第一章 影喰らいと忘却の誓い
私の世界では、魔法は記憶を薪にして燃え盛る炎だ。ささやかな癒しの術は昨日の夕食の味を、道を照らす灯火は幼い頃に見た流れ星の軌跡を、そして、命を救うほどの大魔法は、魂に刻まれた最も大切な思い出を灰に変える。だから私は、魔法を憎んでいた。何よりも、恐れていた。
その恐怖が現実の輪郭を帯びて私の日常を侵食し始めたのは、秋風が森の葉を金色に染め上げた日のことだった。唯一の家族である弟のルカが、突然、指先から透け始めたのだ。
「姉さん、見て。光が…僕の指を通り抜けるんだ」
窓から差し込む夕陽の中で、ルカがかざした右手は、まるで薄い飴細工のように向こうの景色を映していた。冗談だと思いたかった。けれど、日に日に彼の存在は希薄になっていく。肌の色が薄れ、声がかすれ、時折、その姿が陽炎のように揺らめく。村の長老は、やつれた顔でそれを『影喰らい』と呼んだ。魂が世界との繋がりを失い、やがて完全に消滅してしまうという、古の呪病。
「治す手立ては、ただ一つ」長老は皺深い声で告げた。「失われた大魔法、『陽光のアリア』。それだけが、消えゆく魂をこの世に繋ぎ止められる」
その言葉を聞いた瞬間、私の全身を冷たい痺れが駆け抜けた。魔法。それも、大魔法。脳裏に蘇るのは、遠い昔の光景だ。私を庇って魔獣の前に立ちはだかった母。彼女が詠唱したのは、命を賭した守りの魔法だった。眩い光が闇を払った後、母は私を見て、優しく、けれど寂しげに首を傾げたのだ。「あなたは、どなた?」と。母は、私という存在を、私と過ごした全ての時間を対価に、私を守った。その日から、私にとって記憶は、守るべき唯一の聖域となった。ルカと二人で過ごしてきた、ささやかだけれど温かい日々の記憶こそが、私の全てだった。
「嫌よ…魔法なんて」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。ルカとの思い出を失うくらいなら、死んだ方がましだ。けれど、目の前で日に日に消えていく弟の姿は、その決意を容赦なく打ち砕く。彼の笑顔が色褪せていくのを見る苦しみは、胸を内側から引き裂くような痛みだった。
ルカの手を握る。かつての温もりはもうなく、まるで冷たい霧に触れているかのようだ。この手を、この存在を、失うわけにはいかない。
私は、母がそうしたように、愛する者を守るために、自らが最も恐れる道へと足を踏み出すことを決意した。たとえ、その代償に私自身が壊れてしまうとしても。『陽光のアリア』が眠るという、最果ての「忘却の図書館」へ。私は、ルカとの思い出という名の地図だけを胸に、旅支度を始めた。
第二章 色褪せる思い出の道標
忘却の図書館への道は、思い出を削り取る砥石のようだった。鬱蒼とした森を抜けるには、夜の闇を払う灯火の魔法が必要だった。私は躊躇いの末に、ルカと二人で初めてカンテラ祭りに行った夜の記憶を燃やした。きらびやかな光の川、綿菓子の甘い香り、繋いだ手の温もり。魔法が灯った瞬間、それらの情景が不意に色褪せ、遠い夢のようにぼやけていく。胸にぽっかりと穴が空き、冷たい風が吹き抜ける。けれど、私は足を止めなかった。
切り立った崖を登るには、体を軽くする浮遊の魔法が不可欠だった。対価は、ルカが初めて歩いた日の記憶。小さな足で懸命に床を踏みしめ、私の腕の中に飛び込んできた時の、あの誇らしげな笑顔。魔法が体を持ち上げた時、私の心は逆にずしりと重くなった。あんなに鮮明だったはずのルカの顔が、今はもう、うまく思い出せない。
旅を続けるほどに、私は空っぽになっていく。ルカと分かち合った温かいスープの味も、一緒に歌った子守唄の旋律も、些細な喧嘩をして仲直りした日の気まずさも、全てが魔法の対価として消えていった。私の内側からルカという存在が少しずつ剥がれ落ちていく感覚は、まるで自分自身の魂が削られているかのようだった。
それでも私を支えていたのは、まだ失われずに残っている、たった一つの最も大切な記憶だった。三年前の冬、二人で村はずれの凍った湖へスケートに行った日。慣れない靴で何度も転ぶ私を、ルカが笑いながら助け起こしてくれた。その時の、吐く息の白さ、氷の冷たさ、そして何より、私の手を取るルカの小さな手の温もり。その記憶だけは、どんなことがあっても手放すまいと、心の最も深い場所にしまい込んでいた。
数えきれないほどの記憶を失い、心身ともに疲弊しきった頃、私はついに忘却の図書館にたどり着いた。そこは、天を突くほどの巨大な螺旋状の塔で、壁面は全て、無数の記憶が封じ込められた水晶でできていた。人々が魔法の対価として手放した思い出たちが、ここでは静かな光を放ちながら眠っているのだ。
図書館の番人を名乗る、性別も年齢も分からない静謐な人物が、私を迎えた。
「『陽光のアリア』を求めておいでか。その魔法は、この図書館の最深部に眠っている。だが、覚悟はできているかね?あのアリアが求める対価は、並大抵のものではない」
番人の言葉は、まるで凪いだ水面のように穏やかだったが、その奥には底知れない深淵が広がっていた。私は頷く。もう、後戻りはできない。失うものは、ほとんど残っていないのだから。そう、思っていた。最深部の祭壇にたどり着くまでは。
第三章 図書館に眠る母の真実
図書館の最深部は、星空を凝縮したかのような空間だった。天井はなく、代わりに無数の水晶が銀河のように渦を巻き、柔らかな光を投げかけている。その中央に、古びた石の台座があり、一冊の分厚い魔法書が置かれていた。それが『陽光のアリア』。
私は震える手でその表紙に触れた。ページをめくると、そこに記されていたのは、魂を揺さぶるほどに美しい旋律の呪文。そして、その最後に記された一行が、私の時間を止めた。
【対価:術者が最も愛する者と過ごした、最も幸福な記憶の全て】
血の気が引いた。全身が凍りつく。最も愛する者。それはルカに決まっている。そして、最も幸福な記憶。それは、あの凍った湖での一日だ。それだけではない。「全て」だと?ルカとの思い出は、ほとんどがもう魔法の対価として失われてしまった。けれど、心の奥底にかろうじて残っている温かい光、断片的な笑顔、声の響き…それら全てを差し出せというのか。
ルカを救うために、ルカとの繋がりを全て失う。彼が誰なのかも分からなくなり、ただ目の前にいる見知らぬ少年を救うことになる。それは、私が望んだ結末なのか?絶望が、冷たい水のように足元から私を満たしていく。膝から崩れ落ちそうになったその時、静かに番人が近づいてきた。
「君の母親も、かつてここで同じ顔をしていた」
その言葉に、私は顔を上げた。
「母を…知っているのですか?」
「ああ。彼女は君を守るために、守りの大魔法を求めてここへ来た」
番人はそう言うと、壁面の水晶の一つにそっと触れた。すると、水晶がひときpatial光を放ち、目の前に映像を映し出した。そこにいたのは、若き日の母だった。今の私と同じように、魔法書の前で絶望に顔を歪めている。
『対価は…この子との記憶、全て…。そんな…』
母の悲痛な声が響く。映像の中の母は、しばらくの間泣き崩れていたが、やがて顔を上げた。その瞳には、絶望ではなく、狂おしいほどの愛と、鋼のような決意が宿っていた。
『この子を忘れるのは、私の心が張り裂けるほど辛い。でも、もっと辛いのは、この子が、自分を庇って母親が記憶を失ったという事実を背負って生きていくこと。その悲しみが、あの子の人生に影を落とすことだわ』
母は、番人に向き直った。
『番人様、お願いがあります。私がこの子を忘れる魔法と同時に、もう一つ、魔法をかけたいのです。この子の記憶から、私という母親の存在を優しく消し去る魔法を。私がいたことさえ忘れてしまえば、あの子は何も背負わずに、笑って生きていけるでしょうから』
映像はそこで途切れた。私は、息をすることも忘れて立ち尽くしていた。母は、私を忘れたのではなかった。私に忘れられることを選んだのだ。私を悲しみから守るために。その魔法は不完全で、私の中に「母に忘れられた」という歪んだトラウマだけを残してしまったが、そこに込められていたのは、私の想像を絶するほど深く、そして自己犠牲的な愛だった。
今まで私を縛り付けていた、母への微かな恨みや悲しみが、雪のように溶けていく。そして、その後に残ったのは、燃えるような、純粋な愛の温かさだった。記憶とは、ただ所有するだけのものではない。愛する者の未来のために、手放すことさえも愛なのだ。私は、ようやく本当の意味で、母の愛を理解した。涙が、後から後から溢れて止まらなかった。
第四章 名もなき愛の陽光
村に戻った時、ルカはもうベッドの上でかろうじて輪郭を保っているだけの、儚い光のようになっていた。意識もほとんどない。私は、彼の冷たい手をそっと握りしめた。迷いは、もうなかった。
私は目を閉じ、心の奥底に大切にしまい込んできた、最後の宝物を開いた。
凍った湖。白い息。転んだ私に差し伸べられた、ルカの小さな手。その温もり。
「大丈夫、姉さん。僕がついてる」
幼い声が、記憶の中で鮮やかに響く。
ありがとう、ルカ。私のたった一人の、大切な弟。君と過ごした日々は、私の人生の全てだった。
私は、その温もりを、声を、笑顔を、愛おしい記憶の全てを、旋律に乗せた。唇から紡がれるのは、『陽光のアリア』。それはもはや呪文ではなく、弟への感謝と愛情を込めた、私だけの歌だった。
私の内側から、ルカとの思い出が光の粒子となって溢れ出ていく。温かいスープの記憶が、子守唄の記憶が、そして最後に、凍った湖の記憶が、優しい光となって私から離れ、ルカの体へと降り注いでいく。視界が涙で滲む。けれど、私の心は不思議なほど穏やかで、満たされていた。記憶を失う痛みよりも、愛する者を救える喜びが、はるかに勝っていた。
歌い終えた時、ルカの体は元の確かな実体を取り戻していた。健やかな寝息を立てている。それと引き換えに、私の頭の中は、まるで白紙のように静まり返っていた。目の前で眠る少年が誰なのか、なぜ自分がここにいるのか、そして、なぜこんなにも涙が流れるのか、もう分からなかった。
ただ、胸の奥に、陽だまりのような、どうしようもなく温かい感情が残っている。それだけは、確かだった。
やがて、ルカがゆっくりと目を開けた。彼は私を見ると、満面の笑みを浮かべた。
「姉さん!」
その呼びかけに、私の心臓が小さく跳ねる。私は、目の前の見知らぬ少年に、戸惑いながらも、自然と湧き上がる愛しさを込めて微笑み返した。
「…こんにちは」
私の唇から、自分のものではないような、優しい声がこぼれた。
「あなたの名前は?」
記憶は消えた。けれど、魂に刻まれた愛は、決して消えはしない。私たちの新しい物語が、今、静かに始まろうとしていた。