忘れられた色の標本
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忘れられた色の標本

第一章 色褪せた街と踊る影

カイの影は、彼の意志とは無関係に生きている。それは床や壁の上を滑る黒い染みというより、気まぐれな黒猫に似ていた。カイがカフェの椅子に深く腰掛けている間も、影は勝手にテーブルの脚を登り、シュガーポットの縁で軽やかなダンスを踊っている。時折、他の客の足元に伸びていき、彼らの影の輪郭をそっとなぞっては、何か情報を盗み見るように素早く戻ってくる。カイはそんな影の奇行に慣れっこで、ただ黙ってため息をつくだけだった。

この街は、忘却で編まれている。人々が何かを忘れるたび、その記憶は『幽霊植物』としてアスファルトの裂け目や建物の壁際に芽吹くのだ。遠い初恋の記憶は、はにかむように咲く薄紅色のカスミソウに。取り返しのつかない後悔は、地面をきつく締め付ける黒い蔦に。街はさながら巨大な記憶の庭園であり、人々はその中を、自らが失くしたものの名も知らずに歩いていた。

だが近頃、その庭園の様子がおかしい。街から、ゆっくりと、しかし確実に色彩が奪われているのだ。鮮やかだったはずの幽霊植物は色褪せ、まるで古い写真のようにセピア色に染まっている。それと歩調を合わせるように、人々は無気力になっていった。カフェの窓から見える往来は、誰もが俯き、表情を失くした操り人形のようだった。笑い声も、賑やかな話し声も、まるで分厚いガラスの向こう側のように遠く聞こえる。

「また、あれか」

カイの視線の先、街路樹の根元に、白く蝋のような質感を持つ、棘だらけの植物が群生していた。ここ数週間で急速に増殖している、誰も名前を知らない新種の幽霊植物だ。それが現れる場所では、決まって周囲の色が抜け落ちていた。

その時、カイの影がぴたりと動きを止めた。影はカフェの窓ガラスに張り付き、その白い植物を凝視している。影の輪郭が、まるで恐怖に震えるように細かく波打った。そして、まるで何かに引き寄せられるように、ガラスをすり抜けて外へと伸びていく。

やめろ、とカイは心の中で叫ぶ。影が例の植物に触れようとした瞬間、彼の全身を氷水のような悪寒が駆け巡った。それは単なる冷たさではない。胸の奥にぽっかりと穴が開き、喜びも悲しみも、ごっそりと何か大きな力に吸い出されるような、空虚な感覚だった。カイは思わず胸を押さえる。影は慌てて彼の足元に戻り、罪悪感に苛まれるように小さく丸まった。

影だけが、あの白い植物の正体を知っている。そして、その根源に触れることができる。カイには、確信にも似た予感があった。

第二章 無意識の標本箱

街の灰色化は加速していた。かつては人々の忘却を静かに彩っていた幽霊植物は、今や感情を吸い取る白い棘の植物に駆逐され、街全体が巨大な墓標のように沈黙している。カイは、絶えず震え続ける自身の影に導かれるように、何年も開けていない実家の屋根裏部屋にいた。

影は、部屋の隅で山と積まれたガラクタの一点を、じっと指し示している。そこだけが、まるでスポットライトを浴びているかのように、カイの意識に強く焼き付いた。カビと埃の匂いが鼻をつく中、彼は古い毛布や卒業アルバムを掻き分け、その奥から小さな木箱を取り出した。手に取った瞬間、指先に懐かしい木の温もりが伝わる。蓋には、稚拙な手つきで彫られた星の模様があった。

『無意識の標本箱』。

なぜか、その名前が脳裏に浮かんだ。幼い頃、森で偶然拾い、理由もなく宝物として大切にしていたはずの箱。だが、いつからだろう。その存在自体を、カイはすっかり忘れていた。まるで、幽霊植物を生み出す忘却の法則に、彼自身が取り込まれてしまったかのように。

軋む音を立てて蓋を開けると、中には色とりどりの幽霊植物の枯れた葉や、ガラス玉のような種子が綿に包まれて収められていた。それらは、まるで琥珀の中に閉じ込められた太古の記憶のように、静かな光を放っている。どうしてこんなものを集めていたのか、全く思い出せない。だが、胸の奥が微かに疼いた。

その中で、ひとつだけ異質なものがカイの目を引いた。箱の底で、他のどの標本とも交わらずに佇む、夜空を凝縮したような黒曜石の種子。吸い込まれそうなほどの深い黒。カイは無意識に指を伸ばし、その冷たく滑らかな表面に触れた。

瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

影がカイの身体から引き剥がされるように激しく身悶えし、黒い粒子となって霧散しかける。同時に、カイの脳内に膨大なイメージの洪水が流れ込んできた。それは映像ではない。音でもない。純粋な『感情』の奔流だった。孤独、悲嘆、虚無、そして、世界そのものを見放すほどの、底なしの絶望。カイは立っていられず、その場に崩れ落ちた。

第三章 創造主の絶望

意識が戻った時、カイは屋根裏部屋の床に倒れていた。しかし、世界の見え方がまるで違っていた。彼の隣には、先ほどまで足元にまとわりついていた影が、はっきりとした輪郭を持つ人型となって静かに佇んでいた。それはもうカイの付属物ではなく、独立した存在としての意志を宿しているように見えた。

影が、言葉ではなくイメージで語りかけてくる。黒曜石の種子に触れたことで、カイと影の間にあった境界が融解し、影が『視て』きたものがカイ自身の感覚として流れ込んできたのだ。

この世界は、ひとりの『創造主』が見る壮大な夢だった。幽霊植物は、創造主が自らの記憶を整理し、精神の均衡を保つために切り離した『忘却』の欠片。街に咲く一つ一つの花が、蔦が、創造主の失われた記憶そのものだったのだ。

そして、あの白い植物の正体。それは、創造主が自らの内から湧き上がる、あまりにも巨大な『絶望』の感情を封じ込めるために生み出した、自己抑制システムだった。忘却という行為だけでは処理しきれない、世界そのものを破壊しかねないほどの絶望。それを無数の白い植物に変え、他の感情を養分とすることで、かろうじて封じ込めていたのだ。

だが、その封印は限界に達していた。創造主の無意識が、その苦しみからの解放を求め始めたのだ。白い植物の変異と増殖は、封じられた絶望が世界中の感情を吸い尽くし、全てを無に還すことで夢から覚めようとする、世界の初期化の兆候だった。

カイの影だけが根源を触知できた理由も、今ならわかる。幼いカイが拾ったあの標本箱こそ、創造主がシステムを構築する際に切り離した、『最初の忘却』の産物だったのだ。箱に触れ、その存在を記憶に留めていたカイは、知らず識らずのうちに創造主の無意識と微かな繋がりを持つ、唯一の特異点となっていた。影は、その繋がりを感知するアンテナだったのである。

「行かなければ……」

カイは呟いた。影が頷き、街の中心を指し示す。そこには、かつて街で最も古い教会があった。今は廃墟となっているその場所に、全ての白い植物の母体である『根源樹』が根を張っている。世界の感情を吸い上げる、巨大な絶望の心臓部へ。

第四章 影が紡ぐ選択

教会の跡地は、完全な沈黙に支配されていた。音も、色も、匂いさえも存在しない。空気そのものが希薄で、呼吸をするたびに生命力が削られていくようだった。その中心に、巨大な根源樹が天を衝いていた。枝も葉もない、純白の骨のような幹が、空虚に向かって無数に伸びている。

樹の中心部、かつて祭壇があった場所には、標本箱にあったものと同じ、巨大な黒曜石の『核』が脈打つように明滅していた。それが創造主の絶望そのものであると、カイは直感した。

核に近づくと、声が聞こえた。それはカイの脳内に直接響く、選択の問いかけだった。

この絶望を再び封じるか? 世界は一時的に元に戻るだろう。だが、いつか同じ悲劇が繰り返される。

それとも、この絶望を解放するか? 世界は溶け合い、全ては無に還る。その先には、新たな創造があるかもしれない。

破壊による延命か、終焉による再生か。カイの足がすくむ。どちらを選んでも、何かが決定的に失われる。彼が逡巡する中、静かに佇んでいた影が、すっと前に出た。

影はカイの手から『無意識の標本箱』をそっと受け取ると、躊躇なく絶望の核へと歩み寄っていく。そして、カイに向き直り、最後のイメージを送ってきた。

それは、第三の選択だった。

絶望を封じるのでも、解放するのでもない。ただ、その存在を『理解』し、無数の記憶と『分かち合う』こと。

カイは、影の意図を悟った。彼は大きく息を吸い、頷く。そして、影が掲げた標本箱に向かって、心の中で強く願った。開け、と。

箱の蓋がひとりでに開き、中に納められていた色とりどりの種子や枯れ葉が、光の粒子となって舞い上がった。それは、創造主が忘れたかったはずの、しかし確かに存在した、喜び、愛しさ、ささやかな希望、そして名前もつけられないほどの無数の記憶の欠片たちだった。

カイの影が、その黒い手をそっと核に触れさせる。その瞬間、影の身体を通して、巨大な絶望の奔流が、舞い上がる無数の記憶の粒子へと注ぎ込まれていった。それは、一滴のインクを広大な海に溶かすような作業だった。一つの巨大で無機質な『絶望』という感情を、数えきれないほどの小さな、『名前のある感情』へと分解し、昇華させていく儀式。

根源樹が眩い光を放ち、その白い幹に亀裂が走る。だがそれは破壊の音ではなかった。むしろ、硬い殻を破って新しい命が生まれるような、喜びに満ちた産声に聞こえた。

白い植物は砂のように崩れ落ち、その跡から、見たこともないような色と形をした新しい幽霊植物が一斉に芽吹き始めた。空には淡い曙光が差し、街に色が、音が、そして温かい感情の匂いが戻ってくる。

世界は終わらなかった。しかし、以前と同じ世界でもない。人々の忘却から生まれる植物に、創造主の昇華された絶望の欠片――深い慈愛にも似た感情が宿るようになったのだ。

カイがふと足元を見ると、影は静かに彼の足と一体化していた。もう勝手に踊り出すことはないかもしれない。だが、影の黒は以前よりもずっと深く、温かいものに感じられた。カイは空を見上げ、芽吹き始めた新しい世界の息吹を、胸いっぱいに吸い込んだ。それは、どこか切なく、そして限りなく優しい香りがした。

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