影葬のアリア
第一章 影と砂時計
俺は『影啜りの能力者』だ。その名が呪いなのか、あるいは罰なのか、もはや思い出すこともできない。アスファルトに伸びる他人の影に指先が触れるたび、その存在の最も大切な記憶と、最も深い悲しみが、奔流となって俺の魂に流れ込む。温かな追憶と、凍てつくような絶望。二律背反の感情は俺の精神を削り取り、代わりに俺自身の過去を、薄霧の向こうへと押しやっていく。
黄昏時、雑踏の中で老人の影を啜った。彼の胸に去来したのは、半世紀前に死別した妻と交わした最後の約束の記憶。そして、それを守れなかったという、錆びた鉄の味がする後悔だった。俺はよろめき、壁に手をつく。脳裏から、自分の母親の顔がまた少し、不鮮明に掠れて消えた。他者を識るたびに、俺は俺でなくなっていく。
そんな虚ろな日々の中、俺はソレを見つけた。打ち捨てられた路地裏、瓦礫の山に埋もれるようにして、古びた砂時計が横たわっていた。掌に収まるほどの大きさで、ガラスの中には色とりどりの砂が鈍く輝いている。手に取った瞬間、全身に電撃のような感覚が走った。まるで、永らく失っていた身体の一部が、あるべき場所に戻ってきたかのような、奇妙な帰巣本能。俺はその砂時計を『虚ろな砂時計(ウロボロス)』と名付け、懐にしまった。
その夜、初めて鮮明な夢を見た。どこまでも続く、灰色の石でできた『無限の回廊』。その遥か先で、一点の『絶対的な光』が、まるで心臓のように脈打っている。その光景は、俺が啜ってきた誰の記憶にも存在しない。俺だけの、孤独な幻視。そして気づく。この幻を見るたびに、俺の記憶の欠落は、より決定的なものになっていくのだと。
第二章 色褪せる結晶
「カイ。また、そんなところで空を見てる」
背後からの声に振り返ると、花屋の少女リナが、太陽を背負うようにして立っていた。彼女の生命力に満ちた笑顔は、影を生きる俺にとって眩しすぎる。
「リナ。……この塵、綺麗だと思わないか」
俺は宙を舞う、光に照らされてきらめく微粒子を指さした。世界から消えゆく『想い』が最後に放つ輝き、『無色の塵』だ。
「綺麗だけど、少し寂しい色ね。カイみたい」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。その屈託のなさが、俺の心をわずかに苛む。
彼女の幼い弟が、原因不明の病に伏せった時、リナは俺に助けを求めた。俺はためらった末、眠る弟の影にそっと触れた。流れ込んできたのは、肉体を蝕む激しい痛みと、それでも「生きたい」と叫ぶ、純粋で強烈な渇望。その想いを吸収した代償は大きかった。翌日、リナと交わした昨日の会話を、俺は全く覚えていなかった。
「カイ、時々すごく遠い場所にいるみたい。約束したじゃない、弟が元気になったら、丘の上の花畑に行こうって」
リナの不安げな瞳から、俺は目を逸らすしかなかった。約束も、交わした言葉さえも、俺の中からこぼれ落ちていく。
その夜、事件は起きた。懐の砂時計が、不意にかすかな音を立てたのだ。見ると、色とりどりの砂のうち、鮮やかな青色だった一粒が、輝きを失って完全に無色透明な塵へと変わっていた。その瞬間、俺の脳裏に、焼けるような映像が閃いた。
『――リナを、守れ』
誰の声だ?知らないはずなのに、ひどく懐かしい声。そして、全てが灰燼に帰す世界のビジョン。俺は意味も分からず、ただ戦慄した。
第三章 回廊の呼び声
『無限の回廊』とは何なのか。あの声は誰なのか。俺は答えを求め、禁忌とされる場所へ足を踏み入れた。かつて大災害があったという廃墟。そこには、行き場を失った無数の『強い想い』が『想いの結晶』となり、澱のように溜まっているという。
廃墟の中心で、俺は満月が放つ『原初の光』を浴びた。自らの寿命がごっそりと削り取られていく感覚に歯を食いしばりながら、俺は地面に手を突き、蓄積された全ての想いを一息に啜った。憎悪、後悔、愛情、絶望――何百、何千という魂の叫びが俺を貫く。
意識が途絶える寸前、俺の視界は再びあの回廊に囚われた。今度は、その全貌が見えた。生命の気配が一切ない、完全な静寂と虚無。花も、風も、光さえも色を失い、ただ灰色の塵だけが舞う、死んだ世界。あれは、遥か未来の、この世界の姿だった。想いが完全に消滅し、新たな生命が二度と生まれることのなくなった、終末の光景。
「ああ……ッ!」
絶望的な幻視から解放された俺の目の前で、砂時計の砂がまた一粒、色を失った。そして、より鮮明なメッセージが流れ込んでくる。
『回廊は避けられぬ未来。光は始まりの意志。お前は、最後の希望』
第四章 絶対的な光の正体
そこからの日々は、加速する崩壊だった。俺が人々の影を啜り、悲しみを背負うたびに、砂時計の砂は次々と色を失っていった。そしてその度に、俺は世界の真実と、自らの役割を理解していく。
この世界は、いつか必ず想いが枯渇し、死に至る運命にあること。
『無限の回廊』で俺が見た『絶対的な光』は、その絶望の未来から、たった一人、世界の法則に抗った未来の俺自身が放った『最後の想いの結晶』であること。
その結晶には、想いが枯渇することなく、新たな生命へと永遠に受け継がれる新しい世界の循環システム――『記憶の設計図』が込められていること。
俺が『影啜り』になったのは、時空を超えて飛んできたその結晶が、過去の俺の魂に宿ったから。記憶を失い続けたのは、俺の矮小な記憶領域が、未来からの膨大な設計図の情報に侵食されていたからに他ならなかった。
そして、ついに最後の砂が、その輝きを失った。
全てを悟った俺の前に、リナが息を切らして駆けつけた。俺の存在が希薄になっていくのを、彼女は本能で感じ取ったのだ。
「行かないで、カイ!どこにも行かないで!」
彼女は泣きながら俺の腕に縋りつく。その温もりが、涙が、俺の最後の迷いを断ち切った。俺は、俺が吸収してきた全ての記憶――老人の後悔も、病床の少年の渇望も、そしてリナの笑顔も、全てを胸に抱いた。
俺は微笑んで、彼女の頬に触れた。
「大丈夫だよ、リナ」
「君のいる世界が、色を失うくらいなら」
俺は虚ろになった砂時計を天に掲げた。自らの影を、吸収した全ての想いを、そして俺という存在の全てを、始まりの光へと捧げるために。
第五章 名もなきアリア
俺の身体は光の粒子となり、世界に溶けていった。古い法則は崩壊し、新しい循環が始まる。人々が抱いた『強い想い』は、もはや『無色の塵』となって消えることはない。それは温かい光となり、巡り巡って、新たな生命の揺りかごとなる。世界は、再生されたのだ。
――数年後。
街はかつてないほどの活気に満ちていた。季節は巡り、花々は力強く咲き誇る。小さな花屋を営むリナは、客に笑顔で花束を手渡していた。彼女の傍らには、すっかり元気になった弟がいる。それは誰もが望んだ、幸せな光景だった。
ふと、リナは空を見上げた。澄み渡る青空。それなのに、なぜだろう。理由もなく胸が締め付けられ、一筋の涙が頬を伝った。
まるで、とても大切な誰かを忘れてしまったような、言いようのない喪失感。
しかし同時に、胸の奥底から、守られているような、温かい何かが込み上げてくる。
誰だっただろう。寂しい色をして、でも、誰よりも優しい瞳で、自分を見つめてくれていた人は。
その時だった。
リナの瞳の奥に、一瞬だけ、星のような光がきらめいた。
それはかつて、孤独な青年だけが見つめていた、世界の希望――『絶対的な光』の、確かな片鱗だった。
彼の存在は世界から消え去った。しかし、彼が紡いだ想いの歌(アリア)は、名もなき光として、この世界に、そして愛した人々の心に、永遠に響き続ける。