第一章 無色の声
調律師である私、水瀬響(みずせひびき)の世界は、音と色で織り上げられている。私には共感覚があった。人々の声は、その感情に応じて様々な色彩を帯びて私の目に映る。喜びは陽だまりのようなオレンジ、悲しみは深海に沈む藍、怒りは燃え盛るマグマの赤。それは時に美しく、時におぞましく、私の日常を絶え間なく彩っていた。この感覚は、ピアノの音の僅かな濁りや歪みを「視る」ことで完璧な調和へと導く私の仕事には、この上ない才能だった。しかし、人の感情の奔流に晒され続ける日常は、静かに心を摩耗させていった。だから私は、人との間に常に一枚、見えない壁を築いて生きてきた。
その日、私が訪れたのは、古都の路地裏にひっそりと佇むガラス工房だった。依頼主は、この工房の主。先代が愛用していたという古いアップライトピアノの調律を頼まれたのだ。埃と、どこか甘いガラスの焼ける匂いが混じり合う空間で、私を迎えたのは月島凪(つきしまなぎ)と名乗る青年だった。
「水瀬さんですね。お待ちしていました」
彼の声を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。音が、鼓膜を震わせた。だが、そこに在るはずの色が、どこにもなかった。彼の声は、完璧に澄み切った、無色透明だったのだ。
驚きに固まる私を意にも介さず、彼は静かにピアノへと私を案内した。これまで出会ったどんな人間も、たとえ感情を押し殺している人物でさえ、声には微かな色の揺らぎがあった。隠しきれない苛立ちの煤けた灰色や、虚勢の薄っぺらな黄色が。しかし、凪の声にはそれが一切ない。まるで、磨き上げられた水晶を通して響いてくる音のようだった。感情という不純物が、完全に濾過されてしまっている。
「ピアノはあちらです。古いものですが、父が大切にしていたもので」
彼の横顔を盗み見る。長い前髪の奥にある瞳は、何を映しているのか分からない。表情もまた、彼の声と同じように静謐で、感情の波ひとつ立てていなかった。私は混乱していた。この透明さは、何なのだろう。無感情? 悟り? それとも、私が知らない、全く新しい感情の形なのだろうか。
調律を始めると、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻した。鍵盤を叩き、弦の響きに耳を澄ます。フェルトのハンマーが弦を打ち、放たれる音の粒。その一音一音に宿る色彩を、私は注意深く見つめ、あるべき純粋な色へと整えていく。その間、凪は少し離れた場所で、バーナーの青い炎に向かい、ガラスを溶かしていた。時折、彼が道具を取り替える金属音が、私の調律の音に静かなリズムを添える。
作業を終え、生まれ変わったピアノで短い旋律を奏でると、凪がふと顔を上げた。
「……綺麗な音だ」
その声もまた、一点の曇りもない透明だった。だが、なぜだろう。その無色透明の声が、私の心を不思議と安らがせた。色がないということは、私を揺さぶる感情の波がないということ。それは、嵐の海から、凪いだ入江に辿り着いたかのような、静かな解放感だった。
この日から、私の日常に「無色透明」という、新たな色彩(あるいはその不在)が加わった。それは、私の世界を根底から揺るがす、謎めいた出会いの始まりだった。
第二章 透明な安らぎと渇望
凪の工房に通うようになって、季節がひとつ巡った。ピアノの定期的なメンテナンスを口実に、私は彼の作り出す静寂の空間に、吸い寄せられるように足を運んでいた。
彼の工房は、光とガラスの魔法に満ちていた。窓から差し込む陽光が、棚に並べられたグラスや風鈴に乱反射し、壁や床に虹色の欠片を散りばめる。凪は、その光の中で黙々とガラスを吹く。彼の生み出すガラスは、どれも不思議な魅力を宿していた。それは、見る角度や光の加減で、まるで生きているかのように色合いを変化させるのだ。
「あなたの作るガラスは、声みたいですね」
ある日、私がそう呟くと、凪はバーナーの炎から目を離さずに「どういう意味だ?」と問い返した。彼の声は、相変わらず透明だった。
「いつもは同じ色に見えるのに、光が当たると、たくさんの色が隠れているのが分かる。人の声も、感情という光で色を変えるから」
「……そうか」
彼はそれ以上何も言わなかった。だが、その日から、私が工房を訪れると、彼は必ず窓際に新しく作った小さなガラスのオブジェを置いてくれるようになった。それは、私への無言の返事のように思えた。
凪と過ごす時間は、私にとって唯一の安息だった。日常で浴び続ける他人の感情の色彩から逃れられる、唯一の場所。彼の透明な声は、私の疲れた心を優しく洗い流してくれる清流のようだった。次第に、私はこの安らぎに深く満たされ、凪という存在そのものに惹かれている自分に気づいた。
しかし、安らぎが深まれば深まるほど、私の心には別の感情が芽生え始めた。それは、渇望だった。
彼の本当の色が見たい。
彼が笑う時、どんな暖かい色を放つのか。彼が悲しい時、どんな切ない色を滲ませるのか。私に向けられる声が、ほんの少しでもいい、淡いピンク色や、穏やかな若草色に染まることはないのだろうか。
この透明な壁の向こう側にある、彼の本当の心に触れたい。
ある雨の日、私は彼に尋ねた。
「月島さんは、何をしている時が一番楽しいですか?」
他愛のない質問だった。だが、私にとっては、彼の感情の色を引き出すための、必死の問いかけだった。
彼はしばらく黙り込んだ後、窓の外の雨を見つめながら答えた。
「雨の音を聞きながら、ガラスが冷えていくのを待つ時間、かな」
その声も、やはり透明だった。喜びも、安らぎも、何の色も映さない。
私の恋は、一方通行なのだろうか。この穏やかな関係は、私が勝手に作り出した幻想で、彼は私に何も感じていないのではないか。透明な安らぎは、いつしか私を苛む透明な絶望へと姿を変え始めていた。私は、色のない世界で、独りぼっちで溺れているような気分だった。
第三章 砕けた菫色
その事件は、突然起こった。凪が私のために作ってくれた、小さなガラスの風鈴。窓辺で風を受けるたび、澄んだ音色を奏でる、私のお気に入りの宝物だった。それを手に取って眺めていた時、不意に手が滑り、風鈴は硬い床に落ちて甲高い音を立てて砕け散った。
「あっ……!」
床に散らばる、瑠璃色のガラスの破片。静寂を破ったのは、私の悲鳴だけではなかった。
「……大丈夫か、怪我は」
振り返った私の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。凪の声が、生まれて初めて、色を帯びていたのだ。
それは、砕けた風鈴の破片のように鋭く、そして深い悲しみを湛えた、菫色(すみれいろ)だった。彼の声から放たれる色の粒子が、私の目の前で痛々しくきらめき、霧のように揺らめいている。
「……今、あなたの声が……」
私が呆然と呟くと、凪はハッとしたように口を噤み、その瞳を大きく見開いた。彼の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。菫色の光は一瞬で消え去り、彼の声は再び、あの完璧な無色透明に戻っていた。
「すまない」
「どうして……どうして、色が見えたの? あなたの声に……」
私の問いに、凪はしばらく俯いていたが、やがて諦めたように顔を上げた。その瞳には、今まで見たことのない、深い苦悩の色が浮かんでいた。
「君に、見えていたのか。……僕の声の色が」
彼は静かに語り始めた。それは、彼の過去に深く刻まれた、癒えることのない傷跡の物語だった。
「僕にも、君と同じように、声の色が見えるんだ」
衝撃の告白だった。彼もまた、私と同じ共感覚の持ち主だったのだ。
凪は、幼い頃から自分の感情が、制御できないほど激しい色彩となって声に現れることに苦しんできたという。特に、嫉妬や怒りといった負の感情は、毒々しく濁った、醜い色をしていた。かつて、たった一度だけ心を許した友人に、些細なことで嫉妬してしまった時、彼の声はどす黒い緑色となって相手に突き刺さった。友人は、その色の禍々しさに怯え、「お前は化け物だ」と言い残して去っていった。
その出来事が、凪の心を深く傷つけた。自分の感情の色が、大切な人を傷つけ、遠ざけてしまう。そう悟った彼は、必死の努力の末に、自分の声から感情の色を消し去る術を身につけた。心を無にし、声を透明な器のように保つこと。それが、彼が世界と関わるための、唯一の術であり、臆病な自己防衛だった。
「君といると、心が安らいだ。だからこそ、僕の醜い色を見せたくなかった。君を、傷つけたくなかったんだ」
無色透明は、私への無関心や拒絶ではなかった。むしろ、その逆。私を大切に思うがゆえの、彼の必死の抵抗だったのだ。私が安らぎを感じていた透明な壁は、彼が血の滲むような努力で築き上げた、優しさの結晶だった。その真実が、私の胸を強く、そして切なく締め付けた。
第四章 オーロラの対話
砕けた風鈴の破片が、床の上で静かに光っていた。それは、凪がひた隠しにしてきた心の欠片のようにも見えた。彼の告白は、私の世界を根底から覆した。私が感じていた寂しさや不安は、彼の深い愛情と苦悩の裏返しだったのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の前に進み出た。彼の瞳は、迷子の子供のように揺れていた。
「見せてほしい」
私の言葉に、凪は驚いたように顔を上げた。
「あなたの色を、全部見せてほしい。嬉しい時の金色も、楽しい時のオレンジも。……そして、悲しい時の菫色も、怒った時の赤色も。全部、あなたの本当の色だから。それを見ても、私はどこにも行かない」
私の声は、きっと、決意に満ちた新緑の色をしていたに違いない。
「どんなに醜い色でも?」
「醜い色なんてない。全部、月島さんを形作っている、大切な色だよ」
私の目から、涙が一筋、頬を伝った。それは、彼の孤独に触れた悲しみの涙であり、彼の優しさを知った喜びの涙でもあった。
その日から、私たちの対話は、少しずつ形を変えていった。凪は、戸惑いながらも、私の前で声の色を隠すことをやめようと努力してくれた。最初は、照れた時に漏れる、ほんのりとした薄紅色の吐息だけだった。私が彼の作るガラスを褒めると、彼の声ははにかむように、柔らかなクリーム色に染まった。
それは、不器用で、たどたどしい、色の交換だった。彼は自分の感情の色を見せることに怯え、私はその全ての色を受け止めようと必死だった。時には、過去の記憶に触れてしまったのか、彼の声が暗い灰色に沈むこともあった。そんな時、私はただ黙って彼の側に座り、私の声が穏やかな空色になるように、静かに言葉を紡いだ。
そして今日、夕暮れの工房で、私たちは砕けた風鈴の欠片を集めて、新しいオブジェを作っていた。バーナーの炎に照らされた彼の横顔を見つめながら、私は尋ねた。
「今、どんな気持ち?」
彼は少しの間、黙ってガラス細工を見つめていたが、やがて顔を上げて、私を見て微笑んだ。
「君といると、……いろんな気持ちが、一度にやってくる」
その瞬間、彼の声から放たれた光景に、私は息を呑んだ。
それは、単色ではなかった。喜びの金色、安らぎの緑、愛しさの桜色、そしてほんの少しの不安を示す水色が、まるでオーロラのように混じり合い、彼の周りで美しく揺らめいていた。それは、私が今まで見たどんな色よりも、複雑で、不完全で、そしてどうしようもなく愛おしい色彩の奔流だった。
完璧な透明よりも、なんと豊かなのだろう。この混沌とした美しい光こそが、人の心なのだ。そして、愛とは、相手の心に揺らめく全ての光を、ただありのままに受け入れることなのだと、私は知った。
私は、彼の声が描くオーロラに包まれながら、静かに微笑み返した。私たちの本当の対話は、今、始まったばかりだった。