残夢の予言者
第一章 浮遊する夜の夢
新月の夜は、街が息を潜める。重力が限りなく零に近づき、あらゆるものが地面から数センチ浮き上がるのだ。家々は強靭な鎖で大地に繋がれ、人々は室内で静かに体を宙に委ねる。そんな静寂の夜、俺、レンはいつも最も鮮明な夢を見た。
今宵の夢の中、俺は硝子の職人だった。指先から零れる光の粒を集め、丁寧に吹き上げていく。熱を帯びたそれは、やがて滑らかなくびれを持つ砂時計の形になった。中には、月の光を吸い込んだかのように淡く輝く、銀色の砂が満たされている。夢の中の俺は、その完璧な造形に満ち足りたため息をついた。
夜が明け、重力がゆっくりと世界に帰ってくる。俺の部屋も、浮遊していた椅子や本が、ことり、と微かな音を立てて床に降り立った。枕元に手を伸ばす。そこにはもちろん、硝子の砂時計などない。ただ、指先にだけ、昨夜の夢の感触が「残像」として焼き付いていた。ひんやりと滑らかな硝子の感触。そして部屋には、どこか懐かしい、甘い砂の香りが「微かな記憶」として漂っている。
それが、俺の能力だった。夢を現実に物質化させ、夜明けと共に消滅させる。後に残るのは、触れた者にしか見えない残像と、微かな記憶だけ。
外に出ると、街はざわついていた。人々が口々に同じ言葉を囁き合っている。
「昨夜、砂時計の夢を見たんだ」
「ああ、私もだ。銀の砂が流れる、美しい…」
俺の夢の残滓が、街中に「予言」として伝播していた。人々はそれを幸運の兆しだと喜び、新たな時代の到来を予感して顔を輝かせている。俺だけが、その予言の出処を知りながら、言いようのない孤独感に苛まれていた。
第二章 満月の重圧
満月の夜は、新月とは対極の世界が訪れる。重力は常の倍になり、人々を大地へと強く縛り付ける。俺たちの住居は、その重圧に耐えるため地中深くに掘られ、まるで巣穴のようだ。ずしり、と肩にかかる重圧は、思考までも鈍重にさせる。
この圧迫感の中、俺の見る夢はより深く、より強烈になる。今夜は、見たこともない古代都市の夢だった。空を突く白亜の塔、幾何学模様が刻まれた石畳、そして、黄金の瞳を持つ翼ある獣たち。あまりに壮大で、あまりにリアルなその光景は、夢でありながら俺の精神をひどく消耗させた。
翌朝、身体は鉛のように重かった。そして、街は昨日以上の混乱に包まれていた。俺が夢で見た古代都市の「残像」が、街の至る所に蜃気楼のように揺らめいていたのだ。人々はそれを「古き都の復活」の予言だと熱狂し、ある者は祈りを捧げ、ある者はその場にひれ伏した。
その狂騒の中心で、一人の男が静かに俺を見ていた。黒い外套を纏い、その瞳は満月の夜の静寂を思わせるほど冷たい。
「お前の夢は、世界に亀裂を入れる」
男の声は、重力のように俺の心に沈み込んだ。
「俺はカイ。『夢の採掘者』だ。その過ぎた力は、我々が管理する」
第三章 夢の残像と採掘者
その日を境に、俺は『夢の採掘者』と名乗るカイに追われることになった。彼は影のように俺の行く先に現れ、その冷徹な視線で俺の行動を監視した。俺は自分の能力が、ただの個人的な現象ではないことを痛感し始めていた。それは、世界の理を揺るがす、危険な力なのだと。
逃亡の途中、俺は奇妙な光景を目にした。俺が創り出した夢の残像――例えば、甘い果実がなる大樹の残像に触れた人々は、皆一様に恍惚とした表情を浮かべていたのだ。彼らは現実の飢えや悩みを忘れ、ただ幸福感に浸っている。その姿は安らかで、同時にひどく空虚に見えた。
ある夜、裏路地に追い詰められた俺は、カイに問い詰めた。
「なぜだ! なぜ俺の夢が禁忌なんだ! 人々は幸せそうじゃないか!」
カイは表情を変えずに答えた。
「それは幸福ではない。ただの逃避だ。お前の夢が示す『大いなる目覚め』は、全ての終わりを意味する」
「『大いなる目覚め』…? それが何だっていうんだ」
カイは答えず、ただ静かに俺に手を伸ばした。その瞬間、俺の意識は恐怖に支配され、心の奥底で眠っていた最も強いイメージを、無意識に手繰り寄せていた。
第四章 始まりの砂時計
――銀色の砂が輝く、あの砂時計を。
俺が強く念じた瞬間、掌の中に確かな重みが生まれた。それはもう残像ではない。紛れもない「物質」として、あの「始まりの砂時計」がそこにあった。だが、何かが違った。中の砂が、重力に逆らって下から上へと、勢いよく逆流を始めたのだ。
「馬鹿な…! 『原初の夢の砂』を完全に具現化させただと!?」
カイの顔から初めて冷静さが消え、焦燥が浮かんだ。砂時計が脈動するかのように淡い光を放つと、周囲の空間がぐにゃりと歪む。壁のレンガが溶け出し、地面のアスファルトが柔らかな苔に変わっていく。世界の法則が、夢に侵食されていく。
カイは俺を捕らえるのをやめ、砂時計に向かって手を伸ばした。
「止めろ! それは世界の封印そのものだ!」
彼が砂時計に触れた瞬間、奔流のようなイメージが俺の脳内に流れ込んできた。それはカイの記憶、いや、『夢の採掘者』たちが代々受け継いできた、世界の真実だった。
遥か昔、この世界には夢と現実の境界がなかった。人々の願いも、悪夢も、全てが等しく現実となった。その結果、世界は欲望と恐怖が際限なく具現化する混沌に呑まれ、一度滅びかけたのだという。それを憂いた最初の採掘者たちは、最も危険な力を持つ『原初の夢』を、世界の理から切り離して封印した。その封印の核こそが、この砂時計に使われている『原初の夢の砂』だったのだ。
彼らが恐れていた『大いなる目覚め』とは、世界の物理的な崩壊ではない。それは、再び夢と現実の境界が消え、人々が苦悩も、悲しみも、努力も、願望さえも持たない、ただ夢を見続けるだけの存在へと変質すること。「完璧な理想郷」という名の、魂の死。それこそが、採掘者たちが永劫に防ぎ続けてきた、世界の真の終わりだった。
第五章 選択の天秤
「我々は破壊者ではない。人間が、不完全な人間であり続けるための、最後の防人だ」
カイの声が、歪む世界の中でかろうじて俺の耳に届いた。
「苦悩があるからこそ、乗り越える喜びに意味が生まれる。喪失があるからこそ、手にした愛が輝く。全てが叶う世界に、生きる意味など存在しない」
彼の言葉を裏付けるように、世界の侵食は加速していた。空はオーロラのように極彩色に染まり、地面からは水晶の花が咲き乱れる。街行く人々の顔からは、苦悩や不安といった全ての感情が消え失せ、皆が皆、穏やかで空虚な笑みを浮かべていた。彼らはもう、俺が創り出した夢の世界の住人になろうとしていた。
俺の目の前には、究極の選択が突きつけられていた。
このまま砂時計の逆流に身を任せ、『大いなる目覚め』を迎え入れるか。そうすれば、世界からあらゆる苦しみは消え去るだろう。
それとも、この砂時計を破壊し、人々を不完全で苦悩に満ちた「現実」に引き戻すか。
「砂時計を止める方法は一つしかない」とカイが言った。「お前が、お前自身の『夢を見る力』を、その砂に捧げるんだ。永遠に、夢を捨てるんだ」
夢を捨てる。それは、俺という存在そのものを捨てることに等しかった。
第六章 残夢の彼方へ
俺の脳裏に、昔見た他愛もない夢が蘇った。
夢の中で、俺は河原で何の変哲もない、丸い石ころを一つ創り出した。それを握りしめた時の、ざらりとした感触と、確かな重み。翌朝、それは跡形もなく消えていたけれど、あの手に残った確かな「現実」の感触だけは、ずっと覚えていた。
消えてしまうからこそ、愛おしかった。
手に入らないものがあるからこそ、手を伸ばすことに意味があった。
そうだ。俺は、完璧な夢の世界など望んでいない。
俺はカイに向かって静かに頷くと、逆流を続ける砂時計を両手で強く抱きしめた。力を捨てるのではない。夢見ることをやめるのではない。俺は、この不完全で、苦しくて、それでもどうしようもなく美しい「現実」そのものを、心の底から夢見ることにしたのだ。俺たちが生きる、このちっぽけで偉大な世界を、肯定することにしたのだ。
「ありがとう、俺の夢」
そう呟いた瞬間、砂時計は砕け散るのではなく、眩い光の粒子となって霧散した。それはまるで、役目を終えた星々が天に還っていくようだった。同時に、俺の身体から何かがすっと抜け落ちていくのを感じた。夢を紡ぐ力が、世界へと溶けていく。
第七章 月が満ちる夜に
数年の時が流れた。再び、満月の夜が訪れる。
俺はもう、夢を物質化することはできない。ただの男として、地上の住居の窓から、カイと共に重力に満ちた夜空を見上げていた。
重い重力の中、人々は力強く生きている。地下の酒場からは賑やかな笑い声が聞こえ、どこかの家からは赤ん坊の泣き声が響く。誰かが喧嘩をし、誰かが愛を囁いている。その不完全で、混沌とした人間の営みこそが、あの日の俺が守りたかったものなのだと、今ははっきりとわかる。
世界から『大いなる目覚め』の予言は消えた。だが、あの日、夢の世界に触れた人々の心には、失われた理想郷を思うような、切なくも甘い記憶が「残像」として微かに残っているという。
俺の手には、もう何も生まれない。指先に残るのは、日々の労働で硬くなった皮膚の感触だけだ。けれど、この心には、確かに刻まれている。夢と現実の狭間で下した選択の重みと、失われた力への微かな寂寥感、そして、この不完全な今を生きる、確かな実感。
満月が、俺たちの生きる世界を、静かに、そして力強く照らしていた。