息吹の書庫、未完の空
0 3709 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

息吹の書庫、未完の空

第一章 霞む街と息吹の記憶

カイは息を吸う。

すると、見知らぬ王の戴冠式のファンファーレが鼓膜の奥で鳴り響き、黄金の杯に注がれた葡萄酒の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。息を吐く。今度は、雪に閉ざされた村で、暖炉のそばに寄り添う老婆の安らかな寝息が、カイ自身の唇から静かに漏れた。

彼は、呼吸するたびに、世界の歴史の中で語られてきた数多の物語の断片を、自身の記憶として宿していた。英雄の決意、裏切り者の後悔、名もなき少女の初恋。それらは鮮やかな情景として彼の内側を満たすが、どの物語も、まるで最も美しい旋律の途中で弦が切れたかのように、肝心な『結末』の部分だけが常に欠落していた。その不完全さが、カイの心に言いようのない渇望と焦燥を刻みつけていた。

カイが住む街は、『霞み』に侵されていた。かつては石畳の凹凸さえくっきりと見えた道は、今や水彩画を滲ませたように輪郭が曖昧だ。建物の輪郭はゆらぎ、人々の声は風に溶けて遠い。人々は物語を語らなくなった。酒場での武勇伝も、母親が子供に聞かせる寝物語も、恋人たちが囁き合う未来の夢も、すべてが色褪せた記憶の彼方に追いやられようとしていた。この世界は、人々が紡ぐ『物語』を血肉として形を成している。語ることをやめれば、世界は存在の根拠を失い、希薄な霧の中へと消えていくのだ。

「また、霞が濃くなったな」

街角のベンチで虚空を見つめていた老人が、カイに話しかけた。老人の顔もまた、目鼻立ちがおぼろげになりつつある。カイは頷き、アスファルトの裂け目から顔を出す名も知らぬ草花の、その緑の鮮やかさだけが奇妙に現実味を帯びているのを眺めた。

「あんたさんのその目……何かを探している目だ。まるで、物語の続きを探しているような」

老人の言葉に、カイは息を呑んだ。

「どうして……」

「わしにも覚えがある。ずっと昔、まだ物語がこの世界に満ちていた頃にな。もし本当に結末を探しているのなら、忘れられた『静寂の書庫』へ行ってみるといい。そこには、あらゆる物語の始まりと、そしておそらくは……終わりも眠っているやもしれん」

老人はおぼろげな指で、街のはずれ、霞が最も深く立ち込める一角を指し示した。その言葉は、カイの心に宿る無数の未完の物語たちを、わずかに震わせたのだった。

第二章 色のない寓話集

『静寂の書庫』は、その名の通り、音という音が存在を許されていないかのような場所にひっそりと佇んでいた。埃の匂いに混じって、乾いた紙と歳月の香りがする。カイが足を踏み入れると、床板の軋む音さえも、分厚い沈黙に吸い込まれて消えた。書架に並ぶ無数の本は、どれも背表紙の文字が霞み、読むことができない。まるで世界そのものの写し鏡のようだった。

カイは導かれるように、書庫の最も奥、月光が天窓から差し込む一角へと進んだ。そこに、一冊だけ、ぽつんと置かれた古書があった。革の装丁は滑らかだが、表紙には何の飾りもなく、タイトルもない。カイがそっと手に取ると、ずしりとした重みの代わりに、奇妙な軽さがあった。ページをめくると、中の文字も挿絵も、すべてが透明で何も描かれていない。ただ、指先に微かな物語の残響が、冷たい風のように触れるだけだった。

『色のない寓話集』。

老人の言葉が脳裏に蘇る。これだ、とカイは直感した。

彼は書架の間に座り込み、寓話集を膝の上に広げた。そして、自らの呼吸と共に流れ込んでくる物語の断片を、一つ、声に出して語り始めた。

「……絶海の孤島に、翼の折れた竜がいた。竜は空を夢見て、毎日崖から飛び降りたが、ただ蒼い海に落ちるだけだった」

カイの声が静寂に響く。すると、信じられないことが起きた。彼が語った言葉に応じて、寓話集の透明なページに、淡いインクが滲むように文字が浮かび上がったのだ。翼の折れた竜の姿が、儚い線画となって現れる。

カイは夢中で語り続けた。記憶にある物語を次々と紡いでいく。そのたびに寓話集は色を取り戻し、透明だった世界に次々と生命が吹き込まれていった。しかし、やはりどの物語も結末に差し掛かると、カイの言葉は喉の奥でつかえ、寓話集のインクもそこで途切れてしまう。結末だけが、頑なに空白のままだった。

カイは寓話集の最後のページにたどり着いた。そこだけは、他のどのページよりも分厚く、そして完全な空白だった。何の残響も聞こえない。だが、カイにはわかった。ここは、すべての物語の源泉であり、この世界を根底から支えるはずの『大い-なる物語』の、失われた結末が記されるべき場所なのだ。そして、自分の内に渦巻く無数の結末のない物語は、すべてこの巨大な空白から零れ落ちた雫なのだと。

第三章 世界の真理という禁忌

『色のない寓話集』を携え、カイは世界の中心に聳え立つという『源泉の塔』を目指した。そこは『大いなる物語』が生まれた場所であり、世界の始まりの場所だと伝えられている。霞は旅の道中でさらに濃くなり、もはや風景は夢の中のように頼りなく、時折、自分の足元さえ見失いそうになった。それでもカイは、寓話集に宿った微かな色彩だけを頼りに歩き続けた。

塔の内部は、螺旋状の階段が天へと続く、巨大な空洞だった。壁には無数の物語の情景が彫刻されていたが、そのどれもが摩耗し、判然としない。カイが最上階にたどり着いた時、寓話集が彼の腕の中で眩い光を放ち始めた。それはまるで、故郷に帰ったことを喜んでいるかのようだった。

光に導かれるように、カイが寓話集を中央の石舞台に置くと、最後の空白のページがひとりでに開かれた。そして、ページの上空に、光の粒子が集まり、一つの映像を結び始めた。

それは、カイがずっと探し求めていた『大いなる物語』の結末だった。

勇者が魔王を打ち倒し、世界に永遠の平和が訪れる。そんな結末をカイは想像していた。

しかし、光が映し出した光景は、彼のあらゆる予想を根底から覆すものだった。

そこに映し出されたのは、語り部とおぼしき人物が物語を完結させ、最後の言葉を紡いだ瞬間だった。その瞬間、彼が語っていた英雄も、救われた王女も、平和になった世界そのものも、すべてが満ち足りた微笑みを浮かべながら、祝福の光の粒子となって霧散していく。

『物語が完結する時、語られた世界はその役目を終え、美しく無に還る』

それが、この世界の真理。禁忌とされてきた本当の結末だった。

人々が物語を語ることをやめたのは、絶望したからではなかった。世界の消滅を避けるための、無意識の、そしてあまりにも切実な自己防衛本能だったのだ。結末を知らないまま、物語を途中で止めることで、かろうじてこの世界を存続させていたのだ。

そして、カイは悟る。

呼吸するたびに彼の中に流れ込んできた、あの無数の『結末のない物語』こそが、世界が完全に終わってしまうことを防ぐための、最後の安全装置だったのだと。彼は、世界が生き続けるために生み出された、未完の物語の集合体そのものだったのだ。

第四章 永遠の語り部

世界の真理を前に、カイは選択を迫られた。このまま結末を世界に解き放ち、すべてを美しく、完璧に終わらせるのか。それとも、霞みゆく不完全な世界を、未完のまま存在させ続けるのか。

彼の脳裏に、旅の途中で出会った人々が浮かんだ。輪郭は曖昧でも、確かに笑い、悲しみ、生きていた人々。霞む街角で、それでも懸命に咲いていた名もなき草花の鮮やかな緑。不完全で、頼りなくて、だからこそ愛おしい、この世界。

「……終わりなんて、いらない」

カイの唇から、静かな決意がこぼれた。

彼はそっと、寓話集の最後の空白のページに手を置いた。それは、世界の終わりを記す場所であり、そして、新たな物語が始まる場所でもあった。

「僕が、最後の物語になろう。決して終わることのない、永遠の序章に」

カイがそう囁くと、彼の身体が足元から淡い光の粒子となって解け始めた。彼の記憶、彼の存在、彼が宿してきた数えきれない未完の物語のすべてが、寓話集の空白のページへと吸い込まれていく。それは痛みも悲しみもない、ただ世界と一つになるような、穏やかな消失だった。

やがてカイの姿が完全に消えた時、寓話集の最後のページに、新しい物語の最初の一文だけが、黄金色のインクで静かに刻まれた。

『少年は、息を吸った。』

その瞬間、世界の霞が一斉に晴れ始めた。輪郭を取り戻した街並み、鮮やかさを取り戻した空。人々は、まるで長い夢から覚めたかのように顔を上げ、自然と物語を口にし始めていた。しかし、彼らが語る物語は、以前とは少しだけ違っていた。どの物語も、どこか余白を残し、結末へと向かう途中の、最も美しい瞬間のまま語り継がれていく。

カイという『永遠に結末を持たない物語』が世界の礎となったことで、この世界は、完成による消滅の恐怖から永遠に解放されたのだ。

世界はこれからも、不完全な美しさの中で、語られ、紡がれ、息づいていく。誰もその名を知らない、一人の少年の呼吸と共に。永遠に。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る