残光のクロニクル
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残光のクロニクル

第一章 霞む世界の輪郭

俺の瞳には、世界が放つ光の濃淡が映る。人々はそれを「存在の輝度」と呼ぶ。歴史を重ねた古書店は琥珀色の深い光をまとい、生まれたての仔猫は真珠のように淡く瞬く。あらゆる存在が、固有の光を宿しているのだ。だが、俺自身の過去だけは、まるで深い霧に閉ざされたかのように、何も見えなかった。思い出そうとすればするほど、思考は白く霞んでいく。

「カイ、またぼんやりしてる」

隣を歩くミオの声が、俺を現実へと引き戻した。彼女の輝度は、春の陽だまりのように暖かく、安定している。その光を見ているだけで、俺の心の霧がわずかに晴れる気がした。

「ああ、ごめん。あの街灯、少し光が弱くなっている気がして」

俺が指さした先にある、古びたガス灯。かつては港町を照らす道標として、力強い黄金色の輝度を放っていたはずだ。しかし今、その光は頼りなく揺らめき、まるで燃え尽きる寸前の蝋燭のようだった。ミオは不思議そうに首を傾げる。

「そう? いつもと同じに見えるけど」

彼女には見えない。ほとんどの人間には、存在が完全に消え去るその瞬間まで、輝度の減衰は認識できないのだ。俺だけが、この世界から静かに何かが剝がれ落ちていく音を、その光の揺らぎを通して聴いていた。そして最近、その音は徐々に大きくなり、世界全体を覆う不協和音となりつつあった。

第二章 残光の砂時計

街の中央広場から、巨大な時計塔が姿を消した。物理的になくなったわけではない。塔はそこに聳え立っているのに、誰もその存在を認識しなくなったのだ。人々は、待ち合わせの場所だったはずの広場を目的もなく通り過ぎ、時計の鐘が鳴らないことを誰も不思議に思わない。まるで、初めからそこには何もなかったかのように。

俺は、誰にも見向きもされなくなった時計塔の麓で、奇妙なオブジェを見つけた。手のひらに収まるほどの、黒曜石で縁取られた小さな砂時計。その中には砂ではなく、星屑のように微細な光の粒子が詰まっていた。

「残光の砂時計…」

祖父から聞かされた、伝説の道具。存在が世界から完全に忘れ去られた時、その最後の輝きが粒子となって集まるという。俺は息を呑み、そっと砂時計を逆さにした。

瞬間、世界が反転した。

耳に響くのは、鐘の音。人々の楽しげな喧騒。恋人たちの囁き。腕に時計を巻いた男が、焦ったように塔を見上げる。その視線の先で、長針が正午を指し示した。インクと古紙の匂い、焼き立てのパンの香り、恋人に渡す花束の甘い芳香。消え去った時計塔が持っていた、最も鮮烈な記憶の奔流が、俺の意識を洗い流していく。それはほんの数秒の幻だったが、胸を締め付けるほどの切なさを残した。

第三章 忍び寄る影

世界から色が失われていく。輝度の低下は、もう俺の気のせいではなかった。歴史的価値のあった橋が「ただの古い道」になり、街の誰もが口ずさんでいた流行歌は、誰の記憶からも消え去った。

そして、最も恐れていたことが起こった。

「ねえ、カイ。私のこのブレスレット、綺麗でしょ?」

ミオが左腕を差し出す。そこには、彼女が祖母の形見だと言って、片時も外さなかった銀のブレスレットが…なかった。俺の目には、彼女の白い腕が見えるだけだ。だが、ミオは確かにあるはずのものに指を触れ、愛おしそうに微笑んでいる。

「ミオ…そこには、何もない」

「え? 何言ってるの? この銀細工の…」

ミオの言葉が途切れ、彼女の表情が凍りつく。自分の腕を見つめる瞳が、困惑に揺れる。彼女の輝度が、その一瞬、大きく揺らめいた。まるで、冷たい風に吹き消されそうになる炎のように。

その時だ。俺は見た。ミオの背後に、陽炎のように揺らめく黒い靄を。それは輝度を持たない、絶対的な「無」。その影が、ミオの存在から細い光の糸を吸い上げているのが、はっきりと見えた。あれが、世界から輝度を奪う「忘却の影」の正体なのか。影は俺の視線に気づいたかのように、すっと掻き消えた。残されたのは、自分の記憶さえ信じられなくなったミオの、不安げな横顔だけだった。

第四章 消えゆく旋律

忘却は、伝染病のように広がっていった。俺は「残光の砂時計」を手に、消えゆく存在の最後の輝きを集めて回った。それは、失われゆく世界への、俺なりの弔いだった。

ある雨の日、ミオの部屋を訪れると、彼女は窓の外を眺めて泣いていた。

「どうしたんだ?」

「わからないの。なんだか、すごく悲しくて。何かとても大切なものをなくしてしまった気がする。でも、それが何なのか思い出せない…」

俺は部屋の隅に、輝度を完全に失った古いオルゴールが転がっているのを見つけた。ミオが幼い頃、祖母に買ってもらった宝物だ。その存在は、今やミオ自身の記憶からも消え去っていた。

俺はオルゴールを拾い上げ、砂時計を傾けた。

流れ込んできたのは、温かい記憶の光。幼いミオの笑い声。優しく彼女の頭を撫でる、皺の刻まれた祖母の手。そして、オルゴールが奏でる、素朴で美しい旋律。それは、二度と戻らない幸せな時間の結晶だった。

記憶の追体験から戻った俺の頬を、涙が伝っていた。許せなかった。こんなにも温かい記憶を、思い出を、理由もなく奪い去っていく影の存在が、心の底から許せなかった。

第五章 影との対峙

決意を固めた俺の前に、「忘却の影」が再び姿を現した。それは特定の形を持たず、ただ空間が黒く歪んだような、虚無の塊だった。だが、その中心から直接、俺の脳内に声が響いてきた。

《探していたぞ、観測者よ》

声は感情がなく、乾いていた。

《我々は、未来だ》

影が語った内容は、俺の想像を絶するものだった。彼らは、遥か未来の世界で生きる人類の末裔。その世界では、存在の輝度が完全に枯渇し、文化も、歴史も、人々の記憶さえも失われ、すべてが等しく無に帰したのだという。彼らは、その虚無の中から、過去の世界に干渉する術を見つけ出した。過去から輝度を吸収し、それをエネルギーとして未来を再構築するために。

《お前のその眼も、我々が与えたものだ。輝度を効率よく見つけ出し、集めるための…》

そして、影は俺の核心に触れた。

《お前の失われた記憶は、我々が消した。お前は、かつて我々の計画に同意した最初の協力者だったのだから。過去を捨て、未来を選んだはずだ》

頭を殴られたような衝撃。俺の記憶の空白は、事故や病気のせいではなかった。俺自身が、この世界を犠牲にすることを選んだ結果だったというのか。

第六章 選択の天秤

《さあ、戻ってこい。我々と共に、新たな世界を創造するのだ。それとも、このまま緩やかに色褪せ、何もかもが消えゆく世界と運命を共にするか?》

影が、黒い腕のようなものを伸ばしてくる。究極の選択。虚無から世界を再創造するという、神にも等しい大義。それと、いずれは消えゆく、温かい日常。

俺の脳裏に、ミオの笑顔が浮かんだ。ブレスレットを失くしたと困惑していた顔。理由もわからず涙を流していた横顔。たとえ消えゆく運命だとしても、そのすべてが愛おしかった。失われた過去の記憶など、どうでもよかった。俺が守りたいのは、思い出せない過去ではなく、彼女がいる「今」だった。

「断る」

俺は、自分自身の胸に手を当てた。この能力が未来からの借り物だというのなら、今こそ、それを与えられた意味を捻じ曲げてやる。

「俺は、俺の輝度で、この世界を守る」

俺は全身全霊で、自らの存在の輝度を燃え上がらせた。それは、闇を払う閃光。忘却の影は、俺から放たれる凄まじい光に怯むように後ずさった。俺の記憶や命と引き換えにしても、この世界の消滅を、一秒でも遅らせてみせる。それが、俺の出した答えだった。

第七章 君のいた輝き

俺の抵抗が、どれほどの意味を持ったのかはわからない。世界の輝度が緩やかに失われていく流れを、完全に止めることはできなかった。だが、忘却の影が以前のように無差別に輝度を奪うことはなくなった。俺という予期せぬ抵抗体が、未来人の計画に僅かな躊躇いを生ませたのかもしれない。

俺は、ミオの隣を歩いていた。街の景色は、以前よりも少しだけ色褪せて見える。

ふと、俺は鼻歌を歌った。残光の砂時計が見せてくれた、あのオルゴールの旋律だ。

「その歌、なあに?」

ミオが不思議そうに小首を傾げる。

「さあな。なぜか、ずっと昔から知っているような気がするんだ」

「ふふ、変なの。でも…なんだか、とても懐かしい感じがする」

そう言って微笑んだミオの輝きは、確かにここに在った。

世界はいつか、完全に輝きを失うのかもしれない。すべての記憶が忘却の彼方へと消え去る日が、来るのかもしれない。それでも、俺はここにいる。消えゆく世界の、最後の輝きを見届ける記録者として。この手に握りしめた「残光の砂時計」が、かつてこの世界に確かに存在した無数の愛おしい輝きの、唯一の証人となるだろう。

俺は空を見上げた。薄れゆく空の青さに、失われた誰かの記憶を想いながら。


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