第一章 乾いた幸福
天空都市ソラリスの空は、いつだって完璧な蒼穹だった。雲ひとつない、どこまでも続く青。人々はそれを「天候官の恩寵」と呼び、疑いもしなかった。その恩寵をたった一人で支えているのが、僕、リヒトだった。
都市の中央に聳える白亜の塔の最上階。それが僕の仕事場であり、住居であり、そして孤独な砦だった。僕の感情が、ソラリスの天候そのものだった。喜びは快晴を、怒りは雷鳴を、そして悲しみは雨を呼ぶ。だから僕は、何も感じないよう努めてきた。先代の天候官だった祖父の遺言は、ただ一言。「心を凪に保て。それが市民への最大の奉仕だ」
食事は味のない栄養ペースト。音楽は聴かず、物語は読まない。窓から見える市民の営みも、ただの風景として処理する。心を揺らす一切を排除し、無味無臭の時間を過ごすこと。それが、僕に課せられた天職だった。
その朝、事件は起きた。
枕元に置いていた祖父の形見の懐中時計。銀色の蓋に刻まれた繊細な彫刻が、僕と祖父を繋ぐ唯一の絆だった。その時計が、床に落ちて止まっていたのだ。カチ、カチ、と小気味よく時を刻んでいた心音が、永遠に沈黙してしまった。
その瞬間、僕の胸に鋭い痛みが走った。ちくり、とした小さな棘。それは紛れもない「喪失感」だった。忘れていたはずの感情の疼き。
「……まずい」
慌てて窓の外を見る。完璧な蒼穹に、薄灰色の膜が広がり始めていた。都市が、まるで吐息のように、白い霧に包まれていく。ソラリスの記録上、過去五十年は観測されていない「霧雨」の兆候だった。
街路から、人々の不安げな声が微かに聞こえてくる。「空が……曇って……?」「何かの凶兆だろうか」。その声は、僕の胸を罪悪感で締め付けた。僕の、たった一人の個人的な悲しみが、二十万市民の平穏を脅かしている。
僕は深く、深く息を吸い、心を強制的に無へと沈めた。時計のことは忘れろ。祖父のことも忘れろ。僕は天候官だ。感情など、持ってはならない。
数分後、空から灰色は消え、再び絵の具で塗りたくったような青が戻ってきた。けれど、一度濡れたアスファルトの匂いや、肌を撫でた湿った空気の記憶は、僕の中に奇妙な波紋を残し、消えなかった。完璧な快晴の下で、僕だけが、ソラリスで初めて降った雨の匂いを知ってしまった。
第二章 雨を待つ花
あの日以来、僕はさらに心を閉ざした。祖父の時計は机の引き出しの奥深くにしまい込み、食事の回数を減らし、瞑想の時間を増やした。感情の芽を、それが芽吹く前に摘み取ってしまうために。ソラリスの空は、僕の努力に応えるかのように、以前にも増して、暴力的なくらいの快晴を続けた。陽光は容赦なく降り注ぎ、街から色彩を奪っていくようだった。
そんなある日、塔の麓に、一人の少女が立っていた。歳は僕と同じくらいだろうか。色素の薄い髪を風になびかせ、粗末なワンピースを着ていた。彼女の瞳は、何も映していないかのように、虚空を見ていた。盲目なのだとすぐに分かった。
「天候官様にお願いがあって参りました」
凛とした、鈴を転がすような声だった。僕は訪問者を追い返すのが常だったが、なぜかその声に足を止めてしまった。
「……何の用だ」
「雨を、降らせてはいただけないでしょうか」
その言葉は、僕の築き上げた心の壁に、静かな、しかし確かな亀裂を入れた。市民は皆、快晴を望んでいる。雨など、忌むべきもののはずだ。
「馬鹿なことを言うな。雨は不幸の徴だ。市民の幸福のため、空は晴れていなければならない」
「幸福……なのでしょうか」少女は小さく首を傾げた。「私の育てている花は、雨の日にしか咲かないのです。『月光花』といって、雨粒を浴びて、月の光のように淡く光るんです。でも、もう何年も咲いていません。この街の誰も、その花の美しさを知らないままです」
彼女の名前はエマといった。花売りで生計を立てているが、肝心の花が咲かず、困窮しているという。彼女は僕には見えないものを見ていた。快晴の裏にある渇きを、陽光の陰にある枯渇を、その見えない瞳で感じ取っていた。
「雨の音は、優しい子守唄のようです。土の匂いを濃くして、世界が生きていることを教えてくれます。悲しい時に降る雨は、空が一緒に泣いてくれているようで、心が慰められるのです」
エマの言葉の一つ一つが、僕の感情の墓標を掘り起こしていくようだった。そうだ、僕も知っていたはずだ。幼い頃、祖父に連れられて読んだ古い物語には、雨上がりの虹の話や、雨宿りをする恋人たちの話が描かれていた。いつから忘れてしまったのだろう。いつから、感情の豊かさを「危険物」として扱うようになってしまったのだろう。
それでも僕は、彼女の願いを拒絶した。「できない。それが私の使命だ」。冷たく言い放ち、僕は塔の扉を閉めた。扉の向こうで、エマが静かに立ち尽くしている気配がした。その夜、僕は眠れなかった。完璧な快晴を維持する僕の胸の中で、小さな嵐が生まれようとしていた。
第三章 偽りの青空
エマの言葉が頭から離れないまま数日が過ぎた。僕は職務に集中しようとすればするほど、自分の感情の揺らぎを自覚させられた。このままでは、いつか大災害を引き起こしかねない。僕は解決の糸口を求め、塔の地下にある禁じられた記録庫へと足を運んだ。そこには、歴代天候官の個人的な日誌が封印されている。
埃とカビの匂いが鼻をつく。蝋燭の灯りを頼りに、僕は祖父が遺した日誌を探し出した。革張りの分厚いそのノートをめくった瞬間、僕は息を呑んだ。そこに綴られていたのは、僕の知らない祖父の苦悩と、ソラリスの衝撃的な真実だった。
『……今日も、心を殺して快晴を創る。市民は笑顔で空を見上げるが、彼らの心が本当に笑っているわけではないことを、私だけが知っている』
日誌によれば、かつてのソラリスは、喜怒哀楽の感情と共に、晴れも雨も雪も嵐もある、色彩豊かな世界だったという。しかし約百年前、ソラリスを未曾有の悲劇が襲った。戦争によって引き起こされた民衆の「絶望」の感情が、一人の天候官のキャパシティを超えて暴走し、数ヶ月に及ぶ「大豪雨」を引き起こしたのだ。都市は水に沈みかけ、多くの命が失われた。
その悲劇を繰り返さないため、為政者たちは新たなシステムを構築した。それが、現在の天候官制度だった。天候官の役目は、人々の感情の暴走を防ぐこと。つまり、快晴を維持することで、人々の感情の振れ幅そのものを抑制し、管理することだったのだ。僕らが信じてきた「市民への奉仕」は、実は為政者による巧妙な「感情統治」に他ならなかった。快晴は幸福の象徴などではなく、市民から感情の豊かさを奪う、見えない牢獄だったのである。
ページを繰る手が震える。祖父の文字は、次第に力を失っていった。
『雨の日の静けさを、人々は忘れてしまった。悲しみに寄り添う涙を、人々は流せなくなった。喜びだけが幸福ではない。あらゆる感情があってこそ、人は人として生きられるのだ』
『ああ、誰か。この偽りの青空に、疑問を抱いてくれる者はいないのか。雨の美しさを、思い出させてくれる者はいないのか』
最後の日付は、僕が天候官を継ぐ前日だった。祖父は、僕にこの役割を託すことに、どれほどの罪悪感を抱えていたのだろう。「心を凪に保て」という遺言は、僕を守るための言葉だったのか、それとも、このシステムへの絶望の言葉だったのか。
僕は日誌を閉じた。蝋燭の炎が揺れ、僕の長い影が壁に映る。その影は、まるで泣いているかのように歪んでいた。僕が守ってきたものは、一体何だったのだろう。僕が押し殺してきた感情は、本当に無価値なものだったのだろうか。
答えは、もう出ていた。
第四章 心が降らせる雨
僕は塔の最上階、吹きさらしの展望台に立った。眼下には、人工的な光に照らされたソラリスの街が広がる。いつもと同じ、静かで、平坦で、どこか空虚な夜景。
僕はゆっくりと目を閉じた。そして、初めて、意図的に、心のダムを解放した。
最初に溢れ出たのは、祖父への追慕の念だった。壊れた懐中時計の冷たい感触。僕に全てを託して逝った彼の苦悩。温かい悲しみが、胸を満たしていく。
次に、エマの顔が浮かんだ。雨を待ちわびる彼女の純粋な瞳。花を愛おしむ彼女の優しい指先。誰かのために何かをしたいと願う、切ないほどの共感。
そして最後に、この偽りのシステムへの、静かだが確かな怒りが湧き上がった。人々から感情の彩りを奪い、乾いた幸福を強いる傲慢さへの反発。
僕の心の中で、様々な感情が渦を巻き、一つの大きな流れとなっていく。
すると、空が応えた。完璧な青を保っていた夜空に、みるみるうちに厚い雲が垂れ込め、やがて、ぽつり、ぽつりと大粒の雫が落ちてきた。何十年ぶりかの、本物の「雨」だった。
街は一瞬、パニックに陥った。悲鳴が上がり、人々は慌てて軒下に駆け込む。だが、雨は決して暴力的ではなかった。それは、まるで空がすすり泣いているかのような、優しく、穏やかな雨だった。
人々は、やがて足を止め、空を見上げた。肌を濡らす雨粒の冷たさと、不思議な心地よさに戸惑っている。その時だ。街のあちこちで、奇跡が起きた。
エマが育てていた「月光花」の蕾が、一斉にほころび始めたのだ。雨粒を吸った花弁は、その名の通り、内側から淡い青白い光を放ち始める。一つ、また一つと光が灯り、やがて街中の至る所が、幻想的な光の花畑に変わった。
人々は息を呑んだ。その美しさに、恐怖は消え、純粋な感動が胸に広がっていく。子供が、歓声を上げて水たまりに飛び込んだ。老人が、濡れるのも構わず、そっと花に手を伸ばした。誰かの頬を、雨ではない、温かい雫が伝った。人々は、忘れていた感情の扉を、少しずつ開き始めていた。
塔の上からその光景を見ていた僕の隣に、いつの間にかエマが立っていた。衛兵の制止を振り切ってきたのだろう。彼女は見えない瞳で空を見上げ、幸せそうに微笑んだ。
「……聞こえます。今日の空は、少しだけ寂しくて、でも、とても優しい音がします」
彼女はそっと僕の手に触れた。その手は温かかった。
僕の頬にも、一筋の涙が流れた。それは悲しみだけではない、様々な感情が溶け合った、温かい雫だった。
空を見上げる。雨はまだ、降り続いている。明日、ソラリスの空が晴れるのか、曇るのか、僕にも分からない。けれど、それでいいのだ。僕らはもう、偽りの快晴に怯えることはない。喜びの晴れ間も、悲しみの雨も、全てを受け入れて生きていく。
雨上がりの空には、きっと美しい虹がかかるだろう。僕らは、その七色の光の中に、失われていた心の彩りを、きっと見つけることができるはずだ。ソラリスは、本当の意味で、心を取り戻したのだ。