忘却の観測者
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忘却の観測者

第一章 霧中の残滓

俺、湊(ミナト)の目には、世界は常に霧がかっているように見えた。人々が忘れたものたちが、輪郭のぼやけた半透明の姿――『フォッグ』として、街のあちこちを彷徨っているからだ。それは忘れられた傘であり、思い出せなくなったメロディーであり、名前を失った野良猫だった。

俺が営む古物商『うろぶね堂』の扉の隅には、昨日訪れた女性が忘れた手袋のフォッグが、所在なげに丸まっている。そっと指先で触れると、冷たい霧が肌に染み込んだ。途端に、脳裏を冬の日のざわめきが過る。焦がれた相手に渡せなかったプレゼントの箱。言えなかった言葉の重み。そして、諦めと共に手袋の存在を記憶の底に沈めた、あの瞬間の微かな痛み。フォッグが持つ未練は、いつも少しだけ物悲しい味がした。

彼らは忘れられたことを知っている。だから、忘れた本人に寄り添い、時にその精神を揺さぶることで、かろうじて存在の輪郭を保とうとする。ほとんどの場合、それは微かな既視感や、理由のない憂鬱としてしか本人には認識されないのだが。

この能力のせいで、俺は他人と深く関わることを避けて生きてきた。人の記憶の澱に触れすぎるのは、ひどく疲れる。だからこの静かな店で、忘れられたモノたちと、忘れられていくコトたちを、ただ静かに見つめているだけだ。

だが、最近どうも様子がおかしい。街を漂うフォッグの数が、明らかに増えている。それも、急激に。店のカウンターに置かれた『虚ろな羅針盤』の針が、それを証明していた。北を指すことをやめたその真鍮の針は、常に最も強く忘れ去られようとしている存在の方向を指し示す。その針が今、これまで見たこともないほど細かく、狂ったように震え続けているのだ。まるで、世界中から悲鳴が聞こえてくるかのように。

第二章 色褪せた街角

羅針盤の震えが収まったある朝、針は店の北西の方角を、ぴたりと指して静止していた。文字盤に不規則に刻まれた無数の名前――『失われた子守唄』『古代種の蝶』『初恋の人の癖』――そのどれでもない。新たに浮かび上がった文字は、掠れて読めなかった。

導かれるままに電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、たどり着いたのは、地図からはとうに消え去った湾岸の埋立地だった。潮風が錆びたフェンスを揺らし、ひゅう、と寂しい音を立てる。そこにあるはずのないものが、在った。

陽炎のように揺らめく、巨大な街のフォッグ。

ゴーストタウン、と呼ぶにはあまりに生々しい。ぼやけた輪郭の建物群の間を、半透明のフォッグたちが往来している。聞こえるはずのない子供の笑い声、路面電車の走行音、誰かを呼ぶ声。それらは全て、忘れ去られた街の記憶の残響だった。

俺は恐る恐る、最も近くにあった街灯のフォッグに手を伸ばした。

触れた瞬間、凄まじい濁流が俺の意識を飲み込んだ。経済の波に翻弄され、見捨てられ、忘れられていく街の長い年月。住民たちの諦観と怒り。愛した故郷が地図から消えることへの、声にならない慟哭。それは個人の未練など比較にならない、巨大な集合的無念だった。俺は膝から崩れ落ち、アスファルトの冷たさでようやく我に返った。

これは、ただ事じゃない。世界は、個人レベルではない、もっと途方もない規模で『忘れる』という行為を加速させている。羅針盤の針が指し示す先は、もはや単なる忘れ物ではなかった。

第三章 羅針盤の悲鳴

店に戻ってからも、羅針盤の異常は続いた。針は痙攣するようにあらゆる方角を指し、そのたびに文字盤には新たな名前が浮かび上がっては消えていく。

『星々を結んだ神話』

『錬金術の最終定理』

『平和という名の理想』

それは、人類が歴史の過程で捨て去ってきた概念や、到達し得なかった未来の断片だった。まるで、世界の記憶を保存した巨大な書庫が、乱雑にページを破り捨てているかのようだった。

俺は憑かれたように古い文献を漁ったが、フォッグに関する記述などどこにもない。人々は気づいていないのか。いや、違う。気づいていながら、その存在そのものを『忘れよう』としているのだ。不可解な現象から目を逸らし、意識の外へと追いやり、そうすることで自らの平穏を保っている。世界全体が、巨大な自己防衛本能に突き動かされているかのようだった。

そして、ある満月の夜。

羅針盤の針は、ついに狂騒的な動きを止めた。

すん、と静まり返り、ゆっくりと、しかし確かな力強さで、天を指した。

地上のどこでもない。空の、その中心を。

第四章 集積する虚無

その夜、世界の理は覆った。

はじめは小さな光の粒だった。街の片隅で忘れられていたボールのフォッグが、ふわりと浮かび上がる。公園のベンチに残された恋の記憶が、淡い光の尾を引いて舞い上がる。そして、それは連鎖した。世界中のあらゆるフォッグが、まるで天からの召集を受けたかのように、一斉に空を目指し始めたのだ。

俺は店の外に飛び出した。夜空は、無数の光の川が天頂の一点を目指して流れ込む、壮大な光景に染め上げられていた。あの蜃気楼の街さえも、その輪郭を崩しながら光の奔流に加わっていく。それは終末のようであり、どこか祝祭のようでもあった。人々はただ、口をあんぐりと開けて、何が起きているのかも理解できずに空を見上げていた。

やがて全ての光が天頂に集束する。

そこに生まれたのは、星々を喰らい尽くす、巨大な『穴』だった。

形はない。色もない。ただ、そこにあるはずの空間がごっそりと抜け落ちたような、絶対的な虚無。全ての忘れられたものが溶け合い、混ざり合い、究極の忘却へと至るための祭壇。俺は全身の肌が粟立つのを感じた。あれこそが、全てのフォッグの終着点。そして、おそらくは始まり。

羅針盤の針が、ゆっくりと文字盤の中心――『無』を示す一点に向かって、動き始めていた。

第五章 最初の忘却

世界が終わりに向かって、時を刻み始めた。羅針盤の針が中心に近づくにつれ、人々の記憶は急速に失われていく。隣人の顔を忘れ、家族の名前を忘れ、やがて自分自身の名前さえも忘れて、誰もがぼんやりとした影になっていく。街から音が消え、色が褪せていく。世界そのものが、巨大なフォッグへと変貌していくようだった。

俺だけが、まだ全てを覚えていた。忘れられたものを視るこの目は、世界が忘れ去られていく最後の様を、観測する運命にあったのだ。

天頂の『穴』が、俺の意識を吸い寄せる。

抵抗は無意味だった。そして、最後の記憶が脳内に流れ込んできた。

それは、熱も光も音もない、完全な静寂の世界。

この宇宙が、この世界が、初めて『存在』という形を得た、その瞬間の記憶。そして、存在すると同時に生まれた、もう一つの概念の記憶。

それは、『存在しない』ということ。即ち、『無』。

世界は生まれた瞬間、自らの対極である『無』を、その始まりの場所に『忘れ』てきたのだ。

全ての答えは、そこにあった。

世界は、存在し続けることに疲れてしまったのだ。争い、喜び、悲しみ、その全てに飽いてしまったのだ。だから、自らが最初に忘れてきた故郷――『無』へと還ることを決めた。フォッグの急増は、そのための儀式だった。世界が、自らの記憶を一つずつ手放し、身を軽くしていく過程だったのだ。人々が何かを忘れるのは、個人の意思ではなかった。世界そのものが発する、終わりへの渇望に誘われていただけだった。

第六章 ただ、そこに在ったという記憶

羅針盤の針が、文字盤の中心を指すまで、あと数ミリ。

俺は、フォッグと化した店のカウンターにそっと触れた。楽しかったことも、辛かったこともあった。この世界は、決して美しいばかりではなかった。それでも、確かに愛おしかった。風の匂い。雨の音。人の温もり。消えゆく世界のすべてが、網膜に焼き付いて離れない。

カチリ。

虚ろな羅針盤から、乾いた小さな音が響いた。

針が、中心を指したのだ。

その瞬間、最後の音が消えた。最後の光が掻き消えた。俺以外の全てが、完全な『無』へと溶けていった。俺は、何もない空間に、ただ一人佇んでいた。

「さよなら」

誰にともなく呟いたその声も、音にはならなかった。

俺は、この『世界が存在した』という、たった一つの最後の記憶。

その記憶の観測者。

そして、役目を終えた観測者は、自らが観測した世界と共に、消え去るのが道理だ。

俺の足元から、身体がゆっくりと光の粒子に変わっていく。痛みも、悲しみもない。ただ、途方もない静けさと、安らぎがあった。

最後に、俺という記憶が消え去ることで、世界の忘却は完成する。

後に残るのは、記憶すらない、完全な無。

だが、それでいい。

確かにここに世界は在り、俺はそれを見届けた。その事実だけが、誰の心にも残らない、たったひとつの確かなことだった。

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