遺晶の静脈

遺晶の静脈

0 3927 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:

第一章 空白の遺晶

父が死んだ。

その報せは、冬の初めの冷たい雨のように、僕、水無月健太の心を静かに濡らしていった。病院の白い廊下で医師から告げられた言葉は、まるで遠い国の出来事のように現実感がなかった。享年六十二。数年前から患っていた心臓の病が、静かにその命の灯を吹き消したのだという。

僕と父、正一との関係は、ここ数年、すっかり冷え切っていた。母、美咲が亡くなってからというもの、父は書斎に籠もりがちになり、僕との会話も日に日に減っていった。同じ家の中にいながら、互いの間に見えない壁が存在するような、そんな息苦しい日々だった。

この世界では、人が死ぬと、その人生で最も大切だった家族との記憶が、美しい結晶となって一つだけ遺される。それは「遺晶(いしょう)」と呼ばれ、故人が家族へ遺す最後の贈り物だと信じられていた。琥珀色の暖かい光を放つもの、深い海の青を湛えたもの、その形や色は故人の想いによって千差万別だ。僕は遺晶を鑑定し、修復する職人をしている。だからこそ、その価値と意味を誰よりも理解しているつもりだった。

父の葬儀が終わり、二人きりになった家で、僕は父の遺品を整理し始めた。目的は一つ。父が遺したはずの遺晶を見つけ出すことだ。しかし、いくら探しても、それらしきものはどこにもなかった。寝室の引き出し、書斎の金庫、父が大切にしていた万年筆の箱の中まで、すべて空だった。

遺晶が遺されない。それは、この世界において、家族を大切に思っていなかったことの、何より残酷な証明だった。

「……嘘だろ、親父」

掠れた声が、埃っぽい部屋に虚しく響いた。母を亡くしてから、僕たち親子は確かにうまくいっていなかった。だが、それでも家族だったはずだ。父の中に、僕や母との大切な記憶は、ひとかけらも存在しなかったというのか。

冷たい雨音が、窓ガラスを叩き続けていた。それはまるで、僕の心を覆い始めた疑念と絶望の音色のように聞こえた。父の死という事実よりも、この「空白」こそが、僕の日常を根底から覆す、残酷な始まりだった。

第二章 掠れた日記と父の影

父への不信感と虚しさを抱えたまま、僕は遺品整理を続けた。そんな中、書斎の古びた本棚の裏から、一冊の分厚い日記帳を見つけ出した。表紙には父の几帳面な文字で「正一」とだけ記されている。

ページをめくると、そこには僕の知らない父がいた。母との出会い、初めてのデートで緊張して言葉に詰まったこと、僕が生まれた日の夜、小さな手を握りしめながら夜明けまで泣き続けたこと。インクの滲んだ文字から、不器用ながらも深い愛情が溢れ出ていた。

僕は夢中で読み進めた。父は、僕が思っていたような無口で冷たい人間ではなかった。ただ、愛の表現が下手なだけだったのだ。そう思い始めた矢先、日記の記述は徐々に変化していく。母が病に倒れた頃からだ。

『美咲の笑顔が、少しずつ薄れていく。まるで陽炎のように。』

『医者は何もしてくれない。僕が、僕の手で、彼女の記憶を守らなければ。』

そして、母が亡くなった後のページには、不可解な言葉が並んでいた。

『結晶が、蝕んでいく。僕の静脈を、想いが逆流している。』

『健太には気づかれてはならない。この愛は、僕と美咲だけの聖域だ。』

『もうすぐ完成する。僕という器を使った、最高の遺晶が。』

日記はそこで途切れていた。意味が分からなかった。「結晶が蝕んでいく」とはどういうことか。父は一体、何をしようとしていたのか。

遺晶がないのではなく、何か別の理由がある。そう直感した僕は、父の過去を辿ることにした。遺晶に関する非合法な研究をしているという噂のある、父の古い友人を訪ねた。彼は僕の話を聞くと、青ざめた顔で重い口を開いた。

「……それは、『記憶の飽和』と呼ばれる禁忌の研究だ」

彼が語ったのは、にわかには信じがたい話だった。特定の強い感情、特に愛や喪失感が極限まで高まると、稀に身体そのものが記憶を吸収し、一つの巨大な記憶結晶へと変質することがあるという。それは、他のすべての記憶を「燃料」として喰らい尽くし、ただ一つの想いだけを永遠に留めるための、究極の自己犠牲。

「君のお父さんは……おそらく、奥様を亡くされた悲しみと、彼女との思い出を守りたいという強すぎる想いから、自らを選んだんだ。自分の身体を、奥様のための結晶にする器として」

言葉を失った。父が僕を避けていたのは、嫌っていたからではなかった。進行していく身体の結晶化を、そして僕との記憶さえもが喰われていく様を、悟られないようにするためだったのだ。父は僕を遠ざけることで、僕を守ろうとしていたのかもしれない。

「親父……」

僕が抱いていた父への疑念は、音を立てて崩れ落ちた。その下から現れたのは、想像を絶するほどの、歪で、そしてあまりにも純粋な愛の形だった。

第三章 虹色の心臓

友人の言葉を頼りに、僕は再び父の書斎へ戻った。そこにはまだ、僕が見つけていない何かがあるはずだ。壁一面の本棚を一つ一つ調べ、床板を叩き、天井を見上げる。そして、ふと、父がいつも座っていた革張りの椅子の後ろ、壁に埋め込まれた一枚の肖像画に目が留まった。若き日の母の、優しい笑顔。

何かに導かれるようにその絵を外すと、背後には小さな隠し戸棚があった。軋む音を立てて扉を開ける。

その瞬間、僕は息を呑んだ。

棚の奥、ビロードの布の上に鎮座していたのは、人間の心臓ほどもある、巨大な結晶だった。それは単色ではない。内側から滲み出すように、無数の色が混じり合い、複雑な虹色の光を放っている。表面は滑らかで、まるで生きているかのように、ゆっくりと脈動しているようにさえ見えた。

これが、父の……。

恐る恐る、指先でそっと触れる。

その瞬間、奔流が僕の意識を飲み込んだ。

それは、記憶の洪水だった。桜並木の下で母にプロポーズする、緊張した父の声。新婚旅行で訪れた海辺ではしゃぐ二人の笑い声。僕が生まれると知らされた日、涙を流して母を抱きしめる父の腕の温もり。幸せに満ちた、輝かしい記憶の数々が、僕の五感を直接揺さぶる。

だが、その記憶の奔流の中に、僕自身の姿はほとんどなかった。僕の成長、僕との会話、僕と過ごした時間。それらの記憶は、この巨大な結晶を形成するための礎として、すべて吸収され、溶かされてしまっていた。

父は、僕との記憶を犠牲にしてまで、母との思い出を守りたかったのだ。

父の最後の数年間、僕が感じていた疎外感の正体はこれだったのか。父は僕を愛していなかったわけではない。ただ、その愛さえも、母への巨大な愛を完成させるための薪としてくべてしまったのだ。

「なんて……なんて、馬鹿な人なんだ、親父は……」

涙が頬を伝って、虹色の結晶の上に落ちた。結晶は、僕の涙に呼応するように、一際強く、そして温かい光を放った。それはまるで、不器用な父が、ようやく僕に差し出した、最初で最後の謝罪のように思えた。僕はその場に崩れ落ち、嗚咽しながら、父が遺した愛の塊を、ただただ見つめ続けることしかできなかった。

第四章 愛という名の静脈

どれくらいの時間、そうしていただろうか。涙が枯れた頃、僕はゆっくりと立ち上がり、再びその虹色の結晶を両手で包み込むように持ち上げた。ずっしりと重い。それは、父の六十二年分の人生の重みそのものだった。

もう一度結晶に意識を集中させると、今度は別の記憶が見えた。それは、結晶化が進み、意識が混濁していく中で、父が必死に抵抗している姿だった。食い尽くされそうになる僕との僅かな記憶を、父は必死に手繰り寄せようとしていた。公園でキャッチボールをした日。初めて自転車に乗れた僕を、後ろから支えてくれた大きな背中。それらの断片的な記憶は、母との膨大な記憶の奔流の中で、消えかけの灯火のように儚く揺らめいていた。

父は、最後まで父親であろうとしていた。僕の記憶を失うことに、苦しみ、抵抗していたのだ。

「……そっか。親父も、戦ってたんだな」

僕は結晶を強く抱きしめた。温かい。まるで父の体温がまだそこに在るかのように。

父が遺したのは、空白ではなかった。それは、一人の人間が、たった一つの愛を守るために全てを捧げた、壮絶な記録そのものだった。家族の形は一つではない。愛の形も、そして記憶の形も、一つではないのだ。父は、父だけの方法で、家族を愛し、守り抜いた。

その日から、僕の日常は変わった。父の書斎は、僕にとって特別な場所になった。虹色の結晶を机の上に置き、時折それに触れては、父と母の記憶に耳を澄ます。それは、僕が決して知ることのできなかった、二人の愛の物語だった。

僕は遺晶鑑定士の仕事を続けている。様々な家族の、様々な想いが込められた結晶に触れるたび、僕は父のことを思い出す。父の愛は、常識から見れば歪で、自己満足だったのかもしれない。僕を孤独にしたことにも変わりはない。

それでも、僕は父を誇りに思う。

ある晴れた日の午後、僕は父の結晶を柔らかい布で磨いていた。光を受けた結晶の内部に、一瞬だけ、幻が見えた気がした。それは、若い頃の父と母が、幼い僕の手を引いて、笑顔でこちらに歩いてくる姿だった。

それは僕自身の記憶なのか、それとも父が守りたかった記憶の欠片なのか、もう分からない。

だが、それでいいのだ。

僕はこの虹色の心臓を、父の愛の静脈を、これからもずっと守り続けていく。それが、僕なりの家族の愛し方なのだから。家の窓から差し込む陽光が、結晶を透過し、壁に小さな虹を作っていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る