忘却の森と記憶の修理屋

忘却の森と記憶の修理屋

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第一章 記憶を食べる少女

リクトには、物心ついた頃から自分自身の過去がなかった。孤児院の固いベッド、窓から見える灰色の空、そして、触れたモノに残された他人の記憶の断片。それが彼の世界の全てだった。古びたベンチに手を置けば、そこで愛を囁き合った恋人たちの残像が見え、捨てられた人形を拾えば、持ち主だった少女の泣き顔が脳裏に瞬く。この呪いのような力を持つがゆえに、彼は人との深い関わりを避け、いつも孤独の影を引きずって生きていた。自分の根源が空っぽであるという事実が、彼を常に不安にさせた。

そんなある雨の日、リクトは運命に出会う。

湿った石畳の匂いが立ち込める裏路地で、一人の少女が倒れていたのだ。銀糸のような髪は雨に濡れ、薄汚れたワンピースから覗く肌は雪のように白い。空腹か、と直感したリクトは、懐からなけなしのパンを取り出して差し出した。しかし、少女はかぶりを振る。そして、虚ろな翡翠色の瞳で、リクトが大切に懐にしまっていた小さなオルゴールをじっと見つめた。

それは、リクトが唯一持っていた、出自の分からない自分の物だった。錆びつき、音も鳴らないガラクタ。だが、これに触れると、なぜか胸の奥が締め付けられるような、言いようのない悲しみの記憶が靄のように立ち上るのだ。

「お腹、すいたの……。それ、美味しそう……」

少女が震える指で示したのは、パンではなくオルゴールだった。リクトが戸惑っていると、彼女はふらりと立ち上がり、彼の手にそっと触れた。その瞬間、リクトの脳裏をいつもかすめていたオルゴールの悲しい記憶が、まるで糸を引かれるように少女の方へと流れ込んでいくのを感じた。

「……あむ」

少女は小さく呟くと、満足そうに微笑んだ。頬には血の気が戻り、瞳には力が宿っている。

「ごちそうさま。とっても悲しくて、しょっぱくて、美味しかった」

リクトは言葉を失った。目の前で起きたことが理解できなかった。少女は、記憶を、食べた……?

「わたしはシオン。記憶を食べるの」

悪戯っぽく笑う彼女の姿は、この世の理から外れた、あまりにも幻想的な存在に見えた。こうして、空っぽの少年リクトと、記憶を糧にする不思議な少女シオンの、奇妙な日々が始まった。

第二章 温かくてしょっぱい味

シオンと共に過ごす時間は、リクトの世界を一変させた。彼女は天真爛漫で、好奇心の塊だった。リクトが疎んできた自らの能力についても、「すごい!素敵!まるで世界に忘れられた物語を見つけるみたい!」と目を輝かせた。彼女の言葉は、固く閉ざされていたリクトの心を、少しずつ溶かしていった。

シオンの「食事」は、街に潜む人々の悲しみだった。

「あそこのおばあさん、とっても美味しそうな匂いがする」

シオンが指さす先には、広場のベンチで一人、鳩に餌をやる老婆がいた。リクトが恐る恐る老婆の荷物に触れると、鮮烈なビジョンが流れ込んでくる。戦地へ向かう息子の背中、届いた死亡通知、そして、何十年経っても色褪せない深い哀切。

リクトがその情景を伝えると、シオンはこくりと頷き、老婆に駆け寄った。彼女が老婆の手を握ると、老婆は一瞬、遠い目をして、それからふっと穏やかな笑みを浮かべた。

「……なんだか、胸のつかえが取れたようだ。ありがとう、お嬢ちゃん」

息子を失った悲しみの記憶そのものは消えていない。だが、その記憶に纏わりついていた鋭い痛みだけが、綺麗に抜け落ちたようだった。老婆の顔には、安らかな諦観が浮かんでいた。

リクトは自分の能力を使い、シオンが食べるべき「辛い記憶」を探す手伝いをするようになった。恋人に裏切られた若者の怒り、夢を諦めた音楽家の挫折、大切なペットを失った子供の悲嘆。シオンはそれらを「美味しい」と言って食べた。そして記憶の棘を抜かれた人々は、少しだけ軽くなった心で、また日常へと戻っていく。

初めてだった。自分の力が、誰かの役に立つということが。人々の顔に浮かぶ安堵の表情を見るたび、リクトの胸には温かいものが満ちていく。シオンの隣が、いつしか彼の居場所になっていた。

「シオンは、どうして記憶を食べるんだ?」

ある夜、月明かりの下でリクトは尋ねた。

「悲しい記憶は、放っておくとその人を縛り付けてしまうから。だから、わたしが少しだけ軽くしてあげるの」

そう言って微笑む彼女の横顔は、時折、ひどく寂しげに見えた。まるで、食べた全ての悲しみを、その小さな体に閉じ込めているかのように。

「美味しい記憶はね、温かくて、少しだけしょっぱいんだよ」

その言葉の意味を、この時のリクトはまだ知らなかった。

第三章 忘却の代償

季節が巡り、街路樹が黄金色に染まる頃、シオンは頻繁に倒れるようになった。あれほど旺盛だった食欲も落ち、日に日にその体は透き通り、まるで陽炎のように儚げになっていく。リクトが必死に介抱するが、彼女の衰弱は止まらない。

ある嵐の夜、ついにシオンは真実を打ち明けた。

「わたしね、本当は忘却の森の精霊みたいなものなの」

消え入りそうな声で、彼女は語り始めた。人々の悲しみを癒すために記憶を食べてきたが、その負の感情は消えることなく、全て彼女の中に蓄積されていたのだ。他人の悲しみが、彼女の存在そのものを内側から蝕んでいた。

「もう、あまり時間がないの。たくさんの悲しみを食べ過ぎちゃった」

リクトは言葉を失った。彼女の優しさが、彼女自身を滅ぼそうとしている。そんな理不尽があっていいはずがない。だが、シオンはさらに衝撃的な事実を告げた。リクトの失われた過去について。

「リクトの記憶を、最初に食べたのは、わたしなんだよ」

十数年前、シオンは森で一人の小さな男の子を見つけた。両親を突然の事故で亡くし、そのショックで心を閉ざしてしまった子供。それが幼いリクトだった。耐え難い悲しみに押し潰され、生きる力さえ失いかけていた彼を、シオンは放っておけなかった。

「だから、わたし、ぜんぶ食べちゃった。パパとママの温かい思い出も、冷たくなった二人の姿も、リクトの悲しみも、ぜんぶ」

彼を救うための、苦渋の決断。リクトが持っていたオルゴールは母親の形見であり、シオンが彼の記憶を食べた最後の品だった。リクトが他人の記憶の断片を見られるようになったのは、彼の記憶がシオンという異質な存在と混じり合った、その副作用だったのだ。

雷鳴が轟き、窓を激しい雨が打ち付ける。リクトの世界が、音を立てて崩れていった。

自分の空虚は、シオンの自己犠牲の上に成り立っていた。彼女が自分を救ったせいで、今、消えようとしている。罪悪感、感謝、そして今まで知ることのなかった両親への思慕。あらゆる感情が濁流のように押し寄せ、リクトはただ立ち尽くすことしかできなかった。彼の頬を伝うのは、雨か、涙か、分からなかった。

第四章 君が残してくれたもの

リクトは決意した。震える手で、弱々しく横たわるシオンの頬に触れる。

「今度は、僕の番だ」

彼は自分の能力を逆流させることを試みた。シオンが食べた「リクトの記憶」を、彼女の中から自分へと引き戻す。それは、彼女が溜め込んだ膨大な悲しみの奔流に、自ら飛び込むことに等しかった。

「だめ……!リクトが壊れちゃう!」

シオンが叫ぶが、リクトは首を振った。

「君が守ってくれた過去を、僕が引き受ける。君が僕を救ってくれたように、僕も君を救いたいんだ」

リクトが強く念じると、彼の意識はシオンの内に広がる記憶の海へと引きずり込まれた。

そこには、全てがあった。

優しい父親の腕に抱かれた温もり。歌の上手な母親が奏でるオルゴールの音色。陽だまりのような幸福な日々。そして―――馬車が横転する耳を裂く轟音、血の匂い、冷たくなっていく両親の手の感触、世界で独りぼっちになった子供の絶望的な慟哭。

それは、魂が引き裂かれるほどの痛みだった。だが、リクトはその全てから目を逸らさなかった。涙を流しながら、彼は忘れていた過去の全てを抱きしめた。これが、僕だ。悲しみも、苦しみも、そして愛された記憶も、全てが僕自身なんだ。

リクトが全ての記憶を受け入れた瞬間、シオンの体を蝕んでいた黒い澱が霧散し、彼女の体は眩い光に包まれた。本来の、清浄な精霊の姿に戻ったのだ。

だが、役目を終えた彼女の輪郭は、次第に薄れていく。

「ありがとう、リクト。君の記憶、とても温かくて、しょっぱくて……今までで一番、美味しかったよ」

シオンは最後に、心の底からの笑顔を見せた。

「君の中の温かい記憶が、森に還る私をずっと照らしてくれる。だから、もう寂しくない」

光の粒子となった彼女は、開かれた窓から夜空へと舞い上がり、故郷である忘却の森へと還っていった。部屋には、音を取り戻したオルゴールの優しい音色だけが、静かに響いていた。

季節は再び巡る。

街の一角で、リクトは「記憶の修理屋」という小さな店を開いていた。壊れた品物に触れ、持ち主が失ってしまった大切な記憶を呼び覚まし、物語として語り聞かせる。それが彼の仕事だ。

過去を取り戻した彼の瞳には、もう孤独の影はない。優しく、そして力強い光が宿っている。時折、風が花の香りを運んでくると、彼はふと空を見上げる。シオンが教えてくれた、温かくてしょっぱい記憶の味を思い出しながら。

記憶は、決して消え去るものではない。たとえ忘れてしまっても、誰かの心に、物語に、そして愛の中に、生き続ける。

リクトは、シオンが残してくれたその真実を胸に、今日もまた、誰かのための物語を紡いでいく。彼の隣にはもう彼女はいない。けれど、彼の心の中には、いつでも彼女の微笑みがあった。

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