈ってくれたネックレスの、胸元で揺れる冷たい金属のきらめき。それらのディテールが、順番に、丁寧に削り取られていく。記憶は事実の骨格だけを残し、それを彩っていた感情や五感の全てが漂白されていった。まるで、色褪せた古い写真のように。
咲は狂ったように抗った。蓮を忘れることは、彼を二度殺すことだ。そう思った。彼女はスケッチブックを広げ、消えゆく記憶を必死に描き留め始めた。蓮の笑い皺、煙草を持つ指の癖、眠っているときの穏やかな寝息。思い出せる限りの全てを、鉛筆の線で、絵の具の色で、紙の上に縫い付けようとした。アトリエの壁は、日に日に増えていく蓮の肖像で埋め尽くされていく。それは愛の記録であると同時に、絶望的な抵抗の証だった。
「どうして、私から蓮を奪うの……」
ある夜、咲は影に向かって嗚咽混じりに叫んだ。影は答えない。ただ、ゆらりとその先端を揺らし、慈しむように、あるいは何かを品定めするように、咲を見つめているだけだった。影が近づくたびに、古い絵の具とテレピン油の匂いに混じって、微かに雨上がりの土の匂いがした。それは、蓮が死んだあの日の匂いだった。咲は、自分が犯した罪を突きつけられているような気がした。あの日、言い争いをしなければ。彼を追いかけなければ。蓮は死なずに済んだのではないか。その罪悪感が、この影を呼び寄せたのかもしれない。
記憶を失う恐怖と、蓮への消えない罪悪感。二つの感情が咲の中で渦を巻き、彼女の精神を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。彼女はもはや、蓮の記憶を守るために生きているのか、それとも過去の幻影に囚われて死んでいるのか、自分でもわからなくなっていた。
第三章 愛の反転
最後の砦が、崩れようとしていた。咲の中に残された、蓮との最も鮮明で、最も辛い記憶。事故の日の記憶だ。雨の中、些細な口論からアトリエを飛び出した蓮。彼の背中を追いかけた咲の目の前で、けたたましいブレーキ音と衝撃音が響き渡った。アスファルトに広がる赤と、傘もささずに立ち尽くす自分の無力さ。この記憶だけは、三年経っても少しも色褪せることがなかった。それは彼女にとって、罰であり、蓮を忘れないための楔だった。
今夜、影が奪おうとしているのは、その最後の楔だった。咲はアトリエの隅に追い詰められ、背中で冷たい壁を感じていた。もう逃げ場はない。影はいつもより大きく、濃く、まるで咲の絶望を吸い取って成長したかのように、ゆっくりと彼女に迫ってくる。
「やめて……これ以上は……! これを忘れたら、私は本当に、あなたを過去にしてしまう!」
咲の悲痛な叫びは、虚しく空間に溶けた。影はついに彼女の身体を覆い尽くし、冷たい暗闇が咲を包み込む。息ができない。意識が遠のいていく。あの日と同じ、絶望的な無力感。もう、終わりだ。そう思った、その時だった。
暗闇の中心から、声が聞こえた。ノイズ混じりの、掠れた声。しかし、決して忘れることのない、優しい声だった。
『――咲。もう、いいんだよ』
ハッとして、咲は目を見開いた。影の冷たさが、ふわりと温かいものに変わる。それは恐怖を与えるものではなく、まるで壊れ物を抱きしめるような、慈愛に満ちた感触だった。影が、蓮だった? いや、違う。これは……。
『苦しかっただろう。ずっと自分を責めて。俺のせいで、君の時間が止まってしまって』
影はゆっくりと形を変え、咲の額にそっと触れた。その接触を通して、激しい頭痛ではなく、温かい感情の奔流が流れ込んでくる。それは蓮の想いだった。後悔ではない。未練でもない。ただひたすらに、咲の幸せを願う、純粋な愛だった。
彼は、自分が死んだ後も悲しみに囚われ、罪悪感に苛まれ続ける咲を、空の上からずっと見ていたのだ。そして、彼女をその苦しみから解放したかった。影は、蓮の呪いではなかった。咲を過去から解き放ち、未来へ歩ませるための、彼の最後の贈り物だったのだ。記憶を消していたのではない。記憶にこびりついた「悲しみ」と「痛み」だけを、彼はそっと拭い去ってくれていたのだ。
「蓮……?」
涙が頬を伝う。それは恐怖や悲しみの涙ではなかった。
『君には、笑っていてほしいんだ。俺のいない世界で、ちゃんと生きて、幸せになってほしい。俺のことは、忘れてもいいから』
「忘れない……忘れるわけないじゃない……!」
咲は、自分を包む温かい闇に向かって叫んだ。蓮との記憶は、もはや彼女を縛る呪いではなかった。影――蓮の愛は、最後の記憶に触れた。しかし、事故の記憶は消えなかった。ただ、その記憶から棘が抜かれ、血の匂いが消え、代わりに、雨上がりの虹のような、穏やかで切ない光だけが残った。
第四章 夜明けのキャンバス
夜が明けた時、アトリエに影の姿はどこにもなかった。床に落ちていた黒い染みも、まるで幻だったかのように消え失せている。差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと輝かせていた。
咲は、ゆっくりと立ち上がった。身体が驚くほど軽い。頭の中には、蓮との思い出が残っている。初めて会った日、旅行した日、そして、彼を失った日。しかし、それらは激しい痛みを伴う生々しい傷ではなく、大切に仕舞われたアルバムをめくるような、どこか懐かしくて、温かいものに変わっていた。彼を愛していたという事実と、彼に愛されていたという確信だけが、陽だまりのように心に残っていた。罪悪感は、夜明けの霧と共に晴れていた。
咲は、おぼつかない足取りで窓へと歩み寄り、固く閉ざされていたそれを、ぎしりという音を立てて開け放った。ひんやりと澄んだ朝の空気が、三年ぶりに彼女の肺を満たす。涙が、またこぼれた。今度は、感謝の涙だった。
ふと、壁に目をやる。そこには、彼女が必死に描き続けた蓮の肖像画が、何枚も飾られている。どの蓮も、少し寂しげな、悲しい目をしていた。咲は一枚の絵を外し、新しいキャンバスをイーゼルに立てかけた。
何を描こう。まだ、何も決まっていない。けれど、もう悲しい絵を描くことはないだろう。
咲はパレットに、空の青、太陽の黄色、若葉の緑を置いた。そして、ほんの少しだけ、蓮の瞳の色に似た、優しい茶色を混ぜた。
蓮との思い出は、重く冷たい錨ではなく、未来の海を照らす灯台の光になった。彼が遺してくれた愛を胸に、咲は新しい一日を描き始める。失われたものは何もなかった。ただ、愛の形が変わっただけなのだ。そのキャンバスに最初に描かれたのは、記憶の中の彼ではなく、窓から見える、どこまでも広がる青い空だった。