第一章 零れたインクと存在しない志士
時任 環(ときとう たまき)の指先が、古びた和紙の上で震えていた。彼女が所属する歴史編纂局・特殊事象対策課、通称「インク拭い」の仕事は、歴史の綻びを修復することだ。彼らが扱う「綻び」とは、比喩ではない。それは物理的に、この世界に染み出すインクなのだ。
歴史とは、確定された巨大な書物のようなもの。しかし、時折、その書物からインクが零れ落ちる。それは、選ばれなかった可能性、抹消された事実、あるいは忘れ去られた人々の記憶の残滓。我々の仕事は、それが正史に混じり、世界を混乱させる前に、特殊な溶剤で拭い去ること。ただ、それだけだ。
神保町の古書店街、その片隅にある埃っぽい店から緊急コールが入ったのは、今日の昼過ぎだった。店主が「ありえない古文書を見つけた」と怯えた声で通報してきたのだ。現場に到着した環は、店の奥、黴と古紙の匂いが混じり合う一角で、問題の品を見つけた。一枚の血判状だった。
「――影山龍之介(かげやまりゅうのすけ)」
墨痕鮮やかな署名に、環は眉をひそめた。歴史編纂局のデータベースに、そんな名の幕末の志士は存在しない。だが、この血判状から放たれる微かなオーラは、紛れもなく「本物の歴史」のそれだった。そして、問題は署名の横に捺された血判。それは乾ききっておらず、まるでたった今押されたかのように、じわりと和紙に滲み出していた。これが「インク漏れ」だ。
環は手袋越しながら、慎重に血判に指を近づけた。その瞬間、ツンと鼻をつく鉄錆の匂いと共に、幻聴が脳を貫いた。怒号、刀と刀が打ち合う甲高い音、そして、低く、しかし確固たる意志を秘めた男の声。
『夜明けは、近い』
環は思わず後ずさった。強力な残留思念。これは、単なるインク漏れではない。特級歴史事象に分類される、極めて危険な兆候だった。存在しないはずの志士、影山龍之介。彼はいったい何者で、なぜ、百五十年以上の時を超えて、その存在を主張し始めたのか。環の背筋を、冷たい汗が伝った。このインクは、ただ拭い去るだけでは済まないかもしれない。日常が、歴史の重みできしみ始めている。その不吉な予感が、環の心を捉えて離さなかった。
第二章 正史の番人と影の英雄
歴史編纂局に戻った環は、回収した血判状を特殊ケースに収め、分析にかけた。結果は環の予想を裏切らなかった。インク――この場合、影山龍之介の血――には、極めて高濃度の「歴史情報」が含まれていた。それは、私たちの知る「正史」とは決定的に異なる、もう一つの幕末の物語を内包していた。
「余計な詮索はするな、時任」
報告書を読んでいた上司の九条が、冷徹な声で言った。彼は局内でも指折りのエリートで、感情を表に出すことがない。「我々の任務は、規定通りにインクを中和・消去し、歴史の連続性を維持すること。それ以上でも、それ以下でもない」
「しかし、九条課長。これほどの情報量を持つインクは前例がありません。影山龍之介という人物が、我々の知る歴史に与えた影響を調査すべきでは?」環は食い下がった。あの幻聴で聞いた声が、耳の奥でまだ響いている気がしたのだ。
九条は眼鏡のブリッジを押し上げ、氷のような瞳で環を見据えた。「正史とは、無数の可能性の中から、最も安定した未来を導き出すために選ばれた『唯一解』だ。それ以外の可能性は、すべてノイズであり、バグに過ぎん。君の仕事はバグを駆除することだ。バグに共感することじゃない」
九条の言葉は正論だった。環も、そう教えられてきた。だが、彼女は諦めきれなかった。夜、誰にも内緒で、局の深層アーカイブにアクセスした。影山龍之介の名前で検索しても、何もヒットしない。だが、キーワードを「坂本龍馬」「近江屋事件」に変え、正史から削除された断片情報を検索した時、環は息を呑んだ。
『――龍馬の死後、その遺志を継ぎ、薩長同盟を維持せしめた影の男あり。名は記録に残らず』
『――新政府の要人暗殺計画を未然に防いだ浪士の存在。彼の行動なくして、明治の夜明けは遅れたやもしれぬ』
断片的な記録の数々。それらはすべて、正史の裏側で暗躍した名もなき人物の存在を示唆していた。それらが、もしすべて影山龍之介という一人の男の功績だったとしたら? 彼は、歴史の表舞台に立つことなく、友の夢のためにその身を捧げ、そして誰にも知られず消えていった英雄だったのではないか。
環の胸に、熱い何かがこみ上げた。これはバグなどではない。歴史の書物から、あまりにも理不尽に引き剥がされた、一つの偉大な章なのではないか。なぜ、彼の存在は消されなければならなかったのか。インクの染みは、環に無言で問いかけていた。拭い去ることだけが、本当に正しいことなのか、と。
第三章 地下の告白
インク漏れの発生源を特定するため、環は局内のエネルギー流動を追跡した。その結果は、彼女を愕然とさせた。流れは、局の最深部、通常は誰も立ち入らない「廃棄史料保管庫」へと続いていたのだ。そこは、過去に消去された無数の「ありえたかもしれない歴史」のインクが、永久に封印されている場所だった。
重い防護扉を開けると、ひんやりとした空気が環の肌を撫でた。黴と、インクの原料となる特殊な鉱物の匂いが立ち込めている。無数のシリンダーが並ぶ薄暗い通路の奥に、人影が見えた。
「……誰かいるんですか?」
ゆっくりと振り返ったのは、白髪の老人だった。見覚えのある、優しい顔。
「環か。大きくなったな」
「お爺ちゃん……? どうしてここに……」
それは、数年前に歴史編纂局を引退したはずの、彼女の祖父・時任宗助だった。祖父の手元には、小さな装置があり、保管庫のシリンダーの一つに接続されていた。そのシリンダーのラベルには、『幕末動乱期・分岐可能性γ(ガンマ)』と記されている。影山龍之介のインクは、そこから漏れ出していたのだ。
「お爺ちゃんが、やったの……?」環の声は震えていた。
宗助は、悲しげに微笑んだ。「すまない。だが、どうしても、あいつの物語をこのまま闇に葬り去ることができなかった」
祖父は、すべてを語り始めた。歴史編纂局が発足した当初、彼らは無数に存在する歴史の可能性の中から、一つだけを「正史」として選び出すという、神をも恐れぬ作業を行っていたという。安定した未来のため。それが大義名分だった。そして、多くの英雄譚や悲劇が、「選ばれなかった歴史」としてインクに変えられ、この地下に封印された。
「影山龍之介は、坂本龍馬が近江屋で暗殺された、我々の知る歴史とは別の世界線で、龍馬の意志を継いだ男じゃ。彼は友の夢のために汚名を被り、影として生き、新しい時代への道を切り拓いた。だが、その功績が大きすぎた故に、他の歴史との整合性が取れなくなり、彼の存在する世界線は『不安定』と判断され、廃棄されることになった」
宗助は、若い頃、その廃棄作業を担当した一人だった。英雄の記憶が、ただのインクの染みに変わっていく様を、彼はなすすべもなく見ているしかなかった。
「正しさとは、何だ、環?」祖父は、皺の刻まれた手で環の肩に触れた。「我々が『正しい』と信じているこの歴史は、ただ、多数決で選ばれただけの物語に過ぎんのかもしれん。ならば、たった一人でもいい。誰かに覚えていてもらうことでしか、救われない魂もあるのではないか。わしは、そう思ったんじゃ」
環は言葉を失った。正史を守るという、揺るぎないはずだった使命が、足元から崩れ落ちていく感覚。絶対的な正義など、どこにも存在しなかった。自分たちが今まで「バグ」として消してきたインクの一つ一つに、影山龍之介のような、誰かの人生と、物語と、魂が込められていたのだ。その事実に打ちのめされ、環はその場に立ち尽くすしかなかった。
第四章 ひとしずくの選択
祖父の告白は、環の世界を根底から覆した。九条の言う「唯一解」も、祖父の言う「選ばれた物語」も、どちらも真実なのだろう。だが、自分はどちらの真実を選べばいいのか。
環は、影山龍之介のインクが収められた特殊ケースを手に、自室に戻った。蓋を開けると、血の染みはまるで呼吸しているかのように、微かに明滅しているように見えた。指先で触れると、再びあの声が聞こえる。今回はもっと鮮明だった。友の死を嘆く悲痛な叫び、孤独な戦いの中で見上げた月、そして、新しい時代の夜明けを確信した、静かな喜び。彼の人生の断片が、奔流のように環の心になだれ込んできた。涙が、頬を伝った。
これは、ただのバグなんかじゃない。確かに生きて、戦い、そして忘れ去られていった、一人の人間の魂そのものだ。
翌日、環は決意を固めて、廃棄史料保管庫へ向かった。そこには、彼女を待っていたかのように九条が立っていた。
「祖父君のことは、薄々感づいていた。君がどうするか、見届けに来ただけだ」彼は静かに言った。
環は無言で、インクの中和消去装置を起動した。装置が低く唸り始め、影山のインクを収めたシリンダーにアームが伸びていく。九条の目に、安堵とも憐憫ともつかない色が浮かんだ。
だが、環は消去プロセスの最終承認ボタンを押す直前、アームを止めた。そして、懐から取り出した万年筆のペン先で、シリンダーからほんのひとしずくだけ、インクを吸い取った。虹色に光る、粘り気のある液体。それは、一人の英雄の人生の結晶だった。
「何を……?」九条が目を見開く。
「歴史は、一つでなければならない。それが私たちの世界のルールだから。だから、影山龍之介の物語は、ここで消去します」環はそう言うと、改めて消去ボタンを押した。シリンダーの中のインクが、光に包まれて霧散していく。
「でも」環は続けた。「忘れられた物語に、敬意を払うことまで禁じられてはいないはずです」
彼女は、吸い取ったインクのひとしずくを、自分の業務手帳の最後のページに、そっと落とした。インクは、純白の紙の上に小さな黒い染みとなって、静かに定着した。それはまるで、遠い昔の夜空に浮かぶ、名もなき星のようだった。
九条は何も言わず、ただその染みを見つめていた。やがて彼は背を向けると、「報告書は、私が書いておく」とだけ呟き、去っていった。
一人残された環は、手帳の染みに指でそっと触れた。もう、幻聴は聞こえない。だが、確かな重みと温かさが、指先から伝わってくる気がした。
歴史は巨大な書物だ。そして自分は、その番人。けれど、ただページを守るだけではない。時には、欄外に、消された者たちのための小さな注釈を書き加える。それが、この世界で自分が見つけた、新しい使命なのかもしれない。
環は手帳を閉じ、光の消えた保管庫を後にした。彼女の歩みは、昨日までとは少しだけ違っていた。絶対的な正しさを信じる少女はもういない。そこには、無数の物語の重みを引き受け、自らの選択に責任を持つ一人の女性が立っていた。手帳に宿るひとしずくの染みと共に、彼女はこれからも、歴史という名の、終わりなき物語を歩んでいくのだろう。