「仕事を選ぶな、カイ。風が届け先を知っている」
師匠の口癖を、カイは操縦桿を握りながら苦々しく思い出す。眼下に広がるのは、どこまでも続く乳白色の雲海――有毒の瘴気で満たされた『沈黙の海』だ。人々は、その遙か上空に浮かぶ無数の『空島(スカイランド)』で、へばりつくように暮らしている。
カイの仕事は、そんな島々の間を繋ぐ『運び屋』。相棒は、鷲の頭と獅子の体を持つ誇り高き相棒、風切り鳥(ウィンドグライダー)のレオだ。
「おいカイ、さっきから生臭い風が混じってる。厄介事の匂いだぜ」
テレパシーでレオの声が響く。カイは舌打ちし、ゴーグル越しに鋭く後方を確認した。黒い帆を掲げた三隻の飛行艇が、猛禽のように急速に距離を詰めてきていた。空賊『黒翼団』だ。
「ご指名のお出ましか! レオ、今日の荷物は絶対に渡せねぇ!」
カイが背負う革袋の中には、古ぼけた木箱が一つ。依頼主は、フードを目深にかぶった謎の老人。届け先は、地図にすら載っていない伝説の島『アトラスの揺りかご』。そして報酬は、一生遊んで暮らせるほどの金貨だった。
「お望み通り、遊んでやるぜ!」
カイが操縦桿を強く引くと、レオは鋭い叫び声を上げ、翼を垂直に立てて急降下した。重力に引かれ、弾丸のように雲海へと突っ込んでいく。追手の飛行艇が慌てて舵を切る音が、風切り音の中に混じった。
「馬鹿め、瘴気の海に飛び込むとは!」
黒翼団の嘲笑が聞こえる。だが、カイは笑っていた。彼は、ただの運び屋ではない。風の流れ、その息遣いを肌で感じ、次の風が生まれる場所を予測できる、最高の『風読み』だった。
雲海のわずか数メートル上で機体を水平に戻し、濃密な上昇気流『雲の呼吸(クラウドブレス)』を捉える。レオの巨体が、爆発的な加速で再び蒼穹へと舞い上がった。予測不能な機動に、黒翼団の一隻が対応しきれず、仲間同士で衝突する。
「上出来だ、レオ!」
しかし、安堵した瞬間、敵の旗艦から巨大な銛が射出された。レオの翼を掠め、機体のバランスが大きく崩れる。折からの積乱雲に突っ込み、視界は完全に奪われた。雷鳴が轟き、激しい風雨が二人を叩きのめす。なすすべもなく、カイとレオは螺旋を描きながら落下していった。
意識を取り戻した時、カイは見知らぬ森の中に倒れていた。レオも傷つき、傍らで苦しげに息をしている。不時着したらしい。鬱蒼と茂る木々は、まるで天を突くように巨大で、見たこともない瑠璃色の花が淡い光を放っていた。
「ここは……どこだ?」
カイが身を起こすと、森の奥から一人の少女が現れた。透き通るような銀髪を風になびかせ、古代の巫女のような装束を身にまとっている。
「あなたは『外』の人ですね。その荷物……『星の羅針盤』をお持ちですか?」
少女は真っ直ぐにカイの背負う革袋を見つめた。
彼女の名はエリア。この島で、世界の真実を守り続けてきた一族の末裔だという。
エリアに導かれ、カイは島の中心にある巨大な神殿へと足を踏み入れた。そこで彼が見たのは、信じがたい光景だった。神殿の中央に鎮座する巨大な水晶体が、弱々しい光を明滅させていたのだ。
「あれが『浮遊核(レビテート・コア)』。全ての空島を空に留めている、世界の心臓です。しかし、その力は尽きかけています」
エリアは言う。このままでは、全ての空島は沈黙の海へと墜落する、と。
「『アトラスの揺りかご』は、その浮遊核を再起動させるための聖地。そして、あなたの荷物『星の羅針盤』だけが、その場所を指し示すことができるのです」
黒翼団の目的も明らかになった。彼らは弱った浮遊核を自分たちの力で支配し、全空島の絶対的な支配者になろうと企んでいたのだ。
カイはゴクリと喉を鳴らした。ただの高額な配達依頼だと思っていた。それが、世界の運命を左右する鍵だったとは。
「冗談じゃない……俺はただの運び屋だ」
「いいえ」とエリアは首を振る。「あなたは羅針盤に選ばれたのです。最高の風読みである、あなたにしかこの使命は果たせません」
カイは拳を握りしめた。脳裏に、今まで飛び回ってきた空島の人々の顔が浮かぶ。いつも文句を言いながら荷物を受け取る酒場の主人。はにかみながら礼を言う花屋の娘。彼らのいる世界が、失われる。
「……わかったよ。届け先は『アトラスの揺りかご』。依頼は最後までやり遂げるのが、運び屋の流儀なんでね」
カイの瞳に、決意の光が宿った。
エリアの知識と、カイが取り出した星の羅針盤の力で、レオの傷は癒えた。羅針盤は、箱から出すと星屑のような光を放ち、一条の光で進むべき道を示し始めた。
「行くぞ、レオ! エリア、しっかり掴まってろ!」
三人を乗せた風切り鳥は、再び大空へと羽ばたいた。黒翼団の追撃は苛烈を極めたが、カイは風を読み、気流を乗りこなし、神業のような操縦で敵の包囲網を切り抜けていく。
光が指し示す先、そこは巨大な嵐の中心だった。雷が絶え間なく天と雲海を繋ぎ、暴風が渦を巻いている。
「この嵐の向こうに!?」
「はい! 揺りかごは、世界で最も激しい風に守られているのです!」
エリアが叫ぶ。黒翼団の巨大な旗艦も、嵐を前にして突入をためらっていた。
「カイ! 無茶だ!」レオが叫ぶ。
「無茶じゃなけりゃ、伝説の場所なんて呼ばれねぇだろ!」
カイはニヤリと笑い、嵐の中心へと機首を向けた。それは、もはや飛行ではなかった。落下し、吹き上げられ、木の葉のように翻弄されながら、風のわずかな隙間を縫って進む、命がけの舞踏だった。
幾多の困難を乗り越え、彼らはついに嵐の目にたどり着いた。そこは嘘のように静かで、虹色の光に満ちた巨大な空洞だった。空洞の中心には、祭壇のように設えられた岩盤が静かに浮かんでいた。
『アトラスの揺りかご』だ。
カイが祭壇に星の羅針盤を置いた瞬間、羅針盤はまばゆい光を放ち、空洞全体に光の柱を打ち立てた。その光が、弱っていた全ての浮遊核へと注がれていく。空島の世界が、再び力強い鼓動を取り戻していくのが肌で感じられた。
その時、嵐を無理やり突破してきた黒翼団の旗艦が姿を現した。
「小僧め、よくも……! 世界の力は、我々のものだ!」
旗艦から放たれた主砲が、祭壇を破壊せんと迫る。
「させるか!」
カイはレオを急上昇させ、旗艦へと真っ向から突っ込んでいった。配達で培った、誰よりも空を知り尽くした飛行技術。それは、巨大な戦艦の死角を正確に突き、その急所を穿つ一撃となった。カイとレオは、旗艦の動力部をかすめ飛び、致命的な損傷を与えることに成功する。制御を失った旗艦は、自らの重さに耐えきれず、轟音と共に沈黙の海へと墜落していった。
やがて嵐は晴れ、世界には穏やかな風が戻ってきた。浮遊核は完全に復活し、空島は崩落の危機を免れたのだ。
「ありがとう、カイ。あなたは世界を救った」
エリアが微笑む。カイは照れくさそうに頭を掻いた。
「俺は運び屋だ。荷物を届けただけさ」
依頼は完了した。だが、カイの新たな物語は、まだ始まったばかりだった。再生した世界には、新しい道と、新しい繋がりが生まれるはずだ。
「さて、次の依頼を探しに行くか。なあ、レオ」
「ああ。今度はもう少し、割のいい仕事がいいな」
カイは快活に笑い、相棒と共に再び大空へと飛び立った。伝説となった運び屋の翼は、希望の風を捉え、どこまでも青い空を翔けていくのだった。
空の運び屋と星の羅針盤
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