第一章 虹の匂いがする絵本
古びた紙とインクの匂いが満ちる空間で、結城湊(ゆうき みなと)は静かに息をしていた。彼が店主代理を務めるこの古書店「時紡ぎ堂」は、彼の世界のすべてだった。背表紙の擦り切れた本たちは、声高に何かを主張することもなく、ただそこに在ることで湊に安らぎを与えてくれた。他人との深い関わりを避ける彼にとって、物語の中だけが唯一、心を解放できる場所だったのだ。
その静寂を破ったのは、ドアベルの涼やかな音だった。
「こんにちは」
陽だまりをそのまま声にしたような女性が入ってくる。ラベンダー色のワンピースが、薄暗い店内でひときわ鮮やかに見えた。橘詩織(たちばな しおり)と名乗った彼女は、それから週に二、三度、店を訪れるようになった。彼女は特定の本を探すでもなく、ただ気の向くままに書架の間を漂い、時折、面白そうな一冊を見つけては、湊に屈託のない笑顔を向けた。
湊は、彼女の存在を心地よく感じ始めている自分に戸惑っていた。人を愛せば、自分の大切な記憶の一部が相手に移ってしまう。そんな奇妙な体質を持つ彼にとって、誰かに心を寄せることは、自分自身の一部を削り取られることに等しかった。過去の恋愛で、彼は大学時代の四年間を丸ごと失った。友人の顔も、学んだ講義の内容も、甘く苦い恋の味さえも、すべてが靄のかかった風景のように思い出せない。だからもう、二度と誰かを深く愛すまいと誓ったはずだった。
ある雨上がりの午後、詩織が児童書のコーナーで一冊の絵本を手に取った。色褪せた表紙には、大きなクジラが虹を吹いている絵が描かれている。湊の胸が、小さく、だが鋭く痛んだ。それは彼が子供の頃、病床の父に何度も読んでもらった、宝物のような絵本だった。
「この絵本、なんだかすごく懐かしい感じがする」
詩織は、愛おしげにページをめくりながら呟いた。
「特にこの最後のページ……。雨上がりの、湿った土と緑の匂いがしてきそう。虹の匂い、かな」
湊は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
――虹の匂い。
それは、湊だけの、誰にも話したことのない記憶の言葉だった。五歳の夏、父と二人で見た、空を横断する巨大な虹。父は「湊、これが虹の匂いだよ」と、雨上がりの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでみせた。その記憶は、湊の中に深く刻まれた、父との数少ない温かな思い出の一つだった。
なぜ、彼女がそれを知っている?
湊は、目の前の女性が、自分の最も柔らかな部分に触れる、未知の存在に思えてならなかった。彼女の笑顔の裏に、自分の失われた過去が潜んでいるような、甘美で恐ろしい予感がした。
第二章 欠けた月と重なる影
詩織との交流は、湊の心を静かに侵食していった。彼女はイラストレーターで、時折、店先のベンチでスケッチブックを広げては、街並みや人々を柔らかな線で描き留めていた。彼女の描く絵は、どこか現実感が希薄で、夢の風景のようだった。
「私、昔のことがあんまり思い出せないんです」
ある日、彼女は唐突にそう告げた。コーヒーを片手に、遠い目をして空を見上げている。
「断片的なイメージはあるんだけど、それが本当に自分の記憶なのか、自信がなくて。だから、こうして絵に描いてみるんです。失くしたパズルのピースを、手探りで見つけるみたいに」
その横顔に浮かぶ微かな寂寥に、湊は自分の姿を重ねていた。記憶を失う痛みを知る者同士の、見えない共鳴がそこにはあった。
湊は葛藤していた。詩織に惹かれる気持ちが日増しに強くなる。彼女と話していると、忘れていたはずの感情が蘇ってくる。だが、その感情が深まれば深まるほど、彼はまた記憶を失うだろう。次に失うのは、父との思い出か、あるいはこの古書店で過ごした穏やかな日々の記憶かもしれない。その恐怖が、彼を踏み留まらせていた。
彼は意図的に詩織と距離を置こうとした。本の整理に没頭し、彼女が話しかけても素っ気ない返事を返す。しかし、詩織はそんな湊の態度に怯むことなく、真っ直ぐに彼を見つめてきた。
「結城さん、何か怖いんですか?」
彼女の透き通るような声が、湊の築いた壁をいとも容易くすり抜けてくる。
「私といると、何か、あなたの大事なものがなくなっちゃう、みたいな?」
図星を突かれ、湊は言葉に詰まった。彼女には、まるで人の心の輪郭をなぞるような不思議な力があった。
その夜、湊は一人、店に残って古いアルバムを開いていた。そこにいるのは、見知らぬ若者たちと笑う、自分によく似た青年。大学時代の写真だ。楽しそうなのに、何の感情も湧いてこない。それは他人の記録映像を見ているかのようだった。この空白を、これ以上広げたくない。詩織を愛してしまえば、このアルバムの前のページ、高校時代の記憶さえ失うかもしれないのだ。
ページをめくる指が震える。欠けた月のような不完全な自分が、彼女という満ち足りた光に焦がれ、そして焼かれて消えてしまうことを恐れていた。
第三章 記憶の漂着者
季節は移り、木枯らしが吹き始める頃、事件は起きた。激しい雨が窓を叩く夜、詩織が店を訪れた。いつも快活な彼女が、青白い顔でふらついている。
「ごめんなさい、ちょっと、めまいが……」
そう言うと、彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。湊は慌てて彼女を抱きかかえ、店の奥にある休憩用のソファに寝かせた。額に触れると、燃えるように熱い。
湊は濡れたタオルで彼女の額を冷やし、ただそばに付き添った。熱にうなされ、詩織の唇から途切れ途切れの言葉が漏れ出す。
「……ごめん……サークルの皆……僕が……悪かった……」
それは、男の声色を真似たような、苦しげな謝罪の言葉だった。湊の心臓が大きく跳ねる。そのセリフは、彼が大学時代に失った記憶の、まさに中心にあったはずの出来事――彼が部長を務めていた文芸サークルで起きたトラブルの際に、彼が口にした言葉そのものだったからだ。なぜ。どうして。
「詩織さん、しっかりしろ!」
湊が彼女の肩を揺さぶると、彼女は虚ろな目を開け、涙を浮かべて湊を見つめた。
「……虹が……きれいだね、父さん……」
幼い子供のような声だった。それは間違いなく、湊が失うことを最も恐れていた、父との記憶の断片。
混乱と恐怖で、湊の思考は麻痺しそうだった。彼女を愛し始めている自覚はあった。だが、まだ記憶が移るほど深くはないはずだ。ましてや、過去に失ったはずの記憶が、なぜ彼女の口から語られるのか。
夜が明け、熱が少し引いた詩織が、静かに真実を語り始めた。
「私の体質、結城さんとは、たぶん逆なんです」
彼女は、力なく微笑んだ。
「私は、誰かに愛されると、その人の記憶を少しだけ受け取ってしまうの」
彼女の中には、これまでの人生で彼女を愛してくれた人々の記憶が、無数のガラス片のように散らばっているのだという。自分のものではない喜びや悲しみが、彼女の心を常に満たし、そして苛んでいた。どれが本当の自分の感情で、どれが他人の記憶なのか、その境界線はとうに曖昧になっていた。
「結城さんの元カノさん、知ってます。彼女が次に付き合った人が、私の元カレだったの」
記憶は、川の流れのように人から人へと渡っていく。湊が失った大学時代の記憶は、元恋人へ、そしてその恋人が愛した別の誰かへ、そして巡り巡って、詩織という岸辺に漂着していたのだった。
冒頭の絵本の記憶も同じだ。湊が過去に淡い恋心を抱いた誰かから、記憶は旅を始め、長い時間をかけて詩織のもとへ辿り着いた。
二人は、出会うずっと前から、見えない記憶の糸で結ばれていたのだ。湊が彼女に感じた抗いがたい引力は、彼女の中に眠る、失われた自分自身のかけらに惹かれていたからだった。二人は互いに欠けた月であり、互いの光を映し出すことでしか、完全な円を描けない運命だった。
第四章 ふたりのための物語
すべての真実が、夜明けの光の中に溶けていく。湊は、目の前の詩織が、もはや他人とは思えなかった。彼女は、彼の失われた過去を内包する、もう一人の自分自身だった。
記憶を失うことを恐れていた。自分という存在が希薄になっていくことに怯えていた。だが、本当に怖かったのは、記憶そのものを失うことではなかった。
「詩織さん」
湊は、彼女の冷たい手をそっと握った。
「君に僕の記憶を渡すのが怖いんじゃない。君という存在そのものを、僕のこれからの記憶から失ってしまうことの方が、ずっと怖い」
愛することは、喪失ではなかった。少なくとも、彼女との間では。それは、分かち合いであり、融合だった。一人では抱えきれない記憶を、二人で共有していくこと。
湊の告白に、詩織の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、ずっと怖かった。誰かの記憶に自分が乗っ取られて、本当の私がいなくなっちゃうのが。でも……」
彼女は湊の手を握り返す。
「結城さんの記憶なら、いくらでも欲しい。あなたの思い出ごと、あなたを愛したい」
二つの孤独な魂が、ようやく一つに重なった瞬間だった。
それから、二人の穏やかな日々が始まった。湊はもう、記憶を失うことを恐れなかった。むしろ、自分の大切な記憶を、大好きな彼女に預けるような、そんな不思議な安らぎさえ感じていた。
ある日、湊はふと、小学校の運動会の記憶が思い出せないことに気づいた。その話をすると、隣でスケッチをしていた詩織が、顔を上げて微笑んだ。
「大丈夫。私が覚えてるから」
そして彼女は、まるで見てきたかのように語り始める。リレーのアンカーで転んだけど、最後まで諦めずに走った少年の姿を。その頬を伝った、悔し涙の味を。
それは、湊が詩織に渡した、新しい記憶だった。詩織はそれを、一枚の温かな絵にして描き留めた。
彼らの愛は、少し奇妙な形をしていた。湊の過去は少しずつ詩織の中へ移り、彼の記憶は彼女の言葉と絵によって再生される。湊はいつか、父との虹の記憶さえ忘れてしまうかもしれない。だが、その時には、詩織が優しい声で、その物語を語り聞かせてくれるだろう。
それは喪失の物語ではない。二人で一つの記憶を紡ぎ直していく、新しい愛の物語だ。
夕暮れの光が差し込む「時紡ぎ堂」で、湊は新しい本のページにインクを染み込ませる。隣では、詩織がその様子をスケッチブックに描いている。二人の未来は、まだ白紙のページがほとんどだ。これからどんな記憶が生まれ、どちらの中へと移っていくのか、誰にも分からない。
だが、確かなことが一つだけあった。
彼らの物語は、決してどちらか一方が忘れても、終わることはない。
「僕の忘れた物語は、君が語り部になってくれればいい」
湊がそう言うと、詩織は「任せて。世界で一番、素敵な物語にしてあげる」と笑った。
二人の手は、固く、固く結ばれていた。