忘却のオルゴールと響き人の唄

忘却のオルゴールと響き人の唄

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***第一章 錆びついた旋律***

リオンの仕事場は、忘却の匂いがした。埃と、古い木材と、歳月を経て酸化した金属の匂い。彼は古物修復師として、人々が捨て、あるいは忘れ去ったガラクタに再び命を吹き込むことを生業としていた。客のほとんどいない店の一番奥、窓から差し込む午後の光が埃を金色に照らす場所が、彼だけの聖域だった。

その日、彼が対峙していたのは、見事な螺鈿細工が施されたアンティークのオルゴールだった。何十年、あるいは百年以上も鳴らされることなく、沈黙を守り続けてきたそれは、まるで頑なな老人のように口を閉ざしている。リオンは慎重に工具を操り、錆びついたゼンマイと格闘していた。カチリ、と小さな音を立てて内部の機構が解放された瞬間、ふわりと樟脳に似た懐かしい香りが鼻を掠めた。

問題は、櫛歯(くしは)の一部が欠け、シリンダーのピンが数本折れていることだった。彼は欠けた歯の代わりに、同じ時代の金属を削り出して寸分違わぬ部品を作る。気の遠くなるような作業だが、リオンはこの沈黙の対話が好きだった。モノが持つ記憶の欠片に触れているような気がしたからだ。

数日後、修復は完了した。リオンは息を飲み、ゆっくりとゼンマイを巻く。カチ、カチ、と心地よい抵抗が指に伝わる。そして、蓋を開けた。

流れ出したのは、誰も聴いたことのない旋律だった。既存のどの音階にも属さない、七つの音だけで紡がれるそのメロディは、懐かしいのに新しく、哀しいのにどこか暖かい。まるで、夢の中でだけ聴いたことのある子守唄のようだった。リオンは、その不思議な響きに完全に心を奪われた。

旋律が終わり、静寂が戻った瞬間、異変は起きた。

工房の隅、今まで何もなかったはずの空間の空気が、陽炎のように揺らめいた。光の粒子が集まり、輪郭を結んでいく。そして、そこに現れたのは、淡い光を纏った一人の少女だった。亜麻色の髪、古いリネンのような簡素なワンピースを身につけ、裸足のまま、不思議そうにリオンを見つめている。彼女の存在はどこか希薄で、まるで陽光に溶けてしまいそうだった。

「……その音、どこで?」

少女の声は、さっきのオルゴールの音色そのものだった。か細く、透き通るような響き。リオンは言葉を失い、ただ目の前の非現実的な光景を見つめるしかなかった。彼の日常が、錆びついたオルゴールの旋律によって、静かに、しかし決定的に覆された瞬間だった。

***第二章 ノノという名の残響***

少女は自分の名前を覚えていなかった。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも。ただ、リオンが奏でたオルゴールの音に引かれて、輪郭を取り戻したのだという。彼女の存在は不安定で、音が消えると、その姿も再び陽炎のように薄らいでいく。

リオンは、音のない(ノイズレス)世界から来たように見えた彼女を「ノノ」と名付けた。ノノはそれを、花がほころぶように微笑んで受け入れた。

奇妙な共同生活が始まった。リオンは仕事の合間に、修復した楽器で様々な曲を奏でた。ノノは彼の奏でる音を浴びるように聴き、そのたびにその存在を確かなものにしていく。彼女は音を糧にしているかのようだった。チェロの低音が響けば憂いを帯びた表情になり、フルートの軽やかな音色には楽しそうにくるくると舞う。言葉を交わすよりも、音楽を通した方がずっと多くのことを分かち合える気がした。

リオンはノノの正体を知りたかった。彼は店の地下にある書庫に籠もり、埃を被った古文書を紐解き始めた。羊皮紙の乾いた手触りと、古いインクの微かな匂いに包まれながら、彼は一つの伝説に行き着く。

『世界が調律を失いし時、沈黙の番人は余分な音を刈り取る。忘れ去られし概念、忘れ去られし色、忘れ去られし響きは、忘却の淵へと沈められる。世界は秩序を保つが、その彩りの一部を永遠に失う』

その記述には「響き人(ひびきびと)」という存在が記されていた。彼らは音そのものを糧とし、世界の調和を保つ精霊のような存在だったが、あまりに繊細すぎたため、時代の喧騒の中で「余分な音」として世界から認識されなくなり、忘れ去られていったのだという。ノノは、その最後の生き残りなのかもしれない。

「僕が君を、この世界に繋ぎとめてみせる」

窓辺でうたた寝をするノノの薄い肩を見つめながら、リオンは固く誓った。それはもはや単なる好奇心ではなかった。消えかかった美しい旋律を、二度と失いたくないという修復師としての本能であり、孤独だった彼の世界に彩りを与えてくれた唯一の存在を守りたいという、切実な願いだった。彼は、ノノという存在を完全に世界に定着させる方法を探し始めた。

***第三章 創生の旋律と絶望の真実***

古文書の解読を続けたリオンは、やがて希望の光を見出す。「忘却の沈黙」に抗う唯一の手段、それは失われた存在を世界に再び認識させる禁断の楽曲――「創生の旋律」の存在だった。その楽譜は、街で最も古い時計塔の鐘の中に隠されているという。

リオンは危険を冒して時計塔に忍び込み、巨大な鐘の内側に刻まれた古代文字の羅列を発見した。それは音符であり、呪文であり、祈りだった。彼はそれを書き写し、自身の工房で再現を試みる。それは、オルゴールの旋律を核とした、壮大で複雑な交響曲だった。

満月の夜、リオンは街の中央広場で、仲間である数人の音楽家と共に「創生の旋律」を奏で始めた。最初は訝しげに遠巻きに見ていた人々も、その神秘的で力強い響きに足を止め、やがて広場は聴衆で埋め尽くされた。

リオンの隣には、ノノが立っていた。旋律が高まり、オーケストラの音が幾重にも重なり合うにつれて、彼女の輪郭はますます鮮明になっていく。陽炎のようだった体には確かな体温が宿り、その姿が、徐々に周囲の人々の目にも映り始めた。あちこちから、「あの子は誰だ?」という囁きが聞こえてくる。成功だ。このまま世界が彼女を思い出せば、ノノはもう消えはしない。リオンの胸は高鳴った。

だが、旋律がクライマックスに達した、その時だった。

ノノが苦しげに胸を押さえ、リオンの腕を掴んだ。
「やめて、リオン……お願い……」
彼女の瞳には、喜びではなく深い悲しみが湛えられていた。

そして、彼女は告げた。リオンの心を、世界の理を根底から覆す、驚くべき真実を。

「『忘却の沈黙』は、自然現象じゃない。それは、かつてこの世界を混沌から救うために作られた、大いなる防衛システムなの」
世界の音が増えすぎ、情報が飽和し、人々が狂気に陥りかけた時代があった。その時、ある一族が、世界の調和を保つために「不要な概念を忘却させる」という大魔法を編み出した。その魔法こそが「忘却の沈黙」だったのだ。

「そして……そのシステムを作り上げたのは、あなたの祖先。古きモノの声を聴き、世界の調律を司った、偉大な修復師の一族よ」

リオンは愕然とした。自分が救おうとしている存在は、自らの祖先が封印したものだった。そして、ノノの言葉は続く。

「私が完全に復活するということは、そのシステムの根幹を破壊するということ。封印されていた他の混沌とした音や、有害な概念まで、この世に呼び戻してしまう。世界は、またあの狂気の時代に戻ってしまうの」
彼女は涙を浮かべ、震える声で懇願した。
「だから、私を忘れて。それが、あなたと、あなたの愛するこの世界を守る唯一の方法だから」

リオンの指が止まった。喝采とざわめきに満ちた広場の音が、急に遠くなる。救済の行為が、実は世界の破滅に繋がっていた。そして、愛する少女自身が、自らの消滅を望んでいた。彼の信じていた正義も、希望も、すべてが足元から崩れ落ちていく。目の前には、世界か、愛する一人か、というあまりにも残酷な選択肢だけが残されていた。

***第四章 君だけのための子守唄***

世界が、息を殺してリオンの決断を見守っている。彼の指一本で、世界の運命が決まる。隣ではノノが、悲しいほど穏やかな瞳で彼を見つめていた。彼女を救えば、世界が壊れる。世界を救えば、彼女は永遠に失われる。

リオンの脳裏に、ノノと過ごした短い日々が駆け巡った。初めて工房に現れた時の驚き。彼が奏でる音楽に、花のように笑った顔。窓辺でうたた寝をする、儚い横顔。彼女は、彼の灰色だった世界に、名前のない美しい彩りを与えてくれた。それを、失っていいはずがない。

しかし、この街で生まれ育った人々の顔も浮かんだ。パン屋の親父、花売りの娘、いつも他愛ない話をしてくれる古物店の常連客。彼らの穏やかな日常を、自分のエゴで奪うことなどできるだろうか。

リオンは固く目を閉じた。そして、一つの答えに辿り着く。

彼は、再び指を動かし始めた。だが、彼が紡いだのは、「創生の旋律」ではなかった。彼はその旋律を巧みに変え、誰も知らない、たった一つの新しい曲を即興で奏で始めたのだ。

それは、壮大な交響曲ではない。ただ一つの楽器、彼が修復したあの古いオルゴールが奏でるような、素朴で、優しく、そしてひどく切ない子守唄だった。

その旋律は、ノノを世界に復活させる力を持たなかった。人々の記憶に彼女を刻み込むこともない。その代わり、その音色は、たった一人――リオンの魂の中にだけ、ノノという存在を永遠に焼き付けるための魔法だった。

広場の聴衆は、美しいメロディの終わりに拍手を送った。彼らの記憶には、素晴らしい演奏を聴いたという事実だけが残り、隣に立っていたはずの少女の姿は、最初からどこにもなかったかのように消え去っていた。

世界は守られた。ノノは、リオン以外のすべてから、再び忘れ去られた。

静まり返った工房で、リオンは一人、あのオルゴールを鳴らしていた。もう、ノノが姿を現すことはない。だが、彼は孤独ではなかった。目を閉じれば、その旋律の中で微笑むノノの姿がはっきりと見える。彼女の温もりも、声の響きも、彼の記憶の中で、決して色褪せることなく生き続けていた。

彼は世界を救い、そして彼女を失った。いや、違う。彼は、誰にも奪われない形で、彼女を永遠に手に入れたのだ。

リオンはこれからも、古物修復師として生きていくだろう。忘れ去られたモノたちの声を聴き、その小さな物語を修復していく。そして時々、彼は誰のためでもない、たった一人の少女のための子守唄を奏でるのだ。世界で彼だけが知る、愛と喪失の旋律を。彼の心の中のオルゴールだけが、その響き人の唄を永遠に記憶している。

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