忘却の織物と、始まりの砂時計
3 2640 文字 読了目安: 約5分
文字サイズ:
表示モード:

忘却の織物と、始まりの砂時計

第一章 蝕まれる境界線

路地裏の野良猫が、塀へ飛び移ろうとした瞬間だった。

ふわりと宙に浮いた体躯が、着地することなく霧散した。血も肉も、最初から存在しなかったかのように白濁した空間へ溶け、後にはちりりとした静電気のような違和感だけが残る。通りがかった男は、猫が消えたことになど気づかない。彼の中で「そこに猫がいた」という事実ごと、認知の糸がぷつりと切断されたからだ。

エリシアは奥歯を噛み締め、腰の「砂時計」を強く握った。

ガラスの向こうで、どろりとした蒼い砂が逆流し、脈打つように光る。消滅した猫の、誰にも撫でられなかった寂しさが、冷たい熱となってエリシアの掌へ流れ込む。

代償は、即座に訪れた。

(……あれ?)

彼女は呆然と空を見上げた。あの空の色をなんと呼ぶのだったか。単語が出てこない。「青」という概念が、彼女の辞書から焼け落ちた。

右目の奥が錐で抉られるように痛む。他者の記憶を吸い上げるたび、エリシアという器から、彼女自身の思い出がこぼれ落ちていく。昨日の夕食の味、愛した絵本のタイトル、そして今は、空の名前。

彼女は震える手で自身の肩を抱いた。寒い。これは気温のせいか、それとも自分が自分でなくなっていく恐怖による悪寒か。それでも、足は止まらない。

地図から消えつつある空白地帯の中心へ。そこで、誰かが世界を書き換えている。

第二章 偽りの幸福、継ぎ接ぎの歴史

王都は、吐き気を催すほど美しかった。

行き交う人々は誰もが微笑み、服には継ぎ接ぎひとつない。広場の噴水は虹を描き、店先には熟れた果実が山積みになっている。だが、エリシアの右目には、その薄皮一枚下の光景が焼き付いていた。

路傍の美しい石像に指先が触れる。

瞬間、脳裏にノイズが走った。

――焦げた肉の臭い。誰かの絶叫。『ママ、熱いよ、開けて!』

それは石像ではない。かつての大火で逃げ遅れ、炭化した母子が折り重なった姿だった。

「ぐ……っ」

胃液がせり上がる。砂時計が喉を鳴らすように震え、その地獄の記憶を貪り食う。

また一つ、エリシアの中から何かが欠落した。幼い頃、熱を出した自分に手を添えてくれた母の、その掌の温度を忘れた。温もりがあったという事実だけが残り、感触が消えた。

この世界は、歴史の汚点を「忘却」という墓穴へ捨てて成り立っている。飢餓も、戦争も、疫病も。都合の悪い事実を切り捨て、残った綺麗な糸だけで織り直されたタペストリー。だが、捨てられた悲鳴は消えはしない。世界の裏側で膿のように溜まり、今まさに現実を侵食しようとしているのだ。

第三章 愛ゆえの消去

世界の最果て、純白の空間に、その男はいた。

老いた指先が、巨大な織機を愛おしげに撫でている。彼が経糸(たていと)を弾くたび、どこかの戦場が花畑へと書き換えられていくのが見えた。

「美しいだろう?」

男は振り返りもせず、穏やかに言った。その背中は、覇者というよりは、重荷に耐えかねた巡礼者のように丸まっている。

「ここでは、誰も喪失に泣くことはない。子供は親より先に死なず、恋人たちは永遠に微笑み合う。私が創ったのは、誰もが夢見た楽園だ。……なぜ、それを壊そうとする?」

男が視線を向けると、エリシアの脳内に甘美な光景が流れ込んだ。

戦火で死んだはずの妹が、大人になって笑っている未来。孤独な旅などせず、暖炉の前で微睡む自分。それは、あまりにも魅力的で、涙が出るほど平穏な「有り得たかもしれない生」だった。

心が揺らぐ。もう、痛いのは嫌だ。母の顔も思い出せないまま、化け物のように記憶を貪り続ける日々に、何の意味があるのか。

「……けれど」

エリシアは、自身の胸を掴んだ。そこには、消えかけた母の記憶の代わりに、先ほど吸い上げた「焼き殺された子供」の痛みが、生々しく息づいている。

「影のない光は、ただの白紙と同じよ」

彼女の声は震えていたが、眼差しは鋭利な刃のように男を射抜いた。

「転んだ痛みがなければ、助け起こしてくれた手の温かさは分からない。失う悲しみを知らない人間は、今ある幸福の重ささえ忘れてしまう。あなたの世界は綺麗だけど……そこには、愛した証(いたみ)がない!」

男は深く、長く、溜息をついた。その瞳には、千年の孤独と、微かな安堵が揺らめいていた。

「ならば、背負ってみせよ。人類が捨てた、全ての慟哭を」

第四章 星の海、新たな夜明け

エリシアは砂時計を高く掲げた。

ガラスの中で、数億の悲劇が、圧縮された星のように赤黒く発光している。その重みは、惑星そのものを持たされているようだった。

もしこれを割れば、彼女の自我(こころ)は砕け散るかもしれない。だが、偽りの安寧の中で飼い殺されるより、痛みと共に生きることを、彼女は選んだ。

「私は、忘れない」

エリシアは砂時計を、白亜の床へと叩きつけた。

破裂音と共に、世界が裏返る。

あふれ出したのは、闇だ。虐殺の記憶、病の苦しみ、裏切り、絶望。泥のような奔流がエリシアを飲み込み、彼女という個を摩耗させていく。

(痛い、苦しい、怖い――)

しかし、その濁流の中には、砂金のような煌めきも混じっていた。

死にゆく兵士が最後に想った妻の笑顔。飢餓の中で分け合われたパンの味。絶望の淵で誰かが歌った祈りの歌。

悲しみは、愛の裏返しだ。大切だったからこそ、失うことがこれほどに辛いのだ。

エリシアの「眼」が見開かれる。彼女は濁流の中で必死に手を伸ばし、無数の糸を掴み取った。清も濁も、光も影も。すべてをあるべき場所へ結び直し、編み上げていく。

轟音が止んだ時、そこには静寂があった。

純白の宮殿は消え、エリシアは荒涼とした大地に立っていた。

頬を撫でる風は冷たく、肌を刺すように痛い。だが、その痛みこそが、世界が息を吹き返した証拠だった。

足元には、焼け焦げた跡のある瓦礫。しかしその隙間から、名もなき青い花が、弱々しくも懸命に芽吹いている。

「……綺麗」

エリシアが呟くと、彼女の瞳から一雫、涙がこぼれ落ちた。

何故泣いているのか、今の彼女にはもう思い出せない。母の顔も、自分の名前さえも、彼方へ消えてしまった。

それでも、胸の奥に残る温かい残り火が、彼女に歩き出す力を与えていた。

東の空が白んでいく。完璧な青ではない、雨雲と朝焼けが混じり合った、複雑で、どうしようもなく美しい夜明けだった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
エリシアは、記憶喪失の代償を払いながらも偽りの幸福を拒み、痛みを伴う真実を選ぶ強い意志を持つ。世界を書き換える男は、愛する者の喪失を避けるため、悲劇を消し去るという歪んだ「愛」に囚われる。しかし、エリシアに重荷を託す際に見せる「安堵」は、彼自身もその使命に苦しんでいたことを示唆する。

**伏線の解説**:
砂時計は、他者の記憶と引き換えに自身の記憶を奪う代償を負わせ、エリシアの自己犠牲を加速させる。男の「安堵」は、彼が「忘却の織物」という重責から解放されることへの本心であり、痛みを排除する世界の限界を知っていた証拠。「愛した証(いたみ)」は、偽りの幸福では得られない真の価値として、物語の核となる。

**テーマ**:
本作は、記憶と自己同一性の喪失、そして真の幸福とは何かを深く問う。過去の悲劇を忘却するのではなく、痛みを伴う真実を受け入れることこそが、真の愛と希望を生み出すという哲学を提示。苦しみの中にこそ、人間の強さと、未来への希望を描く。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る