忘却の織物と、始まりの砂時計
第一章 蝕まれる境界線
路地裏の野良猫が、塀へ飛び移ろうとした瞬間だった。
ふわりと宙に浮いた体躯が、着地することなく霧散した。血も肉も、最初から存在しなかったかのように白濁した空間へ溶け、後にはちりりとした静電気のような違和感だけが残る。通りがかった男は、猫が消えたことになど気づかない。彼の中で「そこに猫がいた」という事実ごと、認知の糸がぷつりと切断されたからだ。
エリシアは奥歯を噛み締め、腰の「砂時計」を強く握った。
ガラスの向こうで、どろりとした蒼い砂が逆流し、脈打つように光る。消滅した猫の、誰にも撫でられなかった寂しさが、冷たい熱となってエリシアの掌へ流れ込む。
代償は、即座に訪れた。
(……あれ?)
彼女は呆然と空を見上げた。あの空の色をなんと呼ぶのだったか。単語が出てこない。「青」という概念が、彼女の辞書から焼け落ちた。
右目の奥が錐で抉られるように痛む。他者の記憶を吸い上げるたび、エリシアという器から、彼女自身の思い出がこぼれ落ちていく。昨日の夕食の味、愛した絵本のタイトル、そして今は、空の名前。
彼女は震える手で自身の肩を抱いた。寒い。これは気温のせいか、それとも自分が自分でなくなっていく恐怖による悪寒か。それでも、足は止まらない。
地図から消えつつある空白地帯の中心へ。そこで、誰かが世界を書き換えている。
第二章 偽りの幸福、継ぎ接ぎの歴史
王都は、吐き気を催すほど美しかった。
行き交う人々は誰もが微笑み、服には継ぎ接ぎひとつない。広場の噴水は虹を描き、店先には熟れた果実が山積みになっている。だが、エリシアの右目には、その薄皮一枚下の光景が焼き付いていた。
路傍の美しい石像に指先が触れる。
瞬間、脳裏にノイズが走った。
――焦げた肉の臭い。誰かの絶叫。『ママ、熱いよ、開けて!』
それは石像ではない。かつての大火で逃げ遅れ、炭化した母子が折り重なった姿だった。
「ぐ……っ」
胃液がせり上がる。砂時計が喉を鳴らすように震え、その地獄の記憶を貪り食う。
また一つ、エリシアの中から何かが欠落した。幼い頃、熱を出した自分に手を添えてくれた母の、その掌の温度を忘れた。温もりがあったという事実だけが残り、感触が消えた。
この世界は、歴史の汚点を「忘却」という墓穴へ捨てて成り立っている。飢餓も、戦争も、疫病も。都合の悪い事実を切り捨て、残った綺麗な糸だけで織り直されたタペストリー。だが、捨てられた悲鳴は消えはしない。世界の裏側で膿のように溜まり、今まさに現実を侵食しようとしているのだ。
第三章 愛ゆえの消去
世界の最果て、純白の空間に、その男はいた。
老いた指先が、巨大な織機を愛おしげに撫でている。彼が経糸(たていと)を弾くたび、どこかの戦場が花畑へと書き換えられていくのが見えた。
「美しいだろう?」
男は振り返りもせず、穏やかに言った。その背中は、覇者というよりは、重荷に耐えかねた巡礼者のように丸まっている。
「ここでは、誰も喪失に泣くことはない。子供は親より先に死なず、恋人たちは永遠に微笑み合う。私が創ったのは、誰もが夢見た楽園だ。……なぜ、それを壊そうとする?」
男が視線を向けると、エリシアの脳内に甘美な光景が流れ込んだ。
戦火で死んだはずの妹が、大人になって笑っている未来。孤独な旅などせず、暖炉の前で微睡む自分。それは、あまりにも魅力的で、涙が出るほど平穏な「有り得たかもしれない生」だった。
心が揺らぐ。もう、痛いのは嫌だ。母の顔も思い出せないまま、化け物のように記憶を貪り続ける日々に、何の意味があるのか。
「……けれど」
エリシアは、自身の胸を掴んだ。そこには、消えかけた母の記憶の代わりに、先ほど吸い上げた「焼き殺された子供」の痛みが、生々しく息づいている。
「影のない光は、ただの白紙と同じよ」
彼女の声は震えていたが、眼差しは鋭利な刃のように男を射抜いた。
「転んだ痛みがなければ、助け起こしてくれた手の温かさは分からない。失う悲しみを知らない人間は、今ある幸福の重ささえ忘れてしまう。あなたの世界は綺麗だけど……そこには、愛した証(いたみ)がない!」
男は深く、長く、溜息をついた。その瞳には、千年の孤独と、微かな安堵が揺らめいていた。
「ならば、背負ってみせよ。人類が捨てた、全ての慟哭を」
第四章 星の海、新たな夜明け
エリシアは砂時計を高く掲げた。
ガラスの中で、数億の悲劇が、圧縮された星のように赤黒く発光している。その重みは、惑星そのものを持たされているようだった。
もしこれを割れば、彼女の自我(こころ)は砕け散るかもしれない。だが、偽りの安寧の中で飼い殺されるより、痛みと共に生きることを、彼女は選んだ。
「私は、忘れない」
エリシアは砂時計を、白亜の床へと叩きつけた。
破裂音と共に、世界が裏返る。
あふれ出したのは、闇だ。虐殺の記憶、病の苦しみ、裏切り、絶望。泥のような奔流がエリシアを飲み込み、彼女という個を摩耗させていく。
(痛い、苦しい、怖い――)
しかし、その濁流の中には、砂金のような煌めきも混じっていた。
死にゆく兵士が最後に想った妻の笑顔。飢餓の中で分け合われたパンの味。絶望の淵で誰かが歌った祈りの歌。
悲しみは、愛の裏返しだ。大切だったからこそ、失うことがこれほどに辛いのだ。
エリシアの「眼」が見開かれる。彼女は濁流の中で必死に手を伸ばし、無数の糸を掴み取った。清も濁も、光も影も。すべてをあるべき場所へ結び直し、編み上げていく。
轟音が止んだ時、そこには静寂があった。
純白の宮殿は消え、エリシアは荒涼とした大地に立っていた。
頬を撫でる風は冷たく、肌を刺すように痛い。だが、その痛みこそが、世界が息を吹き返した証拠だった。
足元には、焼け焦げた跡のある瓦礫。しかしその隙間から、名もなき青い花が、弱々しくも懸命に芽吹いている。
「……綺麗」
エリシアが呟くと、彼女の瞳から一雫、涙がこぼれ落ちた。
何故泣いているのか、今の彼女にはもう思い出せない。母の顔も、自分の名前さえも、彼方へ消えてしまった。
それでも、胸の奥に残る温かい残り火が、彼女に歩き出す力を与えていた。
東の空が白んでいく。完璧な青ではない、雨雲と朝焼けが混じり合った、複雑で、どうしようもなく美しい夜明けだった。